はてなキーワード: 高橋源一郎とは
読書家の友人から高橋源一郎の小説を強く勧められたんだけど、自分はまだ一冊も読んだことがない。
だからどんな作家さんなのかよく知らないんだけど、友人曰く今の日本人作家で本当に前衛的なのは高橋源一郎しか居ない!とまで言うんだけど、ほんとにそんな感じなの?
そんなに凄いんなら読んでみようかなぁと思うんだけど、ここでの評価も同じ感じなのかな
かつて所属していた文学サークルで、先輩が角田光代「菊葉荘の幽霊たち」って作品をテーマに読書会を開いた。何事にも投げやりな女性が主役なこの作品が全く好きになれず、その後角田光代という名前を見ても全く手が伸びなかった。今にして思えば、全体的に生きる気力がないというか、適当にその辺の相手と何となく交際してしまう感じの、怠惰な女性が出てくるのに嫌悪感があったのだろう。理想的な美を探し求めていた大学生の僕には、うまく理解できないキャラクターだった。あるいは、当時女性を理想化しすぎていたからかもしれない。理想の恋人が、僕と同じように美や最高のクォリティ(なんじゃそりゃ?)を求める存在であると望んでいたのだろう。なんというか、十代の考えそうなことである。しかし、それは後述するように、すべて自己愛だ。それはさておき、「源氏物語」も僕は講談社学術文庫で読んだ。確か、今泉忠義訳である。再読のときは、角田光代訳でもいいのかも。書き続けられている作家ということは、力があるってことだし。
光源氏の恋愛遍歴や、彼を取り巻く女性たちについての思いは昔書いたので省く。僕がこの小説が好きなのは、恋の物語だけが理由ではない。もちろん、欲望まみれだった僕は、例えば朧月夜との密通で須磨に流されるというプロットを面白く読んだのは事実だ。
けれども、もっと魅力を感じたのは、恋する貴公子光源氏が、だんだんと権力を持った嫌なオッサンになっていくのが生々しく表現されていたからだ。己の愛人である女三宮と密通した柏木を睨みつけ、彼を絶望から再起不能に陥れるあたりがリアリティがあって嫌だ(褒めてる)。ふっふっふ、ハーレムを作るイケメンの末路はこんなものよ。
僕が真っ直ぐな目をした青年の目が濁っていく文学を見るのが好きな理由はいくつかあるのだが、彼女に浮気されて一時期軽薄なナンパ野郎になり3Pまで経験した旧友や、好きな作品を貶されたせいか強烈なアンチフェミになってしまった友人、それから寝取られ経験からイチャラブ漫画が読めなくなって寝取られや暴力的な物ばかりに手を出している畏友のことが頭にあるからかもしれない。だから田山花袋「田舎教師」や、風俗に行って嬢のおっぱいをもんで「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶ志賀直哉「暗夜行路」が好きなのである。「暗夜行路」はその後の展開が大事だとは言え。
ところで、繁田信一が「殴り合う貴族たち」の中で、著者は菅原孝標女が「源氏物語」にハマった理由を推測している。それは源氏が女性に直接暴力を振るわないからだという(部下たちは「車争い」のシーンで乱闘を演じているとはいえ)。その程度で理想の貴公子になれる、当時の倫理はこんなものだったのである。
古典には今からすれば受け入れられない行動をとる人々が出てくる。それでも、心動かされるのは、貪・瞋・癡の煩悩から逃げられない人間の本質が変わらないからだろう。法律やコンプラで縛ってはいても、やりたいことも欲望の本質も変わらない。古典を現代的な価値観で批判するのは大事だが、上から目線で裁きたくはない。聖書によれば人間は自分が裁いてきたように裁かれるのである(こんな風に、聖書には結構な頻度でクールなセリフが出てくる)。
それに、過去のものが全部ダメだというのなら、例えば殺人者カラヴァッジョの絵画は展示すべきではないし、最終的にはルーブル美術館を爆破しなければならないだろうし、植民地からの富で栄えた都市はICBMでふっ飛ばさねばならない。しかし、他人の作ったものを破壊するのは、「指輪物語」のオークの所業である。悪とは何かを創造できず、捻じ曲げて模倣したり壊したりしかできない連中のことなのである。具体的な顔や団体が浮かんでくると思う。
そういえば、去年の大河ドラマは「光る君へ」で、王朝を扱った文学を知っていると典拠がわかってニヤリとするシーンが多々あったが、きちんとは見ていない。理由はいくつかあるが、一つには作家が主人公なので作家になりそこなった僕は見ていてつらい。それに、大河ドラマは夜八時の公共放送だからしょうがないとはいえ、例えば人を斬って領土を切り取ってナンボの戦国武将が平和を唱える違和感があってもともと好きではない(これが現代のオタクの言うところの「解釈違い」というやつか)。たぶんこのシリーズを読んでくれている人はもうわかっていると思うけれど、僕は基本的に非常に面倒くさいのである。それに、元々ドラマは五十時間もつきあうほど好きなジャンルではない。逆に、それだけ付き合うことができれば、ドはまりするのだろうと予想はしている。「好き」を測る尺度の一つは、それに対してどれくらいの時間を費やしたかだ。ただし、みんな正座してドラマを見ていないのかもしれない。きっと何となく見ている。作品を素直に楽しむことから自分を遠ざけているのは、完璧主義なのかもしれない。
それこそ「紫式部日記」に出てきた女官の衣装の再現は良いと思ったけれどね。元々僕はブラウスという言葉の正確な定義も怪しいほどファッションにほとんど興味がないので、該当箇所は読み飛ばしてしまっていた。
面白いエッセイを書くには性格が悪くないといけない。ここでいう「性格が悪い」というのは、もちろん褒め言葉だ。他人が見落としてしまうことにいちいち言いがかりをつけているとか、筆で他者をおちょくるのが上手いとか、そんなことを指す。「枕草子」はこの定義にぴったり当てはまる。言語化できていなかったけれど、「実はみんなそう思ってた」みたいなのも結構ある。
こういうタイプの人は友人に一人欲しい。「香炉峰の雪」(第二百九十九段)は日常で漫画の台詞をぴったりのタイミングで引用したときみたいにめっちゃ盛り上がったと思う。これは全くの推測だが、清少納言って物事をはっきり言うけれど、言い方がカラッとしていて毒のある事を言っても周りの人が思わず笑ってしまう人だったんじゃないだろうか。楽しい思い出話というか、ちょっとドヤ顔しているエピソードもあって楽しい。
もちろん第三百十四段の身分の低い人間が火災にあったところを笑っているところは弁護できないが、これは時代の制約だろう。それに、「除目に司得ぬ人の家~」(第二十五段)のくだりは当時の公務員の辛さが描かれているので、読んで怒りを覚えた人もいるかもしれない。だから晩年没落したという伝承が生まれたのかも。笑っちゃうのは第三十段「説教の講師は、顔よき」、つまりイケメンがレクチャーすると内容がありがたく聞こえるってこと。あっはっは。チクショー。これは旺文社の翻訳で読んだ。ネットで拾ったので番号は間違っているかもしれない。
「方丈記」は政治の乱れと絶え間ない災害で混乱する時代の空気をよく伝えてくれる。ところが、父の高校時代の教師は「世間から目を背けた負け組の愚痴に過ぎない」とバッサリやっていたそうだ。ひどすぎない? 確かに鴨長明は政争に負けたけれど、僕は好きだ。混乱する世の中からある程度距離を取りたいって気持ちはよくわかる。ただ、読んでみると隠遁生活は楽しそうなんだが、どこか悟り切れていないオーラがある。市古貞次校注。
「徒然草」は前にも書いたが面倒くさいおじさんのエッセイなんだけれど、子どもがいたずらした狛犬を有難がったとか(第二百三十六段)、入口ばかり拝んできて本殿を見ずに帰ってきちゃったとか(第五十二段)、間抜けな人々の話が説教臭いが普通に面白い。
それに、「ふざけてバカの真似をしている時点でバカだが、逆に立派な人の行いを真似るのは十分に立派だ」(第八十五段)とか「修行中寝てしまう人は、寝ていないときだけでも頑張ればいい」(第三十九段)とか、励まされる話も多い。近くにいたら面倒くさそうなおじさんだが、その言葉には勇気が出る。これも旺文社の翻訳で読了。
もちろん時代の制約はある。たとえば、珍しい姿の盆栽を育てていた人の話がある。第百五十四段である。ある時に雨宿りで見かけた大勢の身体障害者の曲がった身体を見て嫌悪を覚え、帰宅した途端に「俺のコレクションはこういう連中を集めてるようなもんだったんだな」と考えて、植木をすべて捨ててしまう。これなんかはなかなかに弁護できない。個人的には、コレクターが飽きる瞬間の描写として面白いし、当時の病に対する態度がよく分かって興味深いけれど、すべての人がここまでくみ取ってくれるかどうかは疑わしい。
これは全くの余談であるのだが、高校生時代に模擬試験を受けたとき、ある古典の問題文が主張している内容が差別的だということで、問題を差し替えてそこだけ再試験になったことがある。確か「私は身体障害があるからこうして人の喜捨で生きていける。かえって幸せだ」と述べる箇所があった。出典は忘れた。
個人的には、例えば中世の障害者はどういう扱いを受けていたか、解説をしたり議論したりしたら、すごくいい授業になったと思う。周囲では「事なかれ主義」だという批判も聞いた。おそらく、「先述したレベルで議論をするのは高校から先の大学以降でやりましょう」ってことなのだろう。もっとも、米国の大学ではナボコフ「ロリータ」の精読を基礎教養から外したと聞いたので、大学院レベルなのかもしれない。どうも米国はよくわからない。合理主義に見える一方で、いろいろな表現規制の根っこには、建国以来のピューリタニズムの遺風があるのではないかと邪推している。
今まで読んできた日本文学についてまとめるのは、一つには我が身を振り返って余計な過去をバッサリと切り捨てたいからである。小説家になりたいという妄念を過去のものにしてしまいたいのである。ここで自分が抱えている妄念を文章にしてしまうことで、意図的に���説の素材として使う機会を潰したい。書きたいという狂気を鎮めるのである。人生で辛かったさまざまな出来事ことでさえ、世間的にはいたってよくあることなのだ。これらについては長くなるし、恥ずかしいので書かない。
小説家として戦うには、いつまでも過去について考え、それを発酵させ、そのうえで自分から離れた普遍性あるものにしないといけない。さらに、時には他人の苦痛を咀嚼して想像しなければならない。自分の妄想は、他人に売りつけるに値するものだろうか?
