はてなキーワード: 1941年とは
敵が侵略してきて、戦争の当事国になった場合、株式市場がどう動くかを調べた。
WW2で日本が真珠湾攻撃をして太平洋戦争が始まったときに、アメリカの株価がどうなったのかをAIとともに検証して、どう振る舞うべきかを考えました。
https://grok.com/share/bGVnYWN5_092fa4eb-777d-4710-a8b1-e68c61408d3e
1941年12月7日~13日のダウ平均の動き 12月7日(日曜日): 真珠湾攻撃発生。市場は閉まっていた(当時は土曜も半日取引があったが、日曜は休場)。 12月8日(月曜日): 攻撃の翌日、市場が再開。ダウ平均は前日終値112.52から108.58へ下落(約-3.5%)。アメリカの参戦表明もあり、リスクオフムードが広がった。 12月9日(火曜日): 下落は続き、106.34まで落ちた(この日だけで約-2.1%)。不確実性が市場を圧迫。 12月10日(水曜日): 若干の反発があり、107.27へ(約+0.9%)。売り一巡後の小幅な買い戻し。 12月11日(木曜日): 再び下落し、105.88へ(約-1.3%)。戦争の影響が消化しきれず。 12月12日(金曜日): 104.94まで下落(約-0.9%)。週末に向けて慎重な動き。 12月13日(土曜日): 当時は土曜も半日取引があり、104.31で終了(約-0.6%)。 この週全体で見ると、12月6日終値(112.52)から12月13日終値(104.31)まで、約-7.3%の下落となりました。初日の急落が最も大きく、その後はジリ貧ながら下落が続いた形です。
このようにじり下げしていったらしい。
私の考察は、"機関投資家(クジラ)は1日で買い終わらないの逆もまた真で、クジラは1日では売り終わらないので、だらだらと下げていく"です。
リバはあるかもしれないけど、即投げるリスクオフが最適な気がした。
もちろん、軍事セクターや軍需物資セクターを持っているなら話は別ですが。
どれが軍需セクターかわからないならとりあえず全部投げて、あとで買い戻すというのもありでしょう。
なお、当時の日本の市場はどうなのかと調べてみたところ、奇襲成功で高騰したらしい。
ただ、当時の日本は日中戦争をやっている最中で"すでに戦時中"であり、平時から戦時に突入したわけではないので、このデータはあまり参考にならないと思った。
### ウクライナの株式市場 ウクライナの主要株式市場は「PFTS(ウクライナ取引所)」で、PFTS指数が代表的な指標です。しかし、侵攻直後の2022年2月24日、ロシア軍の攻撃開始に伴い、ウクライナの株式市場は即座に取引停止となりました。これは戦争による物理的・経済的混乱を反映したもので、市場が機能する状況ではなくなったためです。 - **2月24日以前**: 侵攻前の2月23日時点で、PFTS指数は約510ポイント前後(日次終値ベース)。すでにロシア軍の国境集結で緊張が高まり、数週間前から下落傾向でした。 - **2月24日以降**: 取引停止のため、公式な株価データは存在しません。市場再開は数か月後の2022年8月まで待たねばならず、再開時のPFTS指数は大幅に下落し、300ポイント台まで落ち込んでいました(約40%減)。 - **反応の特徴**: ウクライナでは、侵攻当日から市場が閉鎖されたため、株価の「即時反応」は観測できません。ただし、侵攻前の数週間で既に投資家がリスクを織り込み、売りが進んでいたことが分かります。 ### ポーランドの株式市場 ポーランドの主要指数は「WIG20」で、ワルシャワ証券取引所が拠点です。ウクライナの隣国として、地政学的リスクが強く意識されました。 - **2月23日(侵攻前日)**: WIG20終値は約2,144ポイント。 - **2月24日(侵攻当日)**: 終値は2,015ポイントで、約-6.0%の下落。ロシアの攻撃開始が報じられ、リスクオフが加速。 - **2月25日**: 1,941ポイント(-3.7%)。下落が続くが、前日ほどの急落ではない。 - **3月1日(侵攻後5営業日)**: 1,857ポイントまで下落(週全体で約-13.4%)。その後、3月2日には若干反発し1,900ポイント台に。 - **1週間の騰落率**: 2月23日から3月2日で約-11.5%。地理的な近さとウクライナへの人的・経済的結びつきの強さから、市場は強く反応しました。 ### ドイツの株式市場 ドイツの主要指数は「DAX」で、フランクフルト証券取引所が中心です。ポーランドの隣国であり、欧州経済の要として、ロシアへのエネルギー依存度の高さも影響しました。 - **2月23日(侵攻前日)**: DAX終値は14,731ポイント。 - **2月24日(侵攻当日)**: 14,052ポイントで終了(約-4.6%)。欧州全体でリスクオフが広がり、エネルギー価格急騰への懸念も。 - **2月25日**: 14,567ポイント(+3.7%)。一旦反発。市場が「最悪のシナリオ」を過度に織り込んだ後の買い戻し。 - **3月1日(侵攻後5営業日)**: 13,904ポイント(週全体で約-5.6%)。その後、3月2日は14,100ポイント台に回復。 - **1週間の騰落率**: 2月23日から3月2日で約-4.3%。ポーランドほどの下落幅ではないが、エネルギー供給不安(ロシアのガス依存)が重しに。 ### 比較と考察 - **ウクライナ**: 市場停止でデータなし。戦争当事国として直接的影響が最大。 - **ポーランド**: 隣国ゆえに下落率が大きく、1週間で-11.5%。ウクライナ難民流入や国境での緊張が投資家心理を冷やした。 - **ドイツ**: 欧州の大国だが距離がある分、下落は-4.3%と緩やか。初日の急落後、反発が早かったのは、市場の効率性と経済の多様性が影響か。 ### 補足:リスクオフとその後 侵攻初週は、どの市場もリスクオフが支配的でした。ポーランドやドイツでは、2月24日の急落後、数日で反発が見られたのは、NATOの介入リスクが低いと市場が判断したことや、エネルギー供給の代替策への期待が背景にあります。一方、ウクライナ市場は再開まで動かず、戦争の直接的被害を反映しています。
ほかの事故や事件と比べて、戦争やクーデーターが起きると経済活動が止まってしまう(銃弾が飛び交う中では商売どころではない)ので、最悪の事象です。
即全部投げて逃げるが勝ちですね。
逃げ遅れた場合は翌日の寄りで逃げましょう。
すごい似てると思わない?
