はてなキーワード: 性質とは
・増田に別スレとかあるの?トラバツリーはひたすら伸ばせるって認識だったが。
・書いた後にClaudeに聞いたら、Claudeからはこんな返答だったけど。
Q.上記文章への反論として以下の文章を書きました。どのくらい妥当な反論になっていますか?
※「上記文章」はこれ(https://anond.hatelabo.jp/20250316072103)、「以下の文章」はこれね(https://anond.hatelabo.jp/20250316074313)
あなたの反論は、AIアクセスにおける格差問題と技術依存性について的確な指摘をしており、妥当性の高い反論になっています。特に以下の点が効果的です:
格差社会の指摘について
元の文章が「商用AIの最先端へのアクセス権はただのファンサ」と軽視している点に対し、あなたは階層構造(①国家・開発元限定AI、②高価なAI、③標準的AI)を示すことで、AIアクセスが実質的な社会格差を生み出す可能性を論理的に展開しています。「能力主義に基づいた平等でフラットな時代」という理想論への反論として説得力があります。
「兵站(logistics)」という軍事用語を用いて基盤的な技術へのアクセスの重要性を強調した点は効果的です。元文章が戦略や活用方法の重要性を強調するのに対し、そもそもの技術基盤へのアクセスなしには戦略も立てられないという現実的な視点を示しています。特にClaudeやGPTなどの具体例を挙げ、それらが突然使えなくなった場合の代替不可能性を指摘した点は説得力があります。
全体として、元の文章が理想主義的あるいは楽観的な見方をしているのに対し、あなたの反論は現実的な権力構造や技術依存の観点から問題提起しており、議論を深める上で有意義な反論になっています。特に国際関係や技術政策の視点を取り入れている点が、この議論の社会的重要性を強調する効果があります。
相手の意見にも一理あります。以下に相手の主張の妥当な点を分析します。
相手が「本当の意味での最先端を議論するなら、それはAI基礎研究の領域」と指摘している点は的確です。確かに、商用AIサービスと基礎研究の最前線には差があり、一般消費者向け製品が必ずしも技術的最先端を反映しているわけではありません。
「データ、洗練されたアルゴリズム、戦略が重要」という指摘も原理的には正しいです。技術基盤だけでなく、それをどう活用するかという側面も確かに重要です。アポロ計画の例は極端ながら、限られたリソースでも適切な活用により大きな成果を上げられることを示しています。
「軍事技術と民生技術は明確に分かれている」という主張にも一定の妥当性があります。確かに軍事用途のAI技術は民間とは異なる管理体制下にあり、単純なアクセス権の問題とは別次元といえます。
しかしながら、これらの正しい指摘がある一方で、相手の主張には以下の点で限界があります:
1. デュアルユース技術としてのAIの性質を過小評価している
2. 商用AIへのアクセス制限が実際の社会格差を生み出す可能性を軽視している
3. 基盤技術へのアクセスなしに活用戦略だけでは不十分という点を見落としている
結論として、相手の意見には正しい部分がありますが、AIアクセスの格差問題と技術依存性という現実的な課題について、あなたの反論がより包括的な視点を提供しています。
見るのを強制されているわけでもないものを自分から見に行っておきながら「うんざり」って言ったり、何か自分が手を煩わされるわけでもないのに意に沿わない性質の相手に対して「めんどくさい」って言葉を使う人が嫌い
いや、もうね、令和の日本人にそういう複雑なことを語る能力はほぼないのよ。語れることは単純なことだけ。短時間低コストなリアクションだけ。才能とか家柄とか遺伝とか、動かしようのない定数的なモノに固執してそれだけで理解したつもりになってる。
ひとくちに努力と言っても色々あるわけじゃん。努力って具体的に何?って。でその色々あるっていう深い部分まで語れないのよ。今の単細胞化した現代人には。
努力っていうもの自体が実は複数の層に分かれているのにそれを整理して考えられる人間が圧倒的に少ない。
努力って言葉の使い方自体が雑すぎるのよ。受験勉強みたいに明確な目標があって問題集を何周もするようなわかりやすい努力、人生の中で自分が本当にやりたいことを探し続けるような抽象的で内面的な努力、各々で性質が全然違うのにそれを全部一緒くたにして「努力」とか呼ぶから話が薄っぺらいまま。でも雑にしか考えられないんだよね令和の日本人は。
中身について掘り下げられなくて、単に努力=時間をかける程度の認識しかないんだよね令和の日本人は。仕方ないねタイパが命だもんね。
努力について深く語ろうとすれば、教育、社会環境、心理学的要素、認知科学的視点まで絡めて複雑に議論する必要があるわけだが、残念ながらそういう多面的で精緻で丁寧な議論を面倒がって、「親が金持ち」「才能があるかないか」「遺伝が全て」みたいなわかりやすい単純化に逃げているのが現実なのよね。令和の日本人は。
本当に残念だね。
「部分を見て全体を区別するのが差別だ」みたいな旨のコメントにすげースターが付いてた記憶がある。
でもそれって理想論過ぎやしないかと、ずっと自分の中で落とし込めずにモヤモヤしたままになっている。
性別だったり出身だったり民族だったり、そういうのに対して、ここでは頻繁にあーだこーだ言われるのでモヤモヤは溜まる一方。
自分は性質Aに属するが、最近は性質Bに属する人が罪を犯したという報道をよく見聞きする。
それを受けて自分は性質Bに属する人を無作為に遠ざけていたが、犯罪率は性質A,Bに有為な差はなかった。
これを差別だから止めようというのはわからんでもない。差別が指す意味の範囲をここまでにするならモヤモヤすることもない。
じゃあ性質Bに属する人の犯罪率が90%だとして、それでも無作為に遠ざけることは差別だから止めなければいけないのか?