小説家になる夢はあったが、こんな形でわざわざ嫌なことを思い出して、毎日を過ごすのは絶対に嫌だ。だからここに書き散らして、退路を断ってしまうのである。絶対に忘れてやる。連中の名前もグーグル検索しないと誓って数年が過ぎた。試みは成功している。あいつらのほうが「オス」として優秀に思えても、無視するに限る。しかし、こうして書くこともまた「創作」であろう。文章を読まれたいという欲望は尽きない。だが、万が一創作活動に舞い戻っても、絶対に絶対にぜーったいに自分のトラウマには触れないぞ!
このエントリ群を書きながら内面の暗いところまで沈んで行ったら相当にうんざりしてきたので、こういう創作は二度とやるまい。ちなみに、ブログでなく増田で書いているのは、創作活動をやっている/やっていたと公開しているはてなブログでは、こんなひがみや政治意識丸出しの発言をするわけにはいかないからである。また、初稿では倍ぐらい個人的な過去の出来事の愚痴を描いたのだが、本筋から離れるので削った。
そう、忘れてはいけないのだが、このエントリを書いた一番の動機は、古典の名作を紹介したいからだ。これだけの古典が現代にまで生き延びて読み継がれている国は稀有だろう。日本という国は、まったく非常に多くの問題を抱えているのだが、先人たちの積み重ねには頭が下がる。自分の雑文でちょっとでも興味を持つ人が増えてくれたらとても嬉しい。作者の名前とタイトルを授業で覚えるだけよりも、中身を知ってる方が絶対楽しいからね。
ちなみに、これはタイ王国をディスっているわけではないのだが、プラープダー・ユン「パンダ」の解説で、タイでは(純文学系の?)小説の初版部数は一千から二千冊程度で(タイの人口は七千万弱)、娯楽小説ばかりが売れているそうである。娯楽小説に罪はないし、むしろ好きなのだが、人間の心の基礎研究とでもいうべき純文学はある程度の人数に読み継がれていってほしい。
あとは、自分の好きなことについて語るのが単純に楽しいからだ。何が好きで何が嫌いかを明確にしていくことで、次にどこに向かって進めがばいいのかがわかってくる。次に何を読めばいいのか、自分が本音では何を求めているのか、だんだんと明らかになってくる。
足腰を鍛えたいけれどジョギングだと膝が心配なので散歩がよさそうな気がする。
しかし家を出て目的地もなくただぐるっと歩き回って帰ってくるのの何が楽しいのかよくわからない。
散歩が趣味の人は歩いている間なにを見て楽しんでいるのか教えてほしい。
めちゃめちゃ伸びてる!ご意見、アイデアたくさんありがとうございます。
行く必要のない場所へ行く機会があると、「こここんな道があったんだ」「こんなスポットがあったんだ」的な発見があっていいですよね。一時期ポケモンGOで遊んでいて(ただし移動は自転車や車)これが弊害になって発見は自宅のわりと広範囲ですでに済ませてしまっているのですね。しまったなあ。全部忘れてやり直したい。
約2キロ先の駅前で買い物をするのによく乗ってます。帰りは荷物で重くもなる。ただ自転車だと足腰を鍛える負荷が低いと感じます。特にこのあたりは平坦な地形なので、タラタラこいでいれば前に進んでしまう。冷凍食品やアイスをよく買うので、駅前での買い物を徒歩にするのは抵抗があります。
飼えたらいいんですがペット禁止なので残念ながら。いつか飼いたい。
自転車だとイヤホンは禁止になりましたが、歩くときならこういうのもいいかも。「高橋源一郎の飛ぶ教室」はふだん湯船で聞いています。ラジオ深夜便もよさそう。
足腰を鍛えるという最初の目的を考えれば理想ですね。しまう場所さえあれば。
風呂場でシャワーの前に30分とか、イヤホンでなにか聞きながら足踏みをするのが自分には最適な気がしてきました。真夏でもできて、汗をかけばそのままシャワーを浴びられるし。結局散歩じゃないんか~い!👆💦
本書は、3年毎日に連載されている「これはあれだな」の中から選ばれた文章を集め、過失したエッセイです。
「これはあれだな」とはどのようなコンセプトのコラムでしょうか。
何か気になった事件や本、作品などがあったら、それについて書くのが普通ですよね。それだけじゃ面白くないので、過去に同じようなことがなかったかと探し当て、その二つを比べて何が変わって何が変わっていないかを考えるというのがコンセプトです。
つまり、例えば文学作品であれば、文学作品と何かの映画とか、100年前に同じようなことがあったとか、こういう事件があったけど、50年前に全く同じようなことがあったよね、といったことです。だから、ジャンルが違う場合もあって、例えば映画と最新作のアニメでは、これどこかで見たことあるなと思ったら、80年前のあの映画と同じことをやってない?ということです。
パッと5、6個思いついて「これならできそう」と思って始めたんですが、途中で「大変だ」ということに気づきました。少なくとも二つは見つけなければならない作業であることに10回目くらいで気づいたんです。普通は一つの話題で済むところを、必ず二つ見つける必要がある。多ければ多いほどいいんですよ。例えば今と大正と明治で同じようなことがあった、とか。
時代は変わらないね、というのは面白いんだけど、めちゃくちゃ手間がかかる。読み直しを結構確認しなければならないですからね。一応記憶に頼って「こんなことあったな」と思い出しても、記憶も曖昧になってきます。でも、本当にこれ面白いんだと。途中からは大体ストックがあって、これは似てる、逆に今のこれがあれだけど、あれから発想する場合もあるんです。昔こんなのあって、こんな面白いものって今にはないかな、と。
そうやって見ていくと、最近の若い人の旅に出た記録が1000年前の元神尚の記録に似てるとか、1500年前のものとそっくりだ、とか。そういうふうにしていくと、結構いろんな時代に似たものがある。特徴性が被るものがある。だから、時代にそういうものを生み出す必然性があるっていうことを考えると、話としては面白いんで、ただ手間がかかる。
今回本にまとめられたのも、別に今回が初めてではな��です。これで3冊目です。毎週締め切りがあると憂鬱になっちゃう。まずこれを見つけるでしょ?で、あれがなきゃダメなので、どんなに面白くても「これ面白いんだけど、ペアになるものがいないよね」ってなると、できない。
そもそも、ご自身の文学作品を作るっていうのも、アイデアを出さなきゃいけない。アイデアはひねり出すんですけど、あれを見つけるっていうのはなかなか難しい。でもやっぱりコンセプトが光ってますね。やっててうまくいったときは「これ、よく見つけたな、自分でも」って思います。
あの、本書の前半では、2022年9月13日のフランスの映画監督ゴダールの死について書かれています。高橋さんにとってゴダールはなぜこれほど特別な存在なんでしょうか?