冬戦争(Winter War, Talvisota, Зимняя война)とは?
冬戦争は、1939年11月30日から1940年3月13日まで、ソビエト連邦(ソ連)とフィンランドの間で戦われた戦争です。
この戦争は、ソ連がフィンランドに対し領土割譲と軍事基地の提供を要求し、それを拒否したフィンランドに対してソ連が侵攻したことが発端となりました。
ソビエト連邦(ソ連)はフィンランドに対して主に以下のような要求をしました。
ソ連の公式な理由は「レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の安全保障」でしたが、実際にはフィンランドを軍事的に従属させる意図があったと考えられています。
1. カレリア地峡の割譲 ソ連はフィンランドに対し、カレリア地峡の一部(フィンランド側の国境をレニングラードからさらに西へ押し下げること)を要求しました。
2. フィンランドの島々(フィンランド湾)の譲渡 ソ連はフィンランド湾にあるいくつかの島々(コイヴィスト島など)の譲渡を要求しました。
3. ソ連軍の基地提供 ソ連はフィンランド国内に軍事基地を設置し、ソ連軍が駐留することを要求しました。
4. 交換条件としてカレリア地方の一部を提供 フィンランドの譲歩を促すため、ソ連は「代わりに東カレリア(レナ・カレリア地方)をフィンランドに割譲する」と提案しました。
フィンランド政府はソ連の要求を何度か交渉しつつも最終的に拒否しました。
1939年10月、フィンランド政府はソ連の要求に対して「一部の領土調整は可能だが、軍事基地の提供は拒否する」と返答
1939年11月、交渉決裂し、ソ連はフィンランドとの外交関係を断絶
1939年11月26日、マイニラ砲撃事件(ソ連による自作自演の砲撃)を口実に戦争開始
1939年11月30日、ソ連軍がフィンランドに侵攻し、冬戦争が勃発
ソビエト連邦(ソ連)は、冬戦争前からフィンランドに対して圧力をかけ続けていました。
ソ連がフィンランドを属国化しようとした背景には、地政学的要因、軍事的戦略、そしてイデオロギー的要因が絡んでいました。
ソ連最大の都市の一つであるレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)は、フィンランド国境から約32kmしか離れていませんでした。
スターリンは、レニングラードがドイツや西側諸国(特にイギリス)にとっての侵攻ルートになり得ると考えていた。
フィンランドが独立国のままだと、万が一の戦争の際に敵国がフィンランドを通じてレニングラードに攻め込む可能性がある。
そのため、フィンランドをソ連の影響下に置くことで、国境を安全な位置まで押し下げようとした。
➡ フィンランドを属国化し、軍事基地を置くことでレニングラードを防衛する意図があった。
ソ連はバルト海の支配を強化し、西側勢力の影響を排除したいと考えていました。
フィンランドの沿岸部(特にフィンランド湾)は、ソ連の海軍基地にとって重要な位置にあった。
スターリンはフィンランドが敵対勢力(例えばイギリスやドイツ)の影響下に入ることを恐れ、属国化することでバルト海の制海権を強化しようとした。
1939年、ソ連はすでにバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)に圧力をかけ、軍事基地を設置させることに成功していた。
➡ フィンランドもバルト三国と同様に、ソ連の軍事圏内に取り込もうとした。
スターリンは、フィンランドに親ソ連政権を樹立し、共産主義国家にすることも狙っていた。
1939年11月、冬戦争が始まると、ソ連はすぐにフィンランド共産党のオットー・クーシネンを首班とする傀儡政権「フィンランド民主共和国」を樹立。
これは、バルト三国と同様にフィンランドを共産化し、ソ連の衛星国(属国)にしようとする試みだった。
しかし、フィンランド国民の強い抵抗により、この計画は失敗した。
➡ ソ連はフィンランドに親ソ共産政権を作ることで、影響力を完全に確立しようとした。
ソ連は、将来的にドイツとの戦争が避けられないと考えており、フィンランドを事前に支配下に置くことで安全保障を強化したかった。
1939年8月、独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)が締結され、東欧の勢力圏を分割する密約が交わされた。
ソ連はこの密約に基づき、ポーランド東部やバルト三国を支配下に置いた。フィンランドもその延長線上でソ連の影響下に置かれるべきと考えた。
1941年に独ソ戦(バルバロッサ作戦)が始まると、フィンランドはドイツ側についてソ連と戦った(継続戦争)。これは、ソ連がフィンランドを属国化しようとしたことが、フィンランドの対独接近を促したとも言える。
ソ連がフィンランドを属国化しようとしたのは、以下のような複合的な理由があったためです。
周波数ホッピング方式の特許をハリウッド女優と作曲家が取ったって本当ですか!?
嘘ついてない?