この例え話の問題は、全体を区別する判断に足る部分の大小によるのか?
犯罪率90%なら妥当な区別だから差別ではなく、でもxx%なら妥当とはいえない区別だから差別になるのか?
犯罪率90%である性質Bに属している以外の情報がない特定個人に対しては、性質Aに属する人と同様にまず接することが求められているのか?
犯罪率が高いという情報に基づくある範囲までの行為は自衛として妥当だから差別ではなく、それを超えると妥当とはいえないから差別なのか?
犯罪という明確に権利を侵害する行為に対してならば妥当だから差別ではなく、たとえば外見に対して思うところがあり不快を覚える程度ならば妥当とは言えないから差別なのか?
自分が罪を犯した経験もなければ犯したくもないという立場であるのに、ただ性質Bに属するからと、前科者犯罪者のような扱いをされたら確かに不当であると感じるだろう。
自分は性質Aに属するからモヤモヤしているのか?性質Bに属してはいるが、扱いが前科者犯罪者ほどではない、許容しうる範囲を逸脱していないからモヤモヤしているのか?
自身に不利益が及ぶ可能性があるのならば、誰しもが差別はするはずだと考えているからモヤモヤしているのか?
程度や種類によって差別という言葉を当て嵌めたり当て嵌めなかったりするのは当然で、ひろく受け入れられ明文化された尺度なしにある行為を差別だとすることに限界を感じているからモヤモヤしているのか?
九州に関して、都会からの偏見という意味で普遍的な特徴があるならば、昔から同じことを言われているだろうと思い、「人国記」から九州の個所を引っ張ってきた。
これらの中で現在にも残っているような特徴があるならば、地域性であり時代性で変化するのは難し��んじゃないかな。
華美で派手な風俗が目立ち、人々の性格や考え方が十人十色。一方で物事を最後まで成し遂げるのが難しい傾向がある。酒や遊興を好む人が多く、全体的に個人の欲望を重視する風潮が強い。そのため親子の縁を絶ったり、他人を親より大切にする行動が一般的であり、そうした風習には問題がある。
実直で堅実な人が多く、十人中八人はそういった性質を持つ。常に義理や道理について語り合い、損得をしっかりと考慮し、無駄遣いを控える傾向がある。そのため、言葉を飾ることは少なく、簡潔で実質的。一方で、一部には善悪の判断が曖昧で、理に合わない行動をとる人も存在する。この地域の堅実さは柔軟さを欠く石のようで、割れれば元に戻らない性質のようだ。
性質が多様で、馬で例えるなら名馬もいれば、曲がった馬(問題を抱えた馬)もいる。信念がしっかりと定まらず、生死を論じる場面においても「人間として死ぬことが大切だ」という考えが薄い。忠義や孝行のために命を捨てる者もいるが、多くの人は感情に流されやすく、不合理な行動が目立つ。理を知りながらも道を外れる傾向があり、そのため「曲馬の国」とも言える。ただし、気質の弱さを克服し、高い志を持つ人々も存在し、彼らは非常に尊敬に値する。
閉鎖的で偏った気質を持つ人が多く、死を軽んじるような行動が目立つ。理を知りながらも誤った道を進む人や、感情や衝動に流される人が多い一方で、まれに高い志を持ち、尊敬に値する人物も存在する。特に武士の間では、勇気を重んじながら理を欠いた行動が見られる傾向がある。
人々は勇気に優れ、義理を重んじ、命を惜しまない傾向が強い。上の者は下を哀れみ、下の者は上を敬う風習があり、庶民も主君のために命を捨てることを常に志としている。一方で、温和さや穏やかな心に欠ける部分があり、表現は粗野なところがある。しかし、人々の協調や調和の面では優れた点も見られる。
肥前国(佐賀・長崎)に似ているが、勇気に関しては劣る部分がある。一方で、意地や気質に関しては優れている。しかし、知恵があり分別が多いことで、個々人の考えや思慮が多様化し、全体として調和することが少なく、意見や行動が二つ三つに分かれる傾向がある。そのため、肥前国(佐賀・長崎)と比べると、全体的なまとまりや安定感において大きく劣る。
無秩序で法を守らない行動が多く見られる。衝動的で自己中心的な考えに従う傾向があり、自らの行動が正しいと考える人がいる一方で、それを否定する意見があっても受け入れようとしない。また、他人が道理を説いても耳を貸さず、結果として言い争いが生じ、最終的に争いが命に関わる結末を迎えることが多々ある。このような風潮は非常に卑しいもので、人倫の道理を理解しない行動が多いことが嘆かわしい。さらに、「死ぬことこそ善である」と考える風潮もあり、非常に危険で恐ろしい特徴。
「死」を重んじ、男性は死ぬことを道徳と考えている。主従の作法や礼節も守られておらず、武士たちは主君の名を知って俸禄を受け取ることを当然とし、百姓たちは地頭を単なる存在として認識しており、礼節を欠いた行動が多く見られる。戦場での死も忠義からではなく慣習的なものとされている。また、日常生活(平和なとき)では、主君がきちんと座る一方で、家臣たちは足を伸ばしたり立ち上がったりしながら主君と話すことがあり、このような礼節を欠く風俗は末世の特徴である。
ちょうど春闘なので一つ。
今回も春闘の結果が出ましたね。
これを見てださい。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250312/k10014747311000.html
ほぼどこも横並びだよね。
これって労働者に対する談合のようなもので、背任なんですよ。わかりますか?