これは世代的なもので、僕の世代で芸術、音楽、映画、文学が好きな人でゴダールに影響を受けていない人はいないと思います。
当時はSNSもないし、情報だって今ほどは入ってこなかったから、例えば映画のニュースもなかった。テレビのニュースもやらないから、どこで知ったかというと、映画雑誌とか、映画芸術とか、そういうところにちょこっと載っていて、新作が出たって今だったら全部SNSでお知らせが来るんでしょうが、そういうのがなかった。だから新作が出たって言っても、日本公開がいつかはわからなかった。
僕は映画だと、アートシアターというのに入っていました。60年代、相当幼い時から、そういう会の会員になって、中学入ってすぐそういう会に入った。だから映画もクレイジーキャッツからゴダールまで一緒に見ていました。そもそもそれを分けて考えるのはダサいって感じだった。
しかも極端なことを言うと、芸術ばかり見ていると馬鹿にされるから、逆にクレイジーキャッツとかGSの映画を見ないと恥ずかしいって感じだった。そういう背景の中で、ゴダールの作品はかっこいいと思ってましたね。彼の即興スタイルが特に印象的で、シナリオを書いていかないんですよね。当日、その場でセリフを持っていく。そして基本的に編集で映画を作るというスタイル。
引用が多い。ゴダールの作品は、引用が多くて、ただ引用しているだけのものもある。それはオリジナリティに対する嫌悪なんだと思うんです。オリジナリティではなく引用で作品を作る。だから、過去の世代を否定する度合が一番強いのが彼で、その影響を受けていると思います。
最後の作品についても書かれていますが、イメージばかりが連続してくる、写真がバンバンバンと順番に来るような映画で、画質は必ずしも良くないのに、なんだか異様に綺麗な映像が印象的でした。
どうでしたか?その最終作に対する感想は?というと、ゴダールの作品が好きだなって感じですね。もういい悪いじゃなくて、好きだって感じですね。ゴダールはずっと「映画はテーマがどうとかじゃなくて、90分なら90分、じっとその映画館に座って見ていればそれでいい」と言っていて、ただ画面を見ていれば幸せ、映画ってそれでいいんだ、という考え方を持っていました。
ゴダールは、自分の映画が自殺の映画だと言っていて、主人公が死ぬ映画が多いんです。「気狂いピエロ」もそうだし、「勝手にしやがれ」もそうだし、最後に主人公が自分で目を閉じて死ぬ。あれはすごいなと思う。しかも、あれがデビュー作なんですよ。最後に自分の意思を表現する映画を撮るという意味で、彼の作品は一貫してそのテーマを持っているんです。
「映画史」という映画も撮っていますが、ゴダールという監督は、常に作品と現実の境界を取り払うことを考えていたんです。作品と現実が別々のものではなく、その境界を取っ払って、映画館で観ている観客に語りかけるという姿勢がありました。
映画の中で、主人公が観客に話しかけるというのは珍しいことではないですが、それを堂々とやったのがゴダール。アメリカでも10年くらい前に「ハウス・オブ・カード」とかで流行りましたけど、ゴダールはもっと前からそれをやっていた。それがかっこよかったんです。
また、魚くんの電気映画「魚の子」や、中村喜子の「女と刀」、植物学者牧野富太郎の「牧野富太郎自伝」などについて書かれた箇所を読むと、一つの観念や興味に取り憑かれて、非論理的であろうが、非経済的であろうが、自分の道を進む人が高橋さんの好きなタイプなのではないかと思いました。そういう方にどんな魅力を感じるのですか?
いや、面白いですよ。単純に普通に面白くないですか?ちょっと病的な感じさえありますが、頭おかしいんですよね。でも、そういう人は見ていて面白いですね。付き合いたいとは思わないけど。
でも例えば、魚くんだと、そこに書きましたけど、魚くんも面白いけど、お母さんがすごいですよね。僕も読んで「あ、そうなんだ」と思いました。魚くんの主人公はお母さんなんですよね。つまり、こういう人はいるんですよ、きっと。街を歩いても変な人はいます。変な人はいるけど、大体は困るんですよね。それが普通で、生きる人の知恵です。普通に生きてるとそうなるんですよ。
でも、時々そうは思わない人が出てくる。だから、変な人も大事なんだけど、その変な人を受け入れる人の方が自由だと思っています。お母さんがそうですね。お母さんは自分の息子だけど、そのおかしさを全面的に抱きしめる。
普通、おかしいって言っても結局排除されるか、直されちゃう。「お前、おかしいから普通にしなさい」と。でも、そのおかしさを育てるというのがすごいなと思います。それは他者とか異業のものを尊重するってことなんですよね。つまり、おかしくても存在意義がある。
これは結局、すべての人に存在意義があることにつながるんですけど、普通の人は存在意義があると認められている。でも、おかしな人とか、魚くんならいいけど、例えば身体障害者とか、知的障害者の人たちは見たくないと思うこともある。でも、それでも家族でも受け入れられない人もいる。
僕も色々調べました。障害がある子供が生まれると、受け入れられる家族と受け入れられない家族がいます。時間をかけて受け入れられるようになる家族もいます。特に父親は最初は受け入れないんですよ。でも、母親はすごいなと思います。お母さんは何でも受け入れるんですよね。
魚くんも牧野富太郎も色んな人が出てきますけど、その面白さとは別に、それを誰が受け入れたのかが重要なんです���牧野富太郎も変人だけど、奥さんが受け入れたんですよね。牧野富太郎は植物愛に没頭する変人ですが、それを受け入れるのは大変なことですよね。
でも、それを受け入れたからこそ、彼の生存が保証されたんです。だから、僕が書いた美方ククスとかも超天才だけど、あれ夫だったら困るよ。でも、受け入れた人がいたから、その生存が保証された。
でも、どうですかね。例えば、牧野さんとか魚くんとか、みんな著名になって仕事に繋がって成功しているけど、そこまでお母さんが考えていたか奥さんが考えていたかは分からないけど、魚くんになれなかった魚くんや、牧野富太郎失敗版みたいな人も絶対たくさんいたはずです。
結局、成功者の影には1000人の失敗者がいると思います。きっとそういう人たちのところにも、お母さんがいたんですよ。でも成功しなかったけど、いいんじゃない、それで。
これでも、親もすごいけど、1000人の失敗した人を見守ってた親がいて、その人たちが不幸だったかっていうと、そうでもない。そういう人たちは必要なんですよ、ということをよく考えますね。
セコさんの漫画「マダムたちのルームシェア」とか、信友直子監督の「ボケますから、よろしくお願いします」、早川知恵監督の「プラン75」など、老いと向き合った作品が多数言及されています。今、世界で最も高齢化の進む国と言われる日本で、高橋さんは何を感じていますか?