はい、本当です!1941年、ハリウッド女優のヘディ・ラマー(Hedy Lamarr)と作曲家のジョージ・アンタイル(George Antheil)は、無線通信の「周波数ホッピング方式」に関する特許(US Patent 2,292,387)を取得しました。
彼らは専門家ではありませんでしたが、当時の無線通信の課題を見抜き、独自の発想で画期的な解決策を考案したのです。
第二次世界大戦中、アメリカは**無線で操縦する魚雷(無線誘導魚雷)**の開発を進めていました。しかし、敵に通信を妨害(ジャミング)されると、魚雷の制御が効かなくなるという問題がありました。
📌 問題点
当時の無線通信は固定周波数で行われており、敵がその周波数を特定すれば簡単に妨害できた。
もし通信が妨害されると、無線誘導魚雷は制御不能になってしまう。
📌 彼らのアイデア
周波数を短時間で次々に変えることで、敵の妨害を受けにくくする(周波数ホッピング方式)。
送信機と受信機が同期して同じパターンで周波数を切り替えることで、常に正しい通信を維持する。
(1) ヘディ・ラマーの背景
彼女は単なるハリウッド女優ではなく、非常に聡明で科学に興味があった。
彼女の元夫は、ドイツの兵器商人であり、彼を通じて軍事技術(無線通信や兵器システム)についての知識を得ていた。
📌 ヘディ・ラマーの発想
彼女は、「固定周波数の通信は妨害されやすい」という問題に気づき、「周波数を変えながら通信すればいいのでは?」と考えた。
彼はピアノのロール(自動演奏のための穴が空いた紙テープ)を応用して、無線の周波数を自動で変化させるアイデアを考えた。
📌 アンタイルの発想
「ピアノの鍵盤を自動で押すロールのように、無線の周波数を自動的に切り替えられないか?」
これが、周波数ホッピングを機械的に制御する方式のアイデアとなった。
3. 彼らの発明の仕組み
彼らの特許(US Patent 2,292,387)は、「**秘密通信システム(Secret Communication System)」という名称で、**以下のような仕組みを提案していました。
送信側と受信側で、同じ「周波数の切り替えパターン」を事前に決めておく。
敵が周波数を特定しようとしても、通信が瞬時に別の周波数へ移動するため、妨害しにくくなる。
ピアノの自動演奏のように、「どのタイミングでどの周波数に切り替えるか」を制御するシステムを考案。
これにより、送信機と受信機が完全に同期して周波数を変更することが可能になった。
4. 彼らの発明の影響
(1) 軍事技術としての発展
当時の軍はこの発明を採用しなかった(技術的に実装が難しかったため)。
しかし、後に電子回路の発展(トランジスタ・デジタル制御)が進むと、この技術が再評価された。
1960年代、アメリカ軍がこの技術を軍事通信(ミサイル誘導・レーダー通信)に採用した。
この周波数ホッピングのアイデアは、現代の無線通信技術の基礎となり、以下の技術に応用されている。
独ソ戦(1941-1945年)におけるレンドリースの影響については、歴史学者の間でも意見が分かれています。「もしレンドリースがなければソ連は負けていたのか?」という問いに対して、いくつかの観点から考えてみます。
レンドリース(Lend-Lease Act)は1941年3月にアメリカで成立し、ソ連への本格的な供給は1942年後半以降に加速しました。供給された物資は戦車や航空機、トラック、食料、鉄道資材、無線機、石油製品、アルミニウム、爆薬など多岐にわたります。特に以下の点で大きな影響を与えました。
• 輸送力の強化
ソ連軍の輸送トラックの約3分の2はアメリカ製(特にGMCやスタッドベーカー製のトラック)であり、機動戦を支える重要な要素でした。もしこれがなかった場合、補給や部隊の移動が大きく制約され、戦場での柔軟な運用が難しくなっていたでしょう。
• 食料供給
ソ連は戦時中、大きな食糧難に直面していました。アメリカから送られた缶詰や粉ミルクなどは前線の兵士を支え、兵站を安定させました。
航空機の生産に不可欠なアルミニウムや、高性能航空燃料、無線通信機器など、ソ連国内では不足していた戦略物資が大量に供給されました。
独ソ戦では鉄道輸送が重要でしたが、レンドリースによりレールや機関車も提供され、兵站能力が向上しました。
これは反実仮想の議論になるため、確定的な答えはありませんが、いくつかの視点を考慮できます。
1941年から1942年にかけての戦い(モスクワ攻防戦、スターリングラードの攻防など)では、レンドリースの影響はまだ限定的でした。この時期にソ連が粘り強く戦い、戦争を継続する体制を整えたことを考えると、「レンドリースがなければ即敗北していた」とは言い切れません。
クルスクの戦い(1943年)やその後の東部戦線の反攻作戦では、レンドリースによる物資供給が大きく影響しました。特に、アメリカのトラックによる機動力強化は、ソ連軍がドイツ軍を圧倒する一因となりました。もしこれがなければ、ソ連の進撃速度が遅れ、ドイツ軍の抵抗がより長引いていた可能性があります。
レンドリースがなければ、ソ連はより多くの犠牲を払っていた可能性が高いです。戦争の継続はできたかもしれませんが、前線の兵士の食糧・補給が不足し、戦車や航空機の生産が滞り、攻勢が遅れた可能性があります。最終的にソ連が勝利したとしても、それは1945年ではなく、もっと遅い時期になっていたかもしれません。
• レンドリースがなかった場合、ソ連が即座に敗北していたとは言えない。
• 1941~42年の決定的な防衛戦(モスクワ・スターリングラード)は、ソ連の努力による部分が大きい。