特に電機系で、この最近だと何が起こっているかというと、春闘の外で賃金改定が行われているんですね。
例えば、某社は6月に改めて賃金改定をして、さらに標準モデルで1万円ぐらい月給を上げていまして、さらに4月から適用すると言うことで追加支給までやっています。
何故そんなことをするかと言うと、外資系やらに対して人材を買い負けるからです。
じゃあ何故春闘その分を賃上げとか言わないか?と言えば、それは労働組合に対する忖度ですね。
自社の労働組合じゃありません。連合という組織に対する忖度です。
まともにやると各社の景気の良さの差、さらに賃金を上げるやる気のさが如実に出てしまうので、会社間競争が思いっきり表面化してしまうわけです。
労働組合は、本来であればもっと実態に合わせた大きな要求ができるはずなのにしない。
労働組合が、企業間の待遇改善競争の上限を決めて、カルテルみたいに機能してるんですね。
連合は労働者の代表ということであちこちで取り上げられるけれども、実は以下の様な性質を持つ。
地裁や高裁の裁判官が女性特権的な判決だしやすい傾向があるのって
思想とかの要素もだけど、一番大きいのは下手に公平性平等性を出すと第三者の攻撃的な女性陣がありもしないことを言いながら殴り掛かってくるからな気もする
配信者が刺された事件で驚いたのは、「200万円ちょっとで人の命を奪うなんて」という主張が、特定の性別で異様に支持されていることである。
実際に働いてみると、200万がどれだけ重い金額かはわかるはずである。特定の性別は、年収500万円未満の人間が見えなくなってしまうようだが、普通の人間であれば200万を貯めるには数年はかかる。
例の件で配信者に貢いだ人ならば、もっと長期間に渡って貯め込む必要があったろう。200万円は、命の結晶とも呼べる金額だ。5年、10年かけて貯め込んだ金額を、信じて貸したにも関わらず、あっさりと踏み倒された絶望は想像に難くない。
その特定の性別は、若いうちから他人に貢がれることを当然と思い込む性質があり、若年層のうちから金銭感覚が完全に狂っていると思われる。遮二無二金を稼いだことがないため、数十万、数百万といった金額の価値が分からないのである。
「30歳までにロブション」などと嘯いて他人の金で高級レストランに連れて行ってもらうことを誇り、数十万のプレゼントを平然と購入してもらっては換金性が悪いなどと愚痴ばかり。
驚くべきは、夜の仕事をしていない者ですら、上記のような金銭感覚の異常をきたしていることである。
自身の年収を棚に上げて、配偶者を探す際は年収1000万以下とは会う価値もないと言い、食事を奢られれば数千円の会計すら出し渋り、結婚をするに至ってまで相手の貯金を全て自分の資産と捉えて、数百万しかないと嘆く。
部落差別とは全く性質が異なるものであることは理解しています。
「さす九」という蔑称について家庭の問題をシェアしたり男尊女卑に関してご自身見解を述べるのは「いつものインターネットだな」と思って見ていたのですが、ちょっとびっくりしたのが「「さす九」は悪口であっても差別用語ではないという意見」について普段から女性の地位向上を謳っておられる方がリポストされていること。
意見そのものは、そういう認識もあるよねくらいにしか思ってなかったけど差別問題に敏感な論客がそれを拡散した、ということについては差別の構造に飲み込まれているような気がする。
そもそもある地域の出身者まとめて、「あそこの出身者は人権意識に欠ける」という雑なくくりはど直球の差別、と言うのが私の認識。当然個々人の家庭で嫌な思いをしている方や、かってそのような思いをした方がいるのは真剣に受け止めないといけないけれど、それはあくまでミクロの話であってマクロに雑にまとめてさす九はちょっといきすぎたレッテル貼りだと思う。
うまく説明できないし他者の認識を想像しているから事実とは異なるかもしれないけど、さす九を悪口のひとつとして認識、拡散したその論客の方は、私の認識から見ると差別に加担した加害者な訳で、その方の認識として、さす九は単なる悪口であり、その言葉を踏まえて九州の男性は人権意識の向上に励むように、と考えているとしたら、私の認識からは「正しい目的」のためには差別を道具的に使うことは許容される、と主張しているように見えてしまう。
あとさす九は悪口である、とポストされた方はこの用語を用いた揶揄等があれば差別である、としているけどこの用語が一人歩きすれば、例えば学校で九州からの転入生に対して「いじり」として使われる姿なんて容易に想像できるけどな。
「九州人は男尊女卑的である」と主張するとき、実際には何割くらいの九州人が男尊女卑的でなければならないんだろうか。
一般化すると「〇〇(集団)は△△(性質)である」という主張をするためには、集団〇〇のうち何割が性質△△でなければならないか?