自分が年取ってきましたからね。今年で73歳です。もうやばいです。あと2年で後期高齢者です。やっぱり、身体的な衰えを感じます。確実に老いていくのがわかります。それに対して色々と体に気をつけています。
一つは、老いを新しい経験だと捉える感覚です。確かにそうですよね、経験したことないことですから、新鮮です。僕もそうですよ。ちょっと年を取ってきて体が辛くなってくると「こんなの今までなかった」と思うことがあります。
例えば、鶴見俊輔さんという哲学者の方が「限界芸術論」を書かれたんですが、90歳を過ぎて、「今日1日転ばないことを目標に生きよ」と書かれていました。「あ、そういうもんなのか」と思って、わかりました。
転びそうになるんです。僕、スクワットして足腰を鍛えているから平気だと思っていたら、筋肉じゃないんですね。バランスが悪くなっている。神経が悪くなっていて、神経は鍛えようがないから転ぶ。僕は筋力鍛えれば大丈夫だと思っていたけど、そうじゃなかったという新しい発見がありました。
そんな老いを新しい経験だと思って、余裕を持って受け入れることが大事なんです。実際、この国、これは日本だけじゃないと思いますが、68歳、70歳、72歳になると社会の窓が次々と閉まっていく。つまり、色々なことができなくなってくるんです。
例えば、家を借りようと思ってインターネットを引こうとしたら「72歳ですか、ではご家族と契約になります」と言われたんです。「70歳とインターネット契約ができないってどういうこと?」と聞いたら、「こういう決まりなので」と言われて、「おかしいでしょ」と思いました。これってちょっと差別的ですよね。
プラン75もそうですが、年寄りが不要だという考え方があるんですよね。これが寂しいです。今「シルバーデモクラシー」と言われて、年寄りが恵まれていると言われていますが、それは嘘だと思います。年を取ってみたら、社会の窓が閉じていく。シルバーデモクラシーという言い方で、年寄りが恵まれていると若い人に思わせようとしているんです。
でも実際には、全世代がそれぞれ抑圧を受けている。70代以上はこういう抑圧があるけど、20代30代も年金の支払いなど、みんなそれぞれ抑圧されているんです。だから、全世代が連帯しなきゃいけないと思うんです。分断が一番都合がいいから、それをやめるべきです。
僕は政治テーマとして、全世代が連帯すべきだと考えています。知らないかもしれませんが、70歳になったらインターネット引けないんですよ。72歳になったらローンもできないんです。なのに恵まれているなんて、ふざけているとしか思えません。
これは、土線(映画)とかでテーマになってもいい話ですよね。でもそれはなかなか声になりにくいんですよね。40代50代の時には知らなかったけど、68歳70歳72歳で新しい抑圧が出てくるんだな、と気づくんです。
社会ってさ、普通のことは知らせないようにしているんですよね。それぞれの世代とかジェンダーで、社会から抑圧されていることをお互いに調べ合って、連帯しなきゃだめです。
ジャニーズ問題と玉音放送について、高橋さんがテレビ局の幹部たちに「ジャニーズ問題を無視するのか」と質問した時のエピソードについて書かれています。昨年末にジャニーズの性加害問題が巨大なテーマになりましたが、この間、どう感じていましたか?
あそこにも書きましたけど、僕がちょうどBBCが放送した直後に番組審査員を辞めて、最後の番組で「これはダメだよ」と言ったんですが、沈黙がありました。その後、某テレビ局が漫画問題で騒ぎになって、それを良かったと思って続けました。
でも、やっぱりテレビ局は商業放送だから、視聴率が下がることが怖いんですよね。だから、視聴率が下がる可能性があることはなるべく避けたい。僕は怯えすぎだと思うんですけどね。もうそんなに怖がらなくても、普通の常識でやればいいのに、忖度している。忖度しない方が視聴者の指示を得るんじゃないかと思いますが、なかなかそうはならないんですよね。
今と昔を比較して、昔の方が保守的だったかというと、そんなことはなく、テレビ全体は進化している。ただ、メディアが動画サイトやSNSに壊れていく時にどうするかを同時に考えなきゃいけなくなっているので、やることも多いんです。
だから、僕も言ったんですが、面白い動画サイトの番組はテレビより面白いですよ。テレビのバラエティなんてやめたらいいと思います。個人で作っているものでも、ものすごくよくできた動画番組があるんです。それを見たら、テレビはお金も人もあるんだから、もっとできることがあるはずなんですよね。
Netflixのドラマなんかも面白いですよ。コンテンツの中身も含めて、やれることがあるのにやっていない。同じようなラブコメばかり作って、誰が見るんだろうって思います。
江戸川乱歩の「芋虫」を現代では取り上げることがかなり難しいということについて書かれていますが、以前、マルキ・ド・サドの作品を絶賛されていた話もあります。今の時代の言論の空気感についてどう感じていますか?
メディア、テレビ、ラジオだけじゃなくて、小説も含めて、僕がデビューした頃に比べると、だいぶ書きにくくなっています。例えば「ピエロ」って言えないじゃないですか。今では「ピエロレフ」って言われることがありますが、検索しても出てこない。
一番怖いのはこれですよね。こういう名詞ごと削除されること。ポリティカル・コレクトネスで、こういう言葉を使いなさいというのは一つの考え方としてあるかもしれませんが、元々あった言葉が使えないというのは、歴史の捏造じゃないですか。
今、「ジプシー」って言葉も使えないんです。「ロマ」とか言いますが、これは歴史の捏造であり、存在させないという方向に進んでいるんです。例えば、ゴダールの「気狂いピエロ」も、僕はそれを見ましたからね。でも、「ピエロレフ」って言われてもわからない。
ポリティカル・コレクトネスについては、理解できるところもありますが、理解できないところも多いです。多分、それを推進している人も、やっていて変だと思っているんじゃないかと思います。定義や限度が確定していないのが問題で、空気みたいなものだから。
ポリティカル・コレクトネスの一つの問題点は、日本が元々空気社会だから、空気で決めるというのはやばい。ポリティカル・コレクトネスが空気で決められるようになっているのが、日本の事情なんですよ。
上辺だけの議論が多く、社会的な不正義の問題は見ないで、言葉だけで物事を判断する。ポリティカル・コレクトネスは、社会的な問題を言葉だけで覆い隠そうとしているだけです。
その辺が、日本という国は忖度する社会だから、空気を読めということがずっと言われてきて、変わらなかった。変わるかと思ったら、ずっと空気を読んでいる。片方では多様性を唱えているけど、それは言っているだけで、実際には何も変わっていない。
大杉栄についても言及が複数見られます。思想、生き方、性格、私には高橋さんと似ている印象を受けましたが、大杉栄をどのように見ていますか?