• 1943年以降の戦局では、アメリカからの物資が重要な役割を果たした。
• レンドリースがなければソ連軍の攻勢が遅れ、ドイツとの戦争が長引いた可能性が高い。
結論として、「レンドリースなしでソ連がドイツに負けた」とは断言できませんが、ソ連の勝利がより困難で、大きな犠牲を伴ったことは確実でしょう。
●ナポレオン・ボナパルト 「皇帝がイタリアの近くで生まれるだろう・・・」「・・・短髪が総督の座につき・・・十四年間暴君として君臨する」 ●ナチスドイツ 「マモンの大教主がドナウ川の両岸を征服するだろう・・・かぎ型の十字を・・・」 ●真珠湾攻撃(1941年) 「真珠の港は火で焼き尽くされるだろう」 ●広島、長崎の原爆投下(1945年) 「港のそばの二つの都市にはかつてない災いがあるだろう・・・」 ●ケネディ大統領暗殺(1963年) 「偉人の上に屋根から不幸が襲う・・・無実の者が告発され、犯人は隠される・・・」 ●ベルリンの壁崩壊(1989年) 「東の壁は崩れるだろう・・・」 ●湾岸危機以降のサダム・フセイン(1990年以降) 「卑しく、邪悪で、忌まわしいメソポタミアで暴君となる者・・・」 ●ダイアナ元イギリス皇太子妃の事故死(1997年) 「預言者の名前の最後から二番目がダイアナをとるだろう・・・」 ●アメリカ同時多発テロ事件(2001年9月11日) 「ヨークの都市では大きな倒壊があるだろう・・・」
思い立ったので書く
https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
多くの自動車メーカーに影響を与え、後に自動車のスタンダードとなるような技術・理念を持つことを選考基準とした
世界初のガソリン内燃機関を動力とする3輪自動車。現代の自動車の始祖にあたる。
自走式の自動車はモートルヴァーゲン以前に前例があるものの、馬車を改造したものでしかなかった。機動性と実用性を考慮し、ドライバーが手足のように操作できることを念頭に開発された自動車は、モートルヴァーゲンが初となる。「バランスを取ることなく、ドライバーが自由にコントロールできる自走式の乗り物」を自動車とするならば、それを定義したのがこのモートルヴァーゲンといえる。
発明者のカールベンツはメルセデス・ベンツ創始者の一人。その妻であるベルタベンツは1888年、旦那に内緒でモートルヴァーゲンを持ち出し、息子2人と長距離旅行(実家に里帰り)を敢行。ガソリンスタンドなど無い時代に、幾多の故障とトラブルを乗り越えながら往復200kmの長距離走行を成功させている。この時の経験は、モートルヴァーゲンの改良に大いに役立ったという。
世界初の大量生産車。ヘンリー・フォードによるライン生産方式の発明により、一部の富裕層の乗り物であった自動車が大衆のものになった。自動車史のみならず、人類の歴史にに大きな足跡を残した偉大な車である。
大成功を収めたフォードであったが、その十数年後にはゼネラルモータースの台頭により、フォードは窮地に立たされることになる。
いわゆる「ビートル」。基本的な設計を変えないまま2003年まで生産された。累計生産台数は2152万9464台。フルモデルチェンジを含めない単一車種の生産台数としてはぶっちぎりでトップ。
この車の偉大さを伝えるにあたり、長ったらしい解説は必要なし。世界中で広く愛され、たくさんの人々の生活を支えた。
世界で初めて衝突安全ボディを採用した車。衝突時に車体を意図的につぶすことで、衝撃を吸収し安全性を高める。
今では当たり前の技術だが、その当たり前を作り上げ沢山の命を救った功績は大きい。
3点式シートベルト(現在一般的に使われているシートベルト)を世界で初めて標準装備した車。ボルボは「安全は独占されるべきでない」としてこの特許を無償で公開。その結果3点式シートベルトは急速に普及し、世界中の自動車の安全に大きく貢献した。メルセデス・ベンツとともに敬意を。
スポーツカーとしての高い走行性能と、人や荷物を載せる実用性を高い次元で両立させた車。高級スポーツカーとしては珍しくルーフキャリアが装着可能で、荷物を屋根積みすればスキーやキャンプなどレジャーにも使える実用性を有する。初代の発売から現在に至るまで、世界中の自動車メーカーにとってスポーツカーのお手本であり続けている。
エンジン横置きFF(フロントエンジン・フロントドライブ)大衆車の先駆車。コンパクトな車体ながら広い室内空間を確保できるこのパッケージングは、現在の自動車の主流となった。
BMWにブランドが買収された後は、様々な自動車メーカーが挑戦し失敗し続けた「小さな高級車」を初めて成功させたブランドとなった。
フェラーリの創業者エンツォフェラーリが最後に手掛けたスペチアーレ(限定モデル)。希少価値を高めるため「欲しがる顧客の数より1台少なく作る」ビジネスモデルは、高級車はもちろん高級時計やブランドバッグなど、ラグジュアリーブランドビジネスとして今では一般的な手法となった。世界最強の高級ブランドフェラーリを象徴するF40は、自動車業界の枠を超えて特筆するべき製品といえるだろう。
世界初HV乗用車。初代プリウスは赤字覚悟の実験的なモデルだったが、2代目プリウスは商品力を高め大ヒットを記録した。
近年のトヨタはEVの販売が積極的でないため脱炭素できていないと叩かれがちだが、発売から現在までCO2排出削減に最も貢献した車は、他でもないプリウスである。「良い製品でも売れなければ意味がない」というトヨタの考えを地で行く名車。
走るスマートフォン。もはや自分で運転する必要などない時代を予感させ、モートルヴァーゲンが定義した自動車の定義を覆そうとしている。トヨタが「自動車メーカーからモビリティメーカーへの変革」を目指すようになるなど、世界各国の自動車メーカーが経営戦略の転換を迫られた。