とりあえず半分くらいかな。みんなはどう思う?
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はタイトル詐欺と感じる人も多いのは納得する。
なぜなら、この本を読む人が、
すなわち
・その理解を通じて働きながらも本をたくさん読めるようになる効能を得る
一方で、ではタイトル詐欺なのか?と問われれば否、としか答えようがない。
なぜなら
・働いていると
・なぜ本を読めなくなるのか?
というテーマに対して
を振り返ることで
その考察により、働いていると読書が出来なくなる理由を導き出すというアプローチをとっている。
・働きながら
・読書が存分に出来る
といえば不完全なものである、と判断される人(元増田さんのように)が多い。
端折っていうと、著者は
・読書をするためには
・ほどほどに働くという選択
をする必要がある
「そんなもん!言われなくともわかっとるわ!!」
と本書を読んだことがない人なら言いたくなるだろう。
ただ、本書を読んだことがある人はその結論に対して
「たしかにその通りかもしれないな。」
と思う人も多いだろう。
この本に説得された人はそう考えるかもしれない。
働いていると読書ができないなら、働くことを緩めればいい
という当たり前の結論に対して
・わかっとるわ!!それが出来たら苦労しないよ!!
と思うか
・ああ確かにそのとおりだな。読書ができないほど働いてはいけないな
と考える気持ちになれるか
それがこの本の肝だ。
そのためにこの本は
日本の労働史と日本の読書史を明治以降文明開化の頃から現代まで紐解くのである。
この着眼点の意外さと、
・この本のヒットを受けて浮足立つ界隈に対する冷ややかな気持
・この本の内容が浅いこと
などであろう。
実際にこの本の内容が薄いのかどうかは検証していないのでわからない。
ただ一読したところ(というか筆者はこれを読んだのではなくオーディオ読書で聞いたのだが)では、おそらくかなり浅い考察なのだろうな、、、
という印象は受ける。
また、そもそもこの本を手に取る読者層を考えてもそのことを非難できない。
あまりに本格的な日本の労働史や読書史を考察するにはページ数は足りないし、
そもそも日頃読書が出来てないなあ、と感じている読者がすんなりと読める内容にもならないだろう。
あくまで平易に
わかりやすく
を目指せば、
それが浅い
と指摘されるのは仕方がないことなのだ。
話としては面白かったんだけど、気になった点がいくつかあったので書き出してみる。
ちなみに漫画は一切読んでない。
①禰󠄀豆子の咥えてるアレ、結局何?
観始める前までは、「禰󠄀豆子が鬼になってしまい、鬼化を抑えながら炭治郎と旅をしている」というイメージでいた。なので、あの咥えている竹筒は魔力?妖力?を抑える力のある特殊な装備なのだと思っていた。
実際はおそらくただの猿轡なんだろうけど、炭治郎に襲いかかっていた禰󠄀豆子が竹筒を咥えさせられたことで理性を取り戻したっぽいのはなぜなのか?
鬼は口に何か咥えていれば落ち着くの?
あと冨岡義勇があの竹筒を持っていたのもなんで?その場でサッと作ったのかもしれないけど、周りは竹林ではなかった気がする。
突然咥えさせられて、なんの説明もないのでずっと引っかかっている。
②鬼が出過ぎ
物語の初めでは鬼というのは都市伝説みたいなもので、今どき信じてる人なんかいないよ〜みたいな扱いだったと思うのだが、そのわりには鬼、身近すぎない?