大杉栄は、日本でも代表するアナキストですが、やっぱり感じがいいですね。友達になりたいなと思う。問題はいっぱいありますが、女癖が悪いとか、迷惑な部分も多いけど、その一方で愛すべき点がある。だから、あの人は人たらしなんです。
例えば、子育てをしていたんです。普通、政治的な人は政治活動はするけど、家のことは見ない。でも、大杉栄は、伊東のと結婚して子供が生まれたら、赤ん坊の選択をしたり、オムツを変えたりしていた。嫌じゃなくて、それが好きだったんです。
彼の中では、夫婦や男女の形は形式じゃなくて、対等であって、子供だから自分が Permalink | 記事への反応(1) | 08:25
nekokauinu
nekokauinu 同様に「私、格闘技とか案外好きなんです」「実はミリオタで」って女性にも同じ感じあるから、そういうことあまり言わない方がいいよ。
2023/06/21 リンク
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maketexlsr
maketexlsr 俺ピンポイントでくらもちふさこ好きなんだけど、別に"本当に読んでる人"とかいわれるような漫画読みじゃないよ。Kiss+πr^2は最高だけどさ。
2023/06/21 リンク
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Re-birth
Re-birth 読みやすいから読んでるんだろうが、ひけらかすわりに中身がというのはあるよな。メイクの魔法が陽の男女に流行っていたことある。
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laranjeiras
laranjeiras 「『私、野球好きだよ』と言う女に、好きな選手を聞いて大谷の名前があがってくるとげんなりする。心底がっかりする。せめて牧原ぐらい言ってもらえませんかね。」
2023/06/21 リンク
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ikanosuke
ikanosuke 下弦の月、パラキス、マリブルを推してくる男性がいたときは感動した。(矢沢あい好き)
2023/06/21 リンク
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temimet
temimet よく知らんオタク同士の会話はどのジャンルが好きかからどのくらいのレベルで好きかとかをお互い探りながら話すけど一般の人にそれを求めてるの? 増田
2023/06/21 リンク
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hisa_ino
hisa_ino 理解とかじゃなくて単に読みたい漫画を読んでるだけなんだがな。『花よりも花の如く』『王妃マルゴ』『ボクは地球と歌う』あたりで許してくれる?まあ作者は昔の人だけど。 あとで読む
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tempodeamor
tempodeamor いや、くらもちふさこもそっちの枠だろ
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellowyellowyellowyellowyellowyellowyellowyellowyellowyellow
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akihiko810
akihiko810 森本梢子、よしながふみ、小玉ユキあたりは「男性でも読みやすい少女漫画」だよね。そして「男性でも読みやすい少女漫画」の方が「このマンガがすごい」等で評価される
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellow 2 clicks
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wagahai_ha_neet
wagahai_ha_neet 元エントリは15年前。これを今の話だと思って普通に反応できてるやつらは、15年前で時間が止まってるってことなので心配になるよ。
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellow
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hoshinasia
hoshinasia 新参をけなして界隈をダメにするオタクムーブやねぇ…
2023/06/21 リンク
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kagerouttepaso
kagerouttepaso 少女漫画はどこから潜ればいいかわからないか浅瀬でチャプチャプになったちゃうんだよな。ぜひおすすめをマシンガンのように押し付けてほしい。
2023/06/21 リンク
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neet_modi_ki
neet_modi_ki 「男性も楽しめるタイプの少女漫画」「漫画好きに好まれる系の少女漫画」の代表作がそのあたりだから仕方ないのでは。そうではないゴリゴリの一般少女漫画を心から楽しめる男性はそこまで多くないというか…
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qouroquis
qouroquis 清原なつのと陸奥A子と岡田あーみんが好き(どういうラインナップや
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azumashman
azumashman 「俺オタクでワンピースとかめっちゃ好きなんだよねー」を馬鹿にするのと同じ感覚か
2023/06/21 リンク
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auto_chan
auto_chan いいよいいよ!わあいガチ勢がいっちょ神勢に噛みつく文章だいすき。「心は広いが理解が浅い俺君」を深い沼に引きずり込も!「ハチクロ」や「となりの怪物くん」とか、いわゆるマサルさんが出てくる漫画好きです。
2023/06/21 リンク 1 clicks
その他
MiG
MiG 正直わかる部分もある。でも腐したいんじゃなくて萩尾望都と大島弓子を読んだなら木原敏江や青池保子も読んでくれ…!という心の叫びです。/最近ハニーレモンソーダ読んでるけど学校の治安の悪さに震えてる。
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellowyellow
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fusionstar
fusionstar 紡木たくと谷川史子と岡田あーみんが好きな僕はどうですか。
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osyamannbe
osyamannbe いくえみ綾
2023/06/21 リンク
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toraba
toraba 少女漫画出身の漫画家によると「70年代後半で少女漫画の才能は出尽くしていて最近は少女漫画読者のレベルが落ちてる」そうなので、漫画読み達は脂がのった時期の24年組で満足しちゃうんじゃない?https://youtu.be/wOTic-2qBj0
2023/06/21 リンク
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behuckleberry02
behuckleberry02 15年前の記事かあ。『スキップとローファー』を読んで再確認したけど少女漫画はジャンルの拡散が進んでますね。アフタヌーンかよこれ。『天然コケッコー』『海街diary』のジャンルだしコーラスか flowers に載ってそう。
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellowyellowyellowyellow
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moxtaka
moxtaka し、篠原千絵……
2023/06/21 リンク
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hamigakiniku
hamigakiniku 曽根まさこ本当におすすめ!!絵柄で敬遠しないで。怖いし笑えるし外れなしです。アンリミに沢山あるし試してみてくれー
2023/06/21 リンク
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nitino
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fncl
fncl 俺、少女漫画好きだよ。岡田あーみんとか!/萩尾望都は11人いる!やスターレッド、百億の昼と千億の夜みたいなSF作品中心に見てるので、少女漫画の人だという印象が薄い。 増田 漫画
2023/06/21 リンク
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Pinon3s
Pinon3s 自分の身近には逆に少女漫画読んでませんって女性が多い 増田
2023/06/21 リンク
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tribird
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versatile
versatile 山岸涼子と魔夜峰生はほぼ全部読んでる。スキップとローファーは少女マンガ?足ガールも好きだけど、少女漫画?。ちはやふるは?
2023/06/21 リンク
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nibo-c
2023/06/21 リンク yellowyellowyellow
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ani11
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katte
katte 惣領冬実だったら許してもらえるのだろうか?
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atoh
atoh 20年ぐらい前、飲み会で漫画の話になり、女の子に『ガラかめいつ終わるんやろなぁ』と言ったら、読んだことないと返事来て、めっちゃ驚いた。誰でも読んでるとおもとった。 増田マンガ男女本論無関係
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellowyellow
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arigatouthx
arigatouthx いつも引くけどブコメも増田も、再投稿や転載だと判明しても自分が語りたかったらそのことスルーして話し続けますよね。本元がわかった以上そっちにコメントした方がいいと思いますが。https://anond.hatelabo.jp/20080226120600
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellowyellowyellow
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caligo
caligo 24年組は私も読んだことないな…。少女漫画って雑誌の系統で「これなら読める」が紐付けられていくからなあ。その点で白泉社系は強いと思う。ブコメでトッペンカムデンみて感動してしまった。
2023/06/21 リンク
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rindro
rindro 20代だけど、読んでるかはともかく24年組は一般常識として知ってる人の方が多いですよ。親の棚とか図書館の本棚にもあるし。第一線の売れっ子が名前出すし。
2023/06/21 リンク
kyasarin123
kyasarin123 そういう時は『ガラスの仮面』について議論して論破すればイイんだよ。24年組なんて平成生まれはもう知らないでしょ。のだめも君に届けももう過去だよ。
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mamezou_plus2
mamezou_plus2 団塊Jrでキャンディ•キャンディ世代なので男子が少女漫画読むのに違和感ないんだけど。伯爵令嬢、生徒諸君!、竹本泉作品、佐々木淳子のダークグリーンとか槇村さとるのスケートマンガ等。ホットロードは革新的だった マンガ
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellow
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white_rose
white_rose 24年組は教養ある俺って感じ。昔の白泉系の時間が止まってるおじさん、最近の白泉系のアニメ化作品しか読まないおじさん等。/電書でも青年レーベルしか読まずそこで少女漫画テイストを発見して持ち上げる人よりまし
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nekoluna
nekoluna イヨっぺビーム撃つぞ / そこは空気読まずにCCさくらを答える
2023/06/21 リンク
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tdaidouji
tdaidouji 言うてここ2、3年の伝統レーベル(花ゆめとか無印KCとか)はかなり低年齢向けに作品シフトさせてんなーと思うので、最新の流行を語れというのは一昔前よりだいぶ厳しいと思う(一応月1冊ぐらいは拾ってんすけど
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tourism55
tourism55 ”せめて「バルバラ異界」ぐらい読んでから言ってもらえませんかね。”萩尾望都の名前上げるならこう言いたいのはわかる。でも「”一度きりの大泉の話”も読んでます」って言われてもそれについてトークしたいか??