また、テスラの運転支援技術が悲惨な事故を引き起こすなど、自動運転技術が普及していく過渡期として重要な出来事も引き起こしている。良くも悪くも、今後自動車史における大きなターニングポイントとして語られることは間違いない。
・1920年代のゼネラルモータース(シボレー、キャデラック等)
たくさんのブランドや車種を展開する販売戦略(多品種少量生産)やオートローンなど、現在は当たり前になっているマーケティング手法を生み出した。自動車史において非常に重要であるものの「これ!」となるような特定の車種を選ぶことができなかったため選外とした。
夢のエンジンと呼ばれたロータリーエンジン。世界中の自動車メーカーやオートバイメーカーが研究したが失敗。唯一実用化に成功したのは、東の最果てにある小さい自動車メーカーだった。高く評価されるべき技術だが、広く普及した技術とはならなかった。
ちなみに、ソ連がロータリーエンジン車を生産していた事実はあまり知られていない。一説によると3ローターの市販車は、マツダではなくはソ連が初だとも言われている。昭和51年にマツダがソ連技術者に工場を案内したことがあるらしく、その際に技術流出した(らしい)。
油圧サスペンションやモノスポークホイール、流線型で宇宙船のような外見など、意欲的な工夫が多数盛り込まれたシトロエンの傑作。特殊な車に見えるが、大衆車として145万台以上生産された。
誰もが認める名車だが、マツダロータリーと同じく一般的な技術として普及しなかったため選外。
ちなみに、油圧サスペンションの油圧はブレーキやパワステ、トランスミッションの駆動にも使われているため、何らかの原因で油圧がかからなくなると、最悪サスペンション、ブレーキ、ハンドルすべてが利かなくなる。
・メルセデス・ベンツ ミディアムクラスW124(1985年)
「最善か無か」最後の時代のメルセデスとして名高いW124型ミディアムクラス/初代Eクラス。安全性を最優先に考え、最善の自動車を実現するべくコストをかけて徹底的に開発された名車。世界中の自動車メーカーの研究対象になった。
しかし、日本車の躍進や東西ドイツ統合による経済的混乱などの理由で、メルセデスベンツはこの車以降、コストをかけた車づくりをあきらめることとなる。
日本車の高級車市場進出の象徴ともいえる一台。この車が出るまでは日本車=安くて丈夫な大衆車だったが、それを覆した。きわめて静粛な車内と乗り心地、そして高いクオリティに対する値段の安さは、全世界に衝撃を与えた。メルセデスが「最善か無か」の車づくりをあきらめたのはこの車が原因。
世界中の自動車メーカーが不可能と思われていたアメリカの環境規制、マスキー法を初めてクリアした名車。ホンダが北米市場で躍進するきっかけとなった。
ちなみに、マスキー法はビッグ3(フォード、GM,クライスラー)の反発により実質的な廃案となる。アメリカの環境規制がマスキー法同水準に達するのは、1995年になるまで待たなければならなかった。
アフリカや中東、南米ジャングルの奥地...。どんな場所でも生きて帰ってこれる車。厳しい環境で、農業や鉱業、人命救助などに活躍している。この車がないと生きていけない人が、世界中にはたくさんいる。
開発者インタビューによると、地引網漁に使われている事例もあったらしい(ランクルで浜から海にざぶざぶと入って網を投げ、引き上げる。釣った魚を売る時にも使う)。
パワーがないけど、軽量で安く走る楽しさにあふれるスポーツカー。デビュー当初、この類のスポーツカーは瀕死寸前だったが大ヒットを記録し、数々のフォロワーを生み出して今に至る。
日本と中国が排他的経済水域をめぐり争う東シナ海ガス田問題があり、1969年に試掘出願をしたが政府に保留にされた(大平正芳経産大臣)
出願から35年後の2005年7月、試掘権が付与されたが(中川昭一経産大臣)
10月に、親中派議員の二階俊博が経済産業大臣になり、この流れがストップ
2006年、国際石油開発と経営統合し、持株会社・国際石油開発帝石ホールディングスの完全子会社となった
2008年(平成20年)、際石油開発帝石ホールディングスが社名変更した国際石油開発帝石(現・INPEX)に吸収合併され消滅
https://note.com/yonahajun/n/n5f920bd34136
これ読んでぶったまげたわ。
「ゼレンスキー政権の全体を「ネオナチ」と呼ぶロシアのプロパガンダの歪みは明らかだが、独ソ戦下にドイツの側につくことでソ連��らの独立を策した、ステパン・バンデラを標榜する勢力がウクライナに存在することは事実だ。
少なくとも彼らの視点では、ナチスは「良いこと」もしたのである。そう主張する、私たちにとって十分にはクリーンでない人々とも手を組まなければ、プーチンの侵略という「悪いこと」に対抗できない。世界はそこまで、追いつめられている。 」
バンデラを英雄視するウクライナ人が、「ナチスは「良いこと」もした」とは言わんだろ。
確かにバンデラは反ソの立場からナチ・ドイツに協力しようとしたが、それは同床異夢でしかなく、独ソ戦開始直後の1941年7月にナチ・ドイツから捕らえられて、強制収容所に入れられてるんだから。
また今の情勢で「ナチスは「良いこと」もした」なんて言おうもんなら、国際世論からも非難されるうえ、ロシア・プロパガンダに塩送ることになるわけで、ウクライナ・ナショナリストもそこまでバカではないよ。
しかも、「私たちにとって十分にはクリーンでない人々」って誰を指してんの? その直後に「プーチンの侵略という「悪いこと」に対抗できない」とあるから、もちろんナチではないよな?