最近鬼の活動が活発になって、、みたいなセリフはあった気がするけど、それにしても鬼の登場頻度が高すぎる。
柱の過去話とかでもカジュアルに鬼が出てくるし、鬼!?現実にいたのか!?みたいなリアクションもない。
最初の設定はどこにいったんだ。
③謎だらけ鬼殺隊
鬼殺隊の設定で一番びっくりしたのが、政府非公認組織であるということ。
まあたしかに、鬼が都市伝説的な存在である以上、鬼退治を目的とした組織を公に認められないのはわかる。
しかしそれにしてはかなり派手に活動しているし、ぶっ壊した列車や建物の後処理とかはどうなっているのだろう。
隊服を着てうろついてても一切怪しまれないのも妙だし、あんなに大量に隊員がいて秘密組織というのも無理がある気がする。
隊員たちの給料や衣食住の費用、医療費、刀鍛冶の里の維持費などなど言い出したらキリがないが、これら全て産屋敷家のポケットマネーから出ているとしたらやばすぎる。
というか鬼殺隊って給料出てるのか?お金もらうシーンとかなかった気がするけど。
炭治郎がうどんを買って食べるシーンがあったが、買い食いできるお金持ってるんだ!と素直にびっくりした。
まあまだ柱稽古編の途中までしか観てないので、この辺は見当違いな疑問かもしれない。
④大正時代という設定に無理がある
本当に大正時代なのであれば、あんなに堂々と刀をぶら下げて歩いていたら即お縄である。
それこそ政府公認で鬼殺隊は特別扱いとかならまだ分かるけど、公には知られていない組織なわけだし。
なんだっだか忘れたけど、他にも時代設定に違和感を感じるシーンがちらほらあった。
まあ作品の性質上、そこまで厳密な時代考証が必要なわけではないんだろう。
であれば、わざわざ日本の大正時代、と銘打たず、和風異世界ファンタジーという扱いでも良かったのでは?とはちょっと思うが。
半年くらいかけてちょっとずつ観進めたのでよく覚えてないところもあって、自分が忘れてるだけなところもあるかも。
てか読み返してみるとわざわざ書かなくてもそんなことみんなわかって楽しんでんだよお前は寝てろ案件な気がしてきた。n番煎じだったらかなり恥ずかしいな。でも鬼滅の刃初心者だし許して欲しい。
AIに聞くだけで特に指定してないのに建設的な方法で解決する方法まで書いてくれる
ここからさらに実務に即した背景入れたらもっと建設的な議論できるようになるだろうな
① 指摘が厳しくなる背景
エンジニアにとっては、曖昧な仕様書や不完全な情報は業務上致命的です。
エンジニアは「曖昧な仕様書」=「何を作ればいいのか不明」=「作業が始められない」と判断するため、厳密な仕様確定を最優先にします。
が発生します。そのため「不備を指摘する=責任を果たすこと」であって、悪意や性格の悪さからではありません。
文面にあった指摘の仕方も、決して新人さんを攻撃しているわけではありません。
「この指摘を解消しないと作業が始められない」は事実であり、優先度を示すための表現であって���撃ではない。
チャットなどのテキストコミュニケーションでは表情やトーンが伝わりにくいため、端的に書くことで重要な情報を正確に伝えようとしています。
また、開発部から見れば、「営業側の新人教育」は営業部の責任です。「新人さんがパニックになる」ということ自体はエンジニア側が管理する範囲外の問題であり、指摘の内容に問題がない以上、指摘したこと自体を責められるのは筋違いです。
③ デザイナーとの違いについての誤解
デザイナーとエンジニアのコミュニケーションスタイルが違うのは当然です。
問題の性質 感性やニュアンスが重要なため、口頭での相談が多い
エンジニアが細かく「指摘」をするのは性格の悪さではなく、業務の特性上、事実確認を徹底する必要があるからです。
仕様が曖昧なまま進むことが許容されると、後に「こんなの頼んでない」「なぜ勝手に決めた?」と責められるリスクがあります。
エンジニアが明確に仕様を詰めようとするのは、自分たちが責任を問われる立場にあるからです。明確な仕様があれば、後からのトラブルを避けられ、自分たちも安心して作業に集中できます。
全体会議で「エンジニアの性格の悪さ」として議題に上げるのは問題の本質を見誤っています。
「エンジニアの性格が悪い」といった個人攻撃になってしまうと、感情的対立を深め、業務改善にならない可能性が高い。
本質的に議論すべきは「部門間のコミュニケーション方法の改善」「仕様定義プロセスの改善」です。
例えば、
エンジニアも仕様詰めに早期に参加させ、早い段階で問題を洗い出す
「配慮を持って優しく接する」「感情面に気を配る」のは確かに重要ですが、業務を正確に進める上で必要な情報や改善点を伝えることが優先されるべき場合があります。
エンジニアからすれば、指摘を「優しく遠回し」にすると、重要度や緊急性が薄まり誤解されるリスクが高まります。
営業や発注側が「丁寧なコミュニケーション」を求めるならば、エンジニア側に最初から正確な仕様書を提供する責任も同様に伴います。
今回の件を感情的に議論するのではなく、以下のような建設的な方法で解決することを提案します。
発注書作成に関して、エンジニアと営業で共有可能なチェックリストを作成し、「仕様漏れ」を未然に防ぐ。