2023/06/21 リンク yellowyellowyellow
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ad2217
ad2217 やっぱ「黒のもんもん組」くらいは読んでないとな。
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softstone
softstone その意見はわかったので、萩尾望都と羽海野チカが好きな私が本当は何を理解しているのか、その名前を教えてください。
2023/06/21 リンク
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norinorisan42 自分の理解するものを理解しない人間を否定する心の狭い増田という印象
2023/06/21 リンク
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tockri
tockri 関係ないけど少年漫画と少女漫画がなろう系の悪役令嬢あたりでで交わってくるの、過去の乙女ゲーの文脈とかも踏まえると史学として面白いよね。
2023/06/21 リンク 4 clicks
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morita_non
morita_non もとエントリ15年前だと?そして自分もコメントしとったわ。
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellowyellow
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miruna
miruna 再掲か。前に私が書いたエントリは海燕のカスがこの手のカスみたいな少女漫画の紹介書いてたのでムカついて書いた。エリート主義なのは萩尾望都とかしか読んでない奴の方。 https://miruna.hatenadiary.jp/entry/2022/01/14/150048
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lovely
lovely すっごいわかるけど自分も白泉社メインだったからあまり他人のことは言えない笑 増田
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellowyellow
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babelap
babelap 「地球へ」とか「ピグマリオ」とか「OZ」とか「少年魔法士」とか……(BASARAは合わなかった)/漫画アプリの関係で少女漫画っぽいの読む機会ふえたけど、少女漫画的お約束の強すぎるやつは読み続けないな…
2023/06/21 リンク
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anguilla
2023/06/21 リンク
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hyphenkorosi
hyphenkorosi 最近だと、末永くよろしくお願いします、かげきしょうじょ、機械じかけのマリー、コレットは死ぬことにした、名探偵耕子は憂鬱などを買いました。よろしくお願いします
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no45
no45 こういう増田みたいな排他的でエリート主義な人が、そのジャンルのファンを減らすことにつながると思っている。“浅い”ファンでもいいじゃん。
2023/06/21 リンク
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ayumun
ayumun まあ太宰読むよって言われて、走れメロス読んだ事あるくらいの教科書掲載古典作品の感じなのでモニョるのは分かる。逆に俺は萩尾さんとか大島弓子苦手で、あんま読んでないからむしろお話しできないけどな。
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellowyellowyellowyellowyellowyellowyellowyellow
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satovivi
satovivi 自分好みを通好みと決めつけてるだけかもよ。メジャー作品は浅いなんてことはなく、広く受け入れられている理由があるわけで。そこを深掘りしていくのもきっと楽しいよ。
2023/06/21 リンク
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kei_mi
kei_mi 有識者としてコンビニ店長の意見が聞きたいな… (願望) / 少女マンガ好きは作家じゃなくて雑誌で語るような気がする。 別マ派と花ゆめ派みたいに(少コミとフレンドはよくわからない)
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NOV1975 よくわからんが、少年漫画で好きな漫画がドラゴンボールとかスラムダンクの世代だと少女漫画もその年代のものが上がるよね、程度の話なのでは? web
2023/06/21 リンク
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zettaimuri
zettaimuri 一条ゆかりの砂の城は胸焼けするほど作者の性癖盛り盛りなので読んで欲しい
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htnmiki
2023/06/21 リンク
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kjin
kjin ここはともかく、他の文は全て、他の作品を優しく教えてあげるにしろ寛大な人でも多かれ少なかれ内心にあるんだろうなあ、と。どの界隈でも。“要するに「少女漫画を理解する心の広い俺」を演出するために、いちばん
2023/06/21 リンク
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right_eye
right_eye いや本当に死ぬほどウザい。誰が何読もうとも勝手だし女性理解を深めようとメジャーな少女漫画読んだとて非難される謂れないだろ。好きな漫画家はおがきちかだがこの増田にそんな事良いも悪いも評価されたくはないね
2023/06/21 リンク
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grdgs
grdgs あからさまな釣りに引っかかるアホ多すぎだな https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20080226120600
2023/06/21 リンク greenyellowyellowyellowyellowyellowyellowyellow
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tastasto
tastasto 父は別に少女漫画好きとは公言してはいなかったがリアルタイムで花の24年組を見て衝撃を受けたらしく私が集めていた少女漫画も片っ端から読んでいた。CCさくらとハイスコアと赤ずきんチャチャにハマってたな 増田漫画
2023/06/21 リンク
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misojiru
misojiru お前に気に入られるために漫画を読んでいるわけではない。
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kuborie
kuborie 「俺、少女漫画好きだよ。岡田あーみんと、BANANA FISH」
2023/06/21 リンク
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Ri-fie
Ri-fie https://anond.hatelabo.jp/20080226120600見た覚えがあると思ったら。きっと男女問わず何か言いたくなるテーマなのだろう。 メモ
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellowyellowyellowyellow
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yujimi-daifuku-2222
yujimi-daifuku-2222 懐かしい論調。/その昔2chが流行っていた頃、この逆パターンの批判が男オタクから女オタクに向けてなされたものでした。/クサしてる訳じゃなくこの手の批判は女の側からもどんどんやって良いし、それは叩きではない。
2023/06/21 リンク yellowyellowyellowyellowyellow
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pokonyan7777
pokonyan7777 今だと「女の園の星」と答えると、げんなりされるのだろうか?
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deep_one
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preciar
preciar 相手が知ってるかわかんねえんだから、初手から岡野史佳とか紺野キタとか言うわけねえだろ。大体、市場が破滅的にシュ���ンクし続けてる事からわかるとおり、近年になるほど語れるようなヒット作・良作がねえんだよ
思い出してどうしても書きたくなったので書く。
ベストセラー「十二国記」シリーズのエピソード0なのだけれど、独立して読めるのでこれにした。
この作品に魅了された理由は二つある。一つは、二つの異世界が出会うことで起きる惨劇がSF的に面白いということ。こちらの常識が向こうには全く通じず、逆もまたしかり。ホラーではあるが、コミュニケーション不全の悲しみもある。作中の大量死の原因は、たった一つの誤解が原因なのだ。
もう一つは、主人公の未熟さが残酷なほど明らかになっていくことだ。ある意味、ファンタジーに逃避しようとする読者に喧嘩を売る態度で、後述するが僕は作者に喧嘩を売られるのが好きである。
貧困による家族との別離、恋愛のもつれや政治的立場の相違によってばらばらになっていく幼なじみ、人妻による少年の誘惑、昔の知人との思いがけぬ場所での劇的な再会などなど、個人的に好きな要素が濃密に詰め込まれている。それは安易な娯楽に堕しそうでいて、何とか踏みとどまっている。
カミュの小説では背景に過ぎなかった人々を主役にしているのもいい。「異邦人」のアラブ人はまったくの他者というか、理解できない原理で動く人格を描かれない、あるいはそもそも持たない存在だったように記憶している。
同著者の「カブールの燕たち」も面白かった。イスラーム原理主義者により公衆の面前で恥をかかされたことで、妻は夫を軽蔑し、憎むようになる。タリバン政権下の苛烈な描写は読んでいて苦しく、告発の書としても読めるのだが、同時に、ストーリー自体はオペラのように派手なのだ。わざとだろうか?