直前の「そう主張する」とあわせて考えると、「ナチスは「良いこと」もした、と主張するウクライナのステパン・バンデラを標榜する勢力」ということなのかもしれんが、繰り返すように、別にバンデラを英雄視するウクライナ人が「ナチスは「良いこと」もした」と主張しているわけではないからな。
とにかく日本語としてわかりにくいうえ、ウクライナの歴史ならびに歴史認識の複雑さをまったく無視した暴論としか言いようがないよ。
北欧諸国にもブルマーらしい写真を見つけることもできた、また、学校の体育で使われたと確認できるものもあった。
〇デンマークの学校教育では、1960年代から1980年代後半にブルマーが採用されている学校があった���また、レオタードを着用する例もあった。
〇スウェーデンの学校教育でも時期ははっきりしないが、ブルマーやレオタードが使われていた。
〇ノルウェーでは学校教育でブルマーの写真が確認できた。また、学校教育外ではへそ出しブルマー、ブラトップにブルマーが確認できた。
〇これは英国での影響かもしれない。英国では、学校教育で導入される以前の1930年代、1940年代から、Women's League of Health and Beautyなどで提灯ブルマーやショーツ型ブルマーが導入されていた。
https://www.youtube.com/watch?v=YmWYxulYQI4&ab_channel=BritishPath%C3%A9
https://www.youtube.com/watch?v=UbO9RAXHdHU&ab_channel=BritishPath%C3%A9
https://www.youtube.com/watch?v=HUrx29uQpwg&ab_channel=BritishPath%C3%A9
そして、これは知らなかったのだが、女性だけの場所では、へそ出しファッションもあったようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=2k5uTySJO4w&t=28s&ab_channel=BritishPath%C3%A9
ちょうどビキニの水着が生まれた頃で、少しずつへそ出しの時代が始まっていたようだ。陸上ブルマ以前のへそ出しの存在には驚いた。ヨガと書いてあるが、す1956年代ににヨガが欧州に伝わっていたのが驚きだ。ヒッピーとかの時代だと思っていた。対し蟹欧州のインド研究の歴史は長いが、大衆にまで広がるのにはタイムラグがあったはずだ。いや、ここでヨガが伝わってヒッピーが育っていった?
〇フィンランドでは、女性のみの環境では1940年代から1950年代でブルマー姿になっている女性が見られた。また1970年代のブルマー着用者ではなく、ブルマーそのものの写真も見つかった。現代の学校では、スパッツやレオタードが選べるらしい。
〇アイスランドについては資料が少ないが、現代の生徒でジャージ以外にバレエみたいな恰好をしている例を見つけた。
さて、以前、調査は国ごとにまとめて行うべきで、地域を横断するのは雑になるのではないかと思っていたのだが、こうやってブックマークしておいた画像をもとに1つの記事にまとめると、北欧にはへそ出しがあるという意外な関係性がわかるメリットがあった。
女性だけの環境では、多少大胆な格好をしてもいいのだろうか。あるいは、屋内というか体育館限定なのかもしれない。
かつての記事では、女子は人前ではスカートだが、女子だけの場所ではパンツスタイルで運動したことを書いた。
それと関係しているのだろう。
もっとも、上のWomen's League of Health and Beautyでは、うら若き女性が人前で大胆なブルマーで開脚している。
これは女性の解放・自由・権利が、家父長制に逆らって好きな格好をするほうに向かっているケースで、マドンナやテイラー・スウィフトのレオタードにも似ている。
https://genxy-net.com/post_theme04/328116l/
https://pbs.twimg.com/media/F_vqDL8W0AABet_?format=jpg&name=large
では、韓国のブルマー同然の短パンで腰を振りながら歌う女性歌手は?
わからない。だが、女性が堂々と肌を見せる権利と、それが異性愛者の男性の欲望の対象となることで起きる緊張は、今にもつながっている。
だが緊張は常に悪ではない。そこから新しい思想、ファッション、表現が生まれていく。問題なのは無知や無理解、人格攻撃であり、批判は時には深い理解からなされることだってある。純粋理性批判だって、批判は肯定的な意味じゃない。何ができて何ができないか、境目を知っておくのは大切だ。
話を戻そう。
一方で、これが本当にブルマーだったのかは留保が必要な写真もある。というのも、ごく短いスパッツのサイズが合わず、結果的にブルマーのような形になってしまっていると解釈できなくもないからである(さっきの★をつけたデンマークの写真や、☆をつけたノルウェーの写真)。つまり、結果的にブルマーに見えているだけで、最初からショーツ型ブルマーとして裁断されているわけではないのかもしれない。提灯型ブルマーかはっきりしない写真もある。
今後は他のアーカイブサイトを横断し、さらに事実確認を続けていく必要がある。
今回見つけたのは、例えばデンマークでは第二都市オーフスのアーカイブだが、それこそ首都コペンハーゲンのアーカイブを探せばもっと当時のブルマが見つかるのではないか?
ノルウェーではオスロ博物館の情報もあったが、他の諸国ではどうか。
とはいえ、画像による調査に行き詰まりを感じている。幾分、事実確認よりも画像の狩猟に近づいてきているからだ。
なので、今後は各国の言語で「体操服の歴史」と検索して、それを読むことになるだろうか。
実際、英国やオーストラリアでのブルマーの展開については、個人の記憶や体験をもとにしたブログでの証言をもとにした記事もある。ただし、人口の少ない国では苦労するだろう。前にも書いたように、ショーツ型ブルマーそのものに特に名前がなく、短パンやスパッツの一種ととらえられているとしか思えない国もある。
また、リンクの途切れたバルト三国についても、画像を探し直すやもしれない。
そう、過去の記事を見るとすでにいくらかリンク切れができている。だが、魚拓を取るのも面倒だし、どのリンクが死んでいるかを何十もある記事をさかのぼって調べるのもおっくうだ。
いつ上述の作業をしたり、続きを執筆したりするかは全くの気まぐれ、次回はいつになることやら。下手をすれば来年だ。それくらい面倒くさくなっている。というか、調べまくっていたらブルマがゲシュタルト崩壊を起こしてきた。あの頃のブルマーってあんなにハイレグだったっけ?