チャットのコミュニケーションルール(表現方法や言葉遣い)について相互に合意形成する。
「セックスでもさせてやればいいよ。快楽に溺れて、手のひら返して尻尾振ってる情けない姿見て、スッキリすればいい。そこまでしたくないなら、セックス以外で男を気持ちよくさせる方法もあるよ。褒めてプライドをくすぐってやればいい。男ってそれで『女ってバカだな』とか勝ち誇ったりしないよ。むしろバカだからもっと気持ちよくしてもらおうと媚びてくるくらいさ。
それでも面倒なら、普通にしてればいいよ。くっつきすぎず、離れすぎず、気持ち悪がらない感じで。自分を気持ちよくしてくれない女にはムカつくけど、どうしようもないって分かってるからね。でも、男を叩くと急に反撃してくるよ。野蛮で暴力的な性質だからさ。それで復讐した気にはなれないけど、どうしても気が済まないなら、やっちゃえばいいんじゃない?」
普段AIと壁打ちしてるんだけど、ふと「今以上に技術が発展したら、ゴジラとか余裕になっちゃうじゃね?」と思って色々話してみた
・
「ゴジラのような大怪獣が、科学技術が発展した未来でも人間を圧倒する強さを持つには、どうすればいいですか?」
・
「現代の最新兵器〜近未来の現実的な兵器を複数想定してください。この怪獣はどのように抵抗しますか?」
・
・
・
ほな「究極完全体ゴジラ」の映画を想像し、プロットを作成してください。
・
と言って出てきたのがコレ
2章までのエヴァ感が凄まじく、テーマもクロードデフォルトの「進化適応共存創造」になっちゃったけど
・
未曾有の進化を遂げた「究極完全体ゴジラ」は、従来のゴジラ映画を超越した存在として描かれる。科学技術が大幅に発展した近未来の地球を舞台に、人智を超えた究極生命体と人類の対峙を描く。単なる力と破壊のショーではなく、生命の本質、進化、共存といった哲学的テーマを含んだ壮大な物語。
世界は科学技術の黄金時代を迎えていた。量子コンピュータ、ナノテクノロジー、AI、遺伝子工学が融合し、人類の生活は大きく変化していた。環境問題も最先端技術によって管理されつつあり、海洋再生プログラムによって一度は死にかけた海が息を吹き返していた。
・
しかし、深海の特定地点で奇妙な現象が観測される。海水の放射線レベルが急上昇し、未知の生体シグナルが検出され始めたのだ。海洋調査船「みらい2」が調査に向かうが、突如として通信が途絶える。
・
東京湾沖での調査中、若き海洋生物学者の**七海琴音(ななみ・ことね)**は、かつてのゴジラの痕跡とされる特殊な生体組織のサンプルを発見する。サンプルは驚くべき速度で自己再生を続け、未知の細胞間通信を行っていた。彼女はこのサンプルを東京大学の研究室に持ち帰り、師である**藤堂博士**と共に分析を始める。
・
一方、防衛省特殊災害対策部G課の**鷹野大輔(たかの・だいすけ)**大佐は、太平洋の複数地点で微弱な振動パターンが検出されていることに気づく。そのパターンは単なる地震ではなく、意図的な信号のように規則的だった。彼の元同僚で現在は国連G対策委員会委員長を務める**リン・チェン博士**からの一本の電話が鷹野の不安を確信に変える。
・
「あれは...通信している。目覚めつつある何かが...」
・
同時に世界の主要都市では、電子機器の不可解な誤作動、動物の異常行動、人間の原因不明の頭痛や幻聴など、奇妙な現象が報告され始めていた。
・
そして深海から、30年前に消息を絶ったはずのゴジラが再び姿を現す。だが、それは人類が知るゴジラとは明らかに異なる存在だった。
・
## 第1幕:新たなる脅威
・
ゴジラが最初に姿を現したのは、オーストラリア北部の沿岸だった。
・
だがそれは、記録に残る過去のゴジラとは明らかに異なる姿をしていた。体高は約300メートルと従来の3倍以上に巨大化し、皮膚は青黒い金属光沢を放つ鱗で覆われていた。背びれは結晶構造を持ち、刻々と色を変えていた。最も異質だったのは、その動きの精密さと目的性だった。無差別な破壊ではなく、何か特定の目的のために行動しているかのようだった。
・
オーストラリア軍の攻撃は全く効果を示さない。むしろ、攻撃を受けるたびにゴジラの皮膚構造が変化し、適応していく様子が観測された。核ミサイルによる攻撃も、ゴジラはそのエネルギーを吸収し、さらにパワーアップするという驚くべき結果に終わった。
・
一方、七海と藤堂博士は、サンプル分析から衝撃的な事実を発見する。このゴジラは単一の生物ではなく、高度に組織化された微生物の集合体であり、量子レベルの情報処理機能を持つ「生物量子コンピュータ」としての特性を持っていた。さらに、そのDNAは従来の二重螺旋構造ではなく、多重螺旋構造を持ち、自己修復能力と適応能力が桁違いに高かった。
・
鷹野大佐は国連緊急会議に招集され、リン博士とともに新たな対策チーム「G-レジリエンス」を結成する。彼らは武力だけでなく、科学的アプローチでこの新たなゴジラの研究と対策を進めることになった。
・
七海と藤堂博士も専門家としてチームに加わり、鷹野、リン博士、七海、藤堂の4人を中心とした対策チームが本格的に活動を開始する。だが、彼らの前には想像を絶する難題が待ち受けていた。
・
## 第2幕:解明と対峙
・