壮大な時間と空間の中で行われる追跡劇で、歴史改変やタイムパラドックス、進化の階梯など、テーマのスケールが大きすぎてこの長さでそれをやろうとするのは完全な蛮勇なんだけど、でもたぶん小松左京の作品では一番好き。この作品にはエピローグが二つあり、そのうちの片方は比較的序盤に現れる。失踪していたある登場人物が帰ってくる場面だ。これを、小説の最後まで読んでからもう一度読むと、深いため息が出る。本当に果てしない旅を経て、帰ってきたのだなあと。
扱われた科学技術は古びるかもしれない。未来世界の女性観や社会の描写も今では受け入れられないかもしれない。でも、表現しようとしたテーマは古びていない。SFはいつだって宇宙と時間の果てに手を伸ばそうと愚直なまでの試みなのだ。
冒頭で、パリのどこを歩いていてもお互いに出会ってしまう恋人の話で始まったので、どんなロマンチックな話になるのかな、と期待したのだが、友人が服毒自死未遂したり恋人の赤ちゃんが死んだりしてもひたすらマテ茶や酒で飲んだくれている、こじらせ芸術家(ワナビを含む)たちのお話だった。
しかし、この作品には仕掛けがある。通常の順番通りに読む「第一の書」という方法と、著者に指定された順番で、巻末にまとめられた付録の章を挟みながら読む「第二の書」という方法、この二通りで読めるのだ。第二の書では章の番号が飛び飛びになり、まさに石蹴り遊びのようになる。そこでは第一の書で省かれていたいくつかの事実や、登場人物の秘めた行動原理が明かされる。そればかりか新聞からの脈絡ない切り抜きや、この本の著者と思しき人物の晦渋な文学論を含んだ独白が含まれ、そこでは一貫性を過剰に求め、受動的にしか読もうとしない者が批判される。要するに読者に喧嘩を売ってくるわけだ。
読者に喧嘩を売る芸術が好きだ。なぜなら偉大な作家と同じ土俵に立てた錯覚を持てるから。
「ダフニスとクロエー」並にこっぱずかしいイチャラブもの。誰だって一緒に育ってきた少年少女が迎える性の目覚め的なシチュエーションに萌えてしまう時期があるのだと思う。もっとも、村上春樹作品の場合、一緒に育ってきた幼馴染の男女は不幸な結末を迎えるのが常套なのだけれど。
少年が人妻に誘惑され先に性体験をするというのも、王道でいい気もする。とはいえ、昨今は少女が先に目覚めるパターンも読んでみたいと思うのである。
北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」とか妹尾河童のインド旅行記にしようかとも思ったが、終着地のロンドンについてからのオチが笑えたのでこれにした(興味があったらこの二つも読んでください)。
元々はデリーからロンドンまでバスで行けるかどうかという賭けが旅のきっかけだが、「一人旅の海外は二十六歳くらいがちょうどいい、それよりも若いと経験値が少なすぎて、あまりにもすべてを吸収してしまおうとする」なんて趣旨のくだりがあり、初めての一人旅を読んでそうかもしれないとうなずいた。
少し前の時代の旅行記は面白い。今では身近なフォーやケバブがすごく珍しいものとして書かれているし、天然痘が根絶されていない時代の怖さもある。一方、アフガニスタンもイランが今ほど物騒ではなく書かれており、政変を身近な危険として感じることができる。
それはさておき、ほんと、スマホができて一人旅はずいぶんと楽になった。
強くてかっこいいことや、くじけずに挑むことに背を向けていた自分が気に入った数少ない強い人間の物語。「星の王子様」が気に入った人は、ぜひぜひこちらを読んでほしい。いや、星の王子様が子供向けに感じられた人や、表現が簡潔すぎたり抽象的過ぎたりしていると感じた人にこそ読んでほしい。あの物語の背後にあった、サンテグジュペリの飛行機乗りとしての経験がそこにある。
はるか未来の、中国の影響下にあるロシア。そこでは文豪のクローンに物語を執筆させることで、謎の空色の物質を生成する、錬金術的プロジェクトが稼働していた! この神秘の物質をめぐって繰り広げられる陰謀の周囲には、ロシアの文豪の文体のパロディあり、フルシチョフ×スターリンのイチャラブセックスあり、ナチスと同盟を結んだ並行宇宙のソ連あり。
筒井康隆と高橋源一郎と矢作俊彦を足して三で割らずに、ロシアの権威と文学を暴力とセックスでぶっ飛ばす。ちなみにラストは爆発オチ&ループオチだ。
章が進むごとに使える文字を一つずつ減らしていく趣向で、たとえば最初の章から「あ」の含まれる言葉を使えなくなっている。表現の自由と不自由について体を張って考える作品であり、使えない文字が増えるにつれ、新しい表現を開拓しなければならない。その中で語られる文学論や自伝は、片言だからこそ重い。また、使える文字制限がある中での官能表現も、表現の自由について鋭く問う。
筒井康隆のすごいところは、狂っているように見える文章を書く才能だ。それがなんですごいのかっていうと、正気を失った人をそれらしく演じるのがとても難しいからだ。というのも、精神を病んだ人のなかにも、本人の中では一貫した理屈があり、全くのでたらめではないからだ。また、倫理観の壊れた人間を書くのがめちゃくちゃうまい。かなりグロ耐性のある自分も「問題外科」だけは気持ち悪くて読めなかった。これも、人間の常識についてかなり深く考えないとできないことだ。
ちなみに、ジョルジュ・ペレックの「煙滅」はイ段の文字を一回も使わないで翻訳された小説で、これもただの遊びにとどまらない。語りえないホロコーストという事件をモチーフにしていて、あるべきものが不在なのにそれが何かわからない居心地の悪さをテーマにしている。これが気に入ったらオススメしたい。
ドストエフスキーはヤバいやつだが、トルストイもそれ以上にヤバいやつだ。家庭を顧みずに財産を国に残そうとする狂信者だ。正直、妻や子供たちがかわいそうだ。後期の「光あるうち光の中を歩め」もはっきり言って宗教の勧誘パンフレットであり、読んでいて内容が完全に予想できる。ヤバい新興宗教のパンフレットのほうが何が書いてあるか予想できなくてある意味でまだ興味深い。
しかし、そんな将来そこまで頭の固くなる人間が不倫の話を書いたのだから面白い。確かに、清純な愛を貫くいい子ちゃんなカップルと不倫カップルの対比はわざとらしい。けれども、まじめカップルの愛情の細やかさと、一時の感情に負けた罪のあるカップル、どちらも美しい文章で書かれている。物事は正しくあるべきと考えている人間が、罪を犯してしまう悲しみを描いているのがいい。
これは、プロットを道徳に完全に屈従させてしまう前のトルストイのすばらしさが詰まっている(そういうわけで好きな長篇の順番は年代順に「アンナ・カレーニナ」、「戦争と平和」、「復活」)。
あ、今思い出したけど、ソルジェニーツィンも好きだったんだった。
作品の根底には人間性への諦念が横たわっているのだけれども、初期の頃はそれが明確な暴力となって描かれていた。表現は淡々としているが、殺人や人類滅亡なんてよくある話だった。けれども、このころになるともっと表現が静かになっていった。悟りを開いた、というのとは違う。間違いなく諦念はある。けれども、苦い絶望とはまた別の感情がこもっている気もする。非SF風のものが多いのも面白いので、星新一の芸風に飽きた頃に改めて手に取ってほしい。
自国である日本の問題に結びつけずに、他国である中国の問題にしか結びつけないことが問題だね、という話をしている。だから、ディストピアを自分の社会と連続性のある概念と捉えるためのディストピア発見実習をしようか、という話をしている訳だ。
学生が「中国の問題にしか結びつけない」かどうかは、学生とやり取りした北村紗衣先生本人しかわかんないことじゃない?いや本人にすらわかんないよね。元増田が書いているように、日本にも関連はあるけど、中国のほうが関連が強いという理由で、(日本については言及せずに)「ディストピア作品って中国みたい」って発言した学生がいる可能性が十分ある。なのに、学生が日本に結び付け���くて問題だって、北村紗衣先生が勝手に誤解してる可能性もありますよ。
「内容が中国より日本に合致するディストピア小説」の話だ、というのは増田が言い出したことで、saebou氏がいっていることとは関係ない。というか、とんちんかん。
そういう関係ないと決めつけて多様性を許さないのがディストピア。作品の内容との類似性より、自国である(他国でない)ことを絶対視しなければならないなんて、そんな決めつけが当然なの?読書は自分なりにできる自由なものだって、早稲田大学や高橋源一郎先生は言ってますよ(後述)。
ディストピア作品の内容が、日本より中国にあてはまってると考えた学生が日本と関連づけないのが問題になるのが、武蔵大学ってことなのかな。
(北村紗衣先生を「saebou氏」って書くの、すごいっすね。)
まず、ニュースピークや二重思考の話をしているから、具体的な例としてオーウェルの『1984年』が想定されているよ。具体的な例を挙げていないという批判は的外れ。
教えてくれてありがとう。ニュースピークによる語彙の制限は金盾、二重思考は社会主義市場経済とすれば、中国に当てはまるディストピア作品だから、学生が中国を挙げることは自然だね。もちろん、日本にも当てはまる事柄がないという意味ではなく、中国の方がわかりやすいという意味で自然だね。具体例があると、学生の考えに一理あることがわかりやすくなるね。
最近出版された「まんがでわかる 1984年」の宣伝では、中国にあてはめたり(支配層が都合のよい形で人々に「何が当たり前か」を刷り込み、疑問に感じる力を奪いながら、感情を「型にはめていく」様を描いた小説『1984年』。コロナ禍を経て、今一度、権力と個人のあり方について考える状況にあるといえます。今回のコロナの感染源・中国のITによる超監視社会は、『1984年』の世界を彷彿とさせます。)、日本のようだ(自粛・正義・幸福追求・相互監視の暴走!世界文学の名作を新解釈!まるで今の日本のようだ!)となってる。「ディストピア文学の読み方が分かってないですね。ディストピア文学は読み手がどこに住んでいようと、「今、我々が住んでいる場所」を描いたものとして読むんですよ。」という北村紗衣先生からすれば、宝島社は文学の読み方がわかってない(中国を思い浮かべた)担当者が宣伝してると断言していますね。
実際、1984年が共産主義国における全体主義の批判であるのは間違いないとしても、1984年がソ連とかの社会主義国とかだけの話で、西側諸国は関係ない、みたいな読み方されても、オーウェルも困ると思うよ。
そんな読み方を誰がしてるの?元増田は日本にもディストピア作品に関連する要素はあると書いてるし、学生は「中国みたい」と言っていても、「西側諸国は関係ない」なんて言ったとはどこにも書いてない。もし言っていたとしたら、それがわかるのは、北村紗衣先生本人だけだよね?