資料の豊富にある英語で調べた、ブルマー以外の服や手塚ブッダのおっぱいのほうがしっかりと調べ物をした実感もあるし、バズる。
けれども、少しずつはてな匿名ダイアリーでブクマを稼ぐことへの執着が前よりもさらに薄れてきており、調べものをしても増田に書くかどうか、日々怪しくなっているのである。
やるとしたらトップレスやへそ出しの歴史か、しかしそれもウィキペディアの丸写しになりそうなので、何か別の資料がいる。
それではまたどこかで会いましょう。
適当にやってたら間が悪く人的資源を使い果たしたタイミングで隣国が敵として参戦してきて詰んでしまった。次回プレイに向けてメモ書き。
NF「地方選挙」を取れるようになったらすぐに取って、それ以後のNFを取って自治度を上げていく。
自治領まで上げると、NF で「飢餓の恐れ」を解除できるようになってバッドイベントを回避できる。それ以外はあんまり効果はない。
この後は、自治領に留まっ��ダラダラするかさっさと独立するかを決めてNFを取って行った方がよい。中途半端にするとただ遅いだけになる。
NFで日々の自治度獲得を上げた後は、結局戦争で貢献して自治度を稼ぐのが一番いい。レンドリースには全然工業力が足らないし、資源の輸出は受けてくれない。駐在武官の派遣は忘れてたけどいいかもしれない。
初期状態では中道80%くらいで始まる。政治力が余った時期があったので、ディシジョンで民主主義を削って安定度の足しにしようとなんかやっていた。しかし自治度が上がって自治領になると、指導者の変化と同時にイベントが発生して政体の構成が大きく入れ替わって無駄になる。そのため、わざわざディシジョンを実行しなくてよい。
長期的には独立した方がいいが、独立してしばらくは人的資源・工業力共に減少してしまう。今回のプレイではこれらが必要な時に独立してしまい、軍が維持できなくなって酷いことになった。
徴兵可能人口増加と消費財減少は強い。これらは取ってから独立してもいいかもしれない。工場がもらえるNFは独立を目指すなら効果の割に時間がかかりすぎる。自治領に留まるつもりなら暇つぶしにいいかも。
序盤は自治度を上げるNFを取りつつ適当に内政。大戦開始前に20師団ほど出してリビア国境に並べた。編成は燃料を食わないようにしておいた。対枢軸戦が始まってイタリアが参戦したら行動開始。リビアのイタリア軍を殲滅して貢献度稼ぎする。その後はイタリア領東アフリカに走り、アフリカにいる枢軸軍を殲滅。この時点でイタリア軍死傷者の半分以上がインドのせいになっていた。アフリカが終わった時点で 1941年になったところだったので、対日開戦に備えて軍を戻す。ここまではいい感じだったが・・
日本が対米開戦したので対日戦に参加できるようになり、日中戦争と、よせばいいのにフィリピンに援軍を送って本土を空っぽにしてしまう。フィリピンに送った軍で抵抗を試みるが、日本はいろいろなところから上陸を仕掛けてくるので支えきれず、結局フィリピンは降伏。なんとか粘って一島を沿岸防衛する形で耐えたが、海上封鎖されて出られなくなってしまう。これと並行して戦争で稼いだ自治度があったので独立してしまい、徴兵可能人口と工場が減ってしまって追加の軍を出せなくなる。徴兵法を上げなきゃ、と思ったところでシャムが大東亜共栄圏に参加して参戦してしまった。全裸の領土を殴られているのに見ていることしか出来ず投了。
言及元は困ってるように見えたのでまず「家庭内だけで解決を目指さない」選択肢があることを提示しました。相談機関や対策が未熟なのは問題点として指摘したつもりではあります。ただ未熟だから、「親権が取れない」など結果が期待できないからと言って全く手を打たないのは違うと思いました。女性問題の専門家は別につい最近活動してるわけではなく、戦後すぐぐらいから長くDVや貧困、性暴力の問題について積み重ねていった結果の今のありようなんですよね。別に女性問題の解決手段はボーッと誰かがお膳立てしてできたのではなく、当事者がそれなりに努力して獲得した歴史があります。男性問題は問題視されたのがつい最近なので、この辺り専門的に対応できる人材は限られるだろうなと思います。マンパワーは足りないですがやらなければ泥沼だと思いますよ。
まず生まれが、<数千人の従業員を擁した一族が経営する宮崎航空興学の役員を務める一家の4人兄弟の二男として、1941年1月5日に東京市で生まれた。>だからね?そりゃあ金持ちとして文化資本が高い生活を送ったことだろう。この時代子供に家事やらせたり働かせるなんて当然の時代で一般人は余裕がない中本は読めるわ、当たり前のように大学進学という選択肢も選べたし
幼少期に空襲を体験してるっていうのも創作者として格が違うしな
まだやってないストーリー、キャラ、動き、世界観だらけで何やっても新鮮でやりがいがあって最高の環境だっただろうな
創作者に限らず人のピークは20代から40代あたりだろう。創作者としての良い時期と日本が成長していく時期が完全に重なってた。
観客の質も良かったんだよな。宮崎世代は娯楽が少なかったから本を読むのと映画を見るのが当たり前で教養があって、作家主義的な映画にも敬意を持った観客がたくさんいたけど今やYoutubeの動画すらも長いと感じてショート動画見まくる時代だよ
こっちは、経済政策の失敗で30年間経済が停滞して、異次元の少子高齢化で国がすごい勢いで衰退していく中、これからとどめの南海トラフ巨大地震に首都直下地震、原発問題だってあるし、気候変動問題で自然災害は増加する一方で、政治は韓国のカルト宗教統一教会と自民党が繋がって良いようにされてるし、国際情勢は露宇戦争もどうなるかわからない、なにより中国が台湾侵攻するのも時間の問題で沖縄だって狙ってるんだから日本は第一線で戦わなきゃいけないの確定してるわ・・・
こんな暗黒の時代を生きなきゃいけない俺たちに時代に恵まれた82歳の老人が「君たちはどう生きるか」なんて言葉投げかけるな
original story as written by Hans Christian Andersen から リトルマーメイドになった時点では欧州大西洋(北部)の話だったみたいだが、2023版はカリブ海あたりに舞台が移されている