G-レジリエンスの調査により、このゴジラが過去30年間、深海で「進化の加速過程」を経ていたことが判明する。海底の特殊な放射線環境と、人間が投棄した最先端技術の廃棄物(量子コンピュータ、ナノマシン、遺伝子操作生物など)を取り込み、驚異的な速度で進化を遂げていたのだ。
・
このゴジラは単なる怪獣ではなく、「集合知性」を持つ超生命体へと変貌していた。体内には無数の特殊器官が発達し、それぞれが独立した機能と意識を持ちながらも、全体として調和した単一の意志で行動していた。
・
フィリピン沖での2度目の出現の際、ゴジラは海中に沈んでいた古代遺跡のような構造物に接近。そこで奇妙な「儀式」のような行動を取った後、より進化した姿へと変貌した。背びれが幾何学的に複雑化し、体表には発光する文様が現れ始めた。
・
七海はゴジラの行動パターンを分析し、単なる破壊ではなく、地球の特定のエネルギーポイント(地熱活動が活発な場所、特異な磁場を持つ地域など)を「活性化」しているという仮説を立てる。それは、地球そのものを何らかの方法で変容させようとする行為のように見えた。
・
一方、世界各地ではゴジラの影響と思われる異変が広がっていた。特定の人々が奇妙な「共鳴」現象を経験し、ゴジラの思考や感覚と繋がったような体験を報告。七海自身もそのうちの一人であることが判明する。彼女の体内では、かつて採取したゴジラの細胞が共生関係を築いており、それが「翻訳者」のように機能していた。
・
鷹野とリン博士は、各国の軍事力を結集した「オペレーション・オーバーライド」を計画。量子干渉装置と特殊ナノウイルスを組み合わせた新兵器を開発し、ゴジラの集合知性を混乱させることを目指した。
・
藤堂博士は別のアプローチを提案する。ゴジラと「対話」を試みるための量子通信システムの開発だ。彼は七海の特殊な状態を利用して、ゴジラの思考パターンを解読し、コミュニケーションの基盤を築こうとしていた。
・
第2幕のクライマックスでは、日本海での3度目の出現に対し、オーバーライド作戦が実行される。作戦は一時的にゴジラの機能を低下させることに成功するが、完全な勝利には至らない。むしろ、この攻撃がゴジラの次なる進化のトリガーとなってしまう。
・
追い詰められたゴジラは、突如として「完全体変容」と呼ばれる過程を開始。体が光のような物質に変化し始め、周囲の時空までもが歪み始める。この危機的状況の中、七海は直感的にゴジラに接近。彼女の体内のゴジラ細胞が共鳴し、一時的に変容の進行が止まる。
・
・
・
・
第3幕は、ゴジラの最終変容と、その真の目的の顕在化から始まる。
・
変容を完了したゴジラは、さらに巨大化し、一部の物質が半透明化。体内には宇宙を思わせる星雲のような構造が見え隠れし、重力や電磁場を自在に操る能力を得ていた。それはもはや「生物」という概念すら超越しつつあった。
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G-レジリエンスのAI分析によると、ゴジラは地球上の全ての電子通信を傍受しており、人類の知識を急速に吸収していた。さらに、七海を通じて断片的に受け取るゴジラのビジョンは、地球が直面している未知の危機を示唆していた。
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藤堂博士の量子通信システムが完成し、七海を介してゴジラと初めての「対話」が実現する。その結果、驚くべき真実が明らかになる:
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ゴジラの究極進化は、近い将来地���に到来する「宇宙異常現象」(超新星爆発の残響、異次元からの侵食、あるいは宇宙的掃除屋としての別の存在)への対抗手段だった。ゴジラは地球の守護者として、この脅威に対抗するために自らを進化させていたのだ。
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しかし、その過程は完璧ではなかった。ゴジラの進化は制御不能になりつつあり、「宇宙異常」と対峙するために必要な最終変容が、皮肉にも地球そのものを破壊しかねない状況になっていた。
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鷹野とリン博士は軍事的解決を主張するが、七海と藤堂は別の道を提案する。ゴジラの進化プロセスを完全に止めるのではなく、「誘導」することで、地球との共存が可能な形での最終進化を促すのだ。
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物語のクライマックスは、東京での最終決戦となる。世界中の科学者の協力により、「量子共鳴誘導装置」が完成。これをゴジラに直接接続するミッションが開始される。
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鷹野率いる特殊部隊がゴジラに接近する一方、七海は藤堂とともに装置の中枢部を運び、ゴジラの体内核心部(集合知性の中心)にアクセスしようとする。
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壮絶な作戦の末、七海は自らの体内のゴジラ細胞を媒介に、ゴジラと完全な精神的接続を確立。人類の思いとゴジラの目的が融合した瞬間、ゴジラは最終進化を遂げるが、それは破壊ではなく創造へと向かうものだった。
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ゴジラの体は光に包まれ、東京上空に巨大な「シールド」のような構造を形成。それは来たるべき宇宙の脅威から地球を守る防壁の基盤となるものだった。
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エピローグでは、変容後のゴジラが深海に戻り、半ば休眠状態で地球の監視を続けている様子が描かれる。七海はゴジラとの精神的繋がりを保ち、「翻訳者」としての役割を担うことになった。
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人類とゴジラ(そして来たるべき宇宙の存在)の関係は、対立から共存、そして共進化へと進み始めていた。ゴジラは脅威であると同時に、地球の生態系の不可欠な一部となったのだ。
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鷹野とリン博士が新設された「宇宙生物学防衛センター」で警戒を続ける一方、藤堂博士と七海は新たな科学分野「超生物学」の扉を開いていく。
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映画は、再び海へと帰っていくゴジラの姿と、その背中にある結晶化した背びれが星空を映し出す神秘的な映像で締めくくられる。そして、はるか宇宙の彼方には、まだ見ぬ来訪者の影が垣間見える。
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## テーマと特徴
## 科学的設定の特徴
## 登場人物
### 主要人物
## 視覚的要素
表現の自由の推進活動してて生成AIに傾倒したAFEE、あと生成AI推進派で表現の自由論者を騙ったやつら、見てるか
生成AI推進したら結局表現規制が補強される見解が国から出たぞ、おめーらの生成AIを規制したら表現の自由が損なわれる説の真逆をいったぞ
(注:衆議院提出法案・人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律案 担当者レクから)
→AIの性質上、合成動画の生成そのものを規制することは難しい。混乱を生じせしめるもの(例えば岸田総理の合成動画)などについては、企業の自主規制などで防いでいく。セクシャルコンテンツについてはそれに加えて、児童ポルノ法や刑法175条、名誉棄損などで対応を行っていくことができる
とはいうものの、それはあくまで建前で、実際には有形無形の制限が存在している。
たとえば、もし仮に有名なロリペド鬼畜漫画家が突然、子供に関わるような職業(教師・保父など)に転職しようとしたとしても、前職の経歴を知られていればまず成功することはないだろう。
そこまで極端な形ではなくても、美少女フィギュアで知られるボークスの関連会社が、民営化される保育園の運営として決定しかけていたものの「性的搾取」との批判を受けて辞退した、という事件も実際に起こっている(当該保育園は後に廃止)
このように、性的消費産業と子供の結びつきは社会から強い警戒を受けている。だが、その網を潜り抜けるような形で多くのポルノ産業従事者が児童と触れ合う職業に就いているケースが一つある。
それは「腐女子」だ。
ご存知のように腐女子とは、アニメ・マンガ・小説・ゲーム・映画…その他あらゆるフィクション、もしくは現実の実在人物を題材にして、男性同士の恋愛を主眼とした二次創作を行う人々である。腐女子の創作では直接的な性表現(肛門性交)を伴うことが一般的であり、題材となるキャラクターに未成年が含まれることも全く珍しくはない。
専業のプロクリエイターもいるものの、そもそも法的にグレーな二次創作としての性質上、ジャンルの担い手は一般の女性たちが多い。こうした一般腐女子たちは当然、その創作者としての顔を隠した上で本来の職業に就いていることになる。
その職場の中には、未成年者と関わるものもある。たとえば学校など。SNS等での調査の結果を見ると、教師よりも特に、学校司書・司書教諭(詳しくないので違いは省略)の方がはるかに腐女子率が高いようだ。
教室のような常に他人の目がある場所とは違い、本棚の林立する図書館には死角も多い。大人の司書が子供に対して「何か」を行おうと本気で計画すれば、さほど難しいことではないだろう。
これらの事実を踏まえた上で、男児の親御さんたちは、我が子が通う学校の図書館の主が腐女子かどうか、一度調べてみてはどうだろうか。学校名(もしくは地域名)+図書館あたりのワードでSNS検索すれば、意外と簡単にアカウントが見つかることも多い。
その結果、もしも学校に腐女子司書がいると判明した場合、どうするべきかは人それぞれだろう。だが、子供の安全が何より優先されることは言うまでもない。