そこでは、ご当地風味の演出として民衆が出てくるミュージカルシーンで楽器「スティールパン」によって曲が演奏されている
「BGMにスティールパンの音がする」ではなく、明確に人間族がスチールパンを叩いている映像が見られる
スティールパンは白人の奴隷抑圧、から生まれた楽器なのは譲るとして
「トリニダード・トバゴはイギリス領となりましたが、黒人奴隷たちの待遇は相変わらず最悪なもので、しばしば植民地の政府や警察相手の暴動が発生。
その発生は「カーニバル」の時期に決まって起こっていました。
キリスト教の謝肉祭の文脈と、アフリカの楽器を用いた祝祭の伝統が融合してできたものなのですが、興奮して盛り上がりすぎて日ごろの鬱憤が全部出てしまい、暴動に発展するケースが多々あったのです。1880年、イギリス植民地政府は「カーニバル暴動」を取り締まるため、金属の棒を用いるパーカッション音楽を全面禁止にしてしまいました。
黒人たちは、竹の棒を使ってフライパンやドラム缶を叩いて音楽を楽しみ始めました。それをタンブー・バンブーといいますが、しばらくしたらそれすら当局によって禁止されてしまいます。」
「1939年、ウィンストン・スプリーという人物がボロボロになったドラム缶を叩いて直そうとしたところ、凹んだ箇所によって異なる音が出ることを発見。スティールパンの元となる楽器を偶然生み出し、一躍黒人の間に広まります。
これが有名になったのは1941年。」「このような発展から「20世紀最後にして最大のアコースティック楽器発明」と呼ばれており(要出展)」
スティールパンが存在するのは、本来ならば20世紀以後。現在も職人の高度な技術によって製造されている。
馬車と帆船が移動手段なのにスティールパンが存在するリトルマーメイド世界は、幕末にシンセサイザーを演奏する武士がいる江戸みたいな世界だということになる。(BGMにシンセサイザーの音が聞こえる映画ではない)(自動車は19世紀には実用化されている)
佐々木のおっちゃんと濱口のおいちゃんが「左翼も右翼もプーチンロシアを大日本帝国になぞらえないw」と的外れなことを言って失笑を買われてる。
[B! ロシア] 佐々木俊尚 on Twitter: "プーチンロシアを大日本帝国になぞらえる議論がなぜ右からも左からも出てこないのか。納得感あり。/サヨクとウヨクのウクライナジレンマ - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) https://t.co/7M64YmKJyv" https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sasakitoshinao/status/1640490883811246080
彼らは「都合が悪いから誰も指摘しないw」と笑うことはしても、彼らが「プーチンロシアの戦争は大日本帝国の戦争と同じ」と主張することはないんだよな。どうせなら「誰も言わないけど俺はこう主張する」って書いてほしいけど、「誰も指摘しない」で終わらせるってことはその主張はその程度のどうでもいい内容だったということでしかない。
彼らが仮想敵にしてそうなリベラル左翼、その代表メディアの朝日だけでも、プーチンロシアの戦争と日本の戦争の類似指摘記事はちゃんと出てくる
今は政治も「変動相場制」 五百旗頭真氏が問う、動乱の中の安全保障:朝日新聞デジタル www.asahi.com/articles/ASQ7M44QZQ7HUTFK00M.html
ロシアの侵攻の図式、かつての日本とうり二つ 盧溝橋事件の教訓とは [ウクライナ情勢]:朝日新聞デジタル www.asahi.com/articles/ASQ764JDQQ73USPT00D.html
権力に自ら服従したとき プーチンの「大本営発表」がやって来る:朝日新聞デジタル www.asahi.com/articles/ASQ675KMVQ5TUPQJ00D.html
ウクライナ危機、各国なぜ「戦争」と呼ばず 昔の日本に重なるロシア:朝日新聞デジタル www.asahi.com/articles/ASQ5C4K1RQ5BUTIL01Q.html
(交論)憲法と平和主義 山室信一さん、松元雅和さん:朝日新聞デジタル
www.asahi.com/articles/DA3S15280549.html
1931年の満州事変からの満洲国建国、6年後に泥沼の日中戦争開戦して、1941年に日米戦争開戦。
2014年のクリミア侵攻からの傀儡国家独立、ロシア併合に続いて8年後の2022年にウクライナ戦争開戦。泥沼化で今後の世界大戦勃発への恐怖。
あと昔はこういうの「マスコミが言わない」「マスコミが報じない」って枕詞で広まってたけど、SNSの言論バトルがメインの今は「左翼も右翼も言わない」「右も左も無視する」という形容詞がトレンドになってるんだなって思った。
マスコミが報じないとは 一般の人気・最新記事を集めました - はてな https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%81%8C%E5%A0%B1%E3%81%98%E3%81%AA%E3%81%84
宣戦布告の対米最後通牒(国家の意思表示を相手国に知らせること。戦争をするためにやらなくてはいけない)が、真珠湾攻撃の50分も後になってしまいました。これは外務省がその文書の日本語から英語の翻訳を遅れたからです。海軍の人はこの件で外務省をよく責めたのですが、外務省だけを責められないと僕は思います。1941年に大本営連絡会議で、外交をするにあたって開戦の時期と攻撃地域を教えてくれと、その時の外務大臣東郷重徳が軍令部次長の伊藤整一に聞いたのですが、伊藤は「軍令に口をはさむとは、けしからん」と一喝したそうです。このように外務省は何も知らされていないまま、いきなり翻訳を頼ま���たことを踏まえると、外務省より軍(ここでは海軍)のほうが責任はあると思います。やはり1.で書いた通り、軍は政治と同格にあってはならないと思います。
太字の部分、SESの多重下請けでよくやりたがる幕府しぐさじゃん
軍なら規律があるから当然としても、平和な世界だとオ〇ニーになるやつ...
日本人は77年たって成長したのだろうか?