それに、作品を理路整然と解釈した結果、作者の意図と異なることだってあり得るのに、作者が困るから作者の意図通りに読まなければならない、って、武蔵大学はそんな権威主義の学問しか学べないんですか?
早稲田大学だと、「自分だけの読み方を見つけ、人を納得させる。「自由に読むことの楽しさと厳しさ」を学べる」のに。高橋源一郎先生は「個人が読むということは、僕は書くよりもクリエイティブなことだと思っています。そこには「社会」の「声」といったものがまったくない。「こう解釈されているけど、僕は違う」と読むようになることが「何かを読む」ことじゃないかと思うんです。」と話しているのに。
で、誰とも知らない学生がディストピアを日本にあてはめないと先生が愚痴っていても、どの学生にも不利益ないよね。どこがディストピアなんだろ。言葉尻をとられて混ぜっ返しても意味ないよ。
二重思考ができてるね。(支配層が都合のよい形で人々に「何が当たり前か」を刷り込み、疑問に感じる力を奪いながら、感情を「型にはめていく」様を描いた)小説『1984年』を教材にする北村紗衣先生(支配層)が、ディストピア作品は日本に関連付けるのが当たり前だということを刷り込み、中国みたいと思う学生の感じる力を奪うんだから、リアルディストピア。これがノンフィクションってやばみしかない。これが学生の不利益ではないって、二重思考すげえ。
あ、学生が日本と関連付け(られ)なかった理由がわかった。「1984年って、武蔵大学を描いてて、北村紗衣先生がビッグブラザーですね」って、もっとも身近な事柄に関連付けたら、単位もらえないもん。学生さんも二重思考を身につけなきゃですね。
北村紗衣先生のやりたいディストピア発見実習って、松任谷由実さんでおなじみ京都精華大学白井聡先生の単位のために学生に忖度させるパワハラみたいに先生のご機嫌取りになるだけでは。学生さんかわいそう。
候補作:
谷崎潤一郎「美食倶楽部」(参加者が暗闇で顔じゅうを撫でまわされるというだけの話。感覚だけの話であるため映像化不可。)
稲垣足穂「一千一秒物語」(とりとめもない妄想的ショートストーリーが連続するだけの話。基本ストーリーがないので不可。)
坂口安吾「風博士」(文体と勢いだけでできている小説なので、「ストーリーだけ映像にしても意味がない」という意味で不可。)
埴谷雄高「死霊」(小難しい理屈が続く哲学的小説。映像化して見てみたい奴がいるとは思えないので不可。)
森鷗外「沈黙の塔」「食堂」「ファスチエス」等(鷗外が文学を弾圧する政府を批判するためだけに書いた作品。いろいろやばいし今では分かりにくいので不可。)
横光利一「ナポレオンと田虫」(ナポレオンの腹に田虫ができて狂乱する話。そんなんわざわざ映像で見たくないので不可。)
村上春樹「風の歌を聴け」(この人、このデビュー作だけは少し異質で映像に向かない。)
高橋源一郎「さようならギャングたち」「虹の彼方に」(風博士の理由に似てる。多分映像化しても支離滅裂。)
……あたりが思い浮かんだ。
SSクラス 江藤淳、柄谷行人、廣松歩、栗本慎一郎、谷沢永一、村上泰亮、中村元
Sクラス 小室直樹、浅田彰、福田和也、渡部昇一、呉英智、蓮實重彦、永井陽之助、中村雄二郎、すが秀実、佐伯啓思、高澤秀次、筒井康隆、小谷野敦、菅野覚明、養老孟司 見田宗介、佐藤誠三郎、大森荘蔵、西部邁
Aクラス 丸山眞男、吉本隆明、長谷川三千子、丸山圭三郎、橋本治、村上陽一郎、佐藤優、松岡正剛、伊藤貫、猪木武徳、坂部恵、坂本多加雄、大澤真幸、中川八洋、永井均、野矢茂樹、小浜逸郎、飯田隆、河合隼雄、片岡鉄哉、鎌田東二、梅棹忠夫、竹内洋、山本夏彦、山口昌哉、入江隆則、
Bクラス 猪瀬直樹、坪内祐三、中沢新一、御厨貴、橋爪大三郎、鷲田清一、北���伸一、池田清彦、中西輝政、立花隆、山本七平、宮台真司、桶谷秀昭、宮崎哲弥、司馬遼太郎、古田博司、市川浩、東谷暁、苅谷剛彦、秋山駿、関岡英之、加藤尚武、浅羽通明、松原隆一郎、東浩紀
Cクラス 中島岳志、鎌田哲哉、兵頭二十八、内田樹、森本敏、村上龍、西尾幹二、仲正昌樹、大江健三郎、齋藤孝、森岡正博、富岡幸一郎、小泉義之、井沢元彦、桝添要一、中西寛、中島義道、鄭大均、山内昌之、村田晃嗣、山形浩生、林道義、松本健一
Dクラス 斎藤環、福岡伸一、副島隆彦、榊原英資、梅原猛、寺島実郎、佐藤健志、大塚英志、五木寛之、笠井潔、潮匡人、高橋源一郎、岸田秀、山田昌弘、竹中平蔵、池田信夫、萱野稔人、大川隆寛、大森望、櫻田淳、上田紀行、手嶋龍一、和田秀樹、藤原正彦、中野剛志
Eクラス 佐々木中、村上春樹、三橋貴明、田原総一郎、木村太郎、池上彰、竹田恒泰、切通理作、島田雅彦、酒井信、夏野剛、苫米地英人、上野千鶴子、姜尚中、鷲田小爾太、竹田青嗣、小阪修平、佐藤亜紀、
Fクラス 糸井重里、加藤典洋、中上健次、勢古浩爾、北田暁大、藤原和博、小熊英二、佐々木俊尚、西條剛央、玄田有史、城繁幸、茂木健一郎、岩田温、千葉雅也、岡田斗司夫
Gクラス 小林よしのり、宇野常寛、勝谷誠彦、荻上チキ、鈴木謙介、勝間和代、伊坂幸太郎、濱野智史、赤木智弘、坂本龍一、いとうせいこう、上杉隆、酒井順子
Hクラス みのもんた、久米宏、古舘伊知郎、ハマコー、太田光、水道橋博士、テリー伊藤、リリー・フランキー、コシミズ、香山リカ、森永卓郎、ホリエモン、津田大介、ひろゆき、中村うさぎ、雨宮処凛、桜井誠
「この作品で、作者は、それがどんな過酷な体験であったかを、まるでドキュメンタリーのように詳細に描いてゆく。ここまで真正面からストレートに『あの日』を描いたフィクションはなかったように思う」
「これほどの天災を語る時、かつては必らず誰もが『神』について考え、祈ったり呪ったりしたはずが、なぜ登場しないのか。この作品の優れて批評的な部分は、それを『マス・メディア』に置き換えて語っているからだ。『神』は横倒しになっている」
「読み始めるやすぐに、これは並はずれた作品と出会ってしまったのではないかという気持ちにとらわれたのだが、その感覚は読み進めるうちに強まる一方だった。激しく胸を揺すぶられ、ときに唸り声などもらしながら夢中で読み終えた」
「作品の全体が緊迫感にあふれ、たまらないほどの悲しみに覆われている。しかも文章には勢いがあり、いきいきとした躍動があって、平板に陥ることがない」
「ひょっとして実際の災害とは無縁の作者によるものだとしたら、それはまたこの小説の驚嘆すべき点」
「破格の筆力によって、日本のみならず世界に向かって発信されるべき作品が生まれ出た」
「驚くべき才能の登場に興奮が収まらない」
「これはちょっと相当に凄い小説である。力作と書いたが、まさに言葉に宿る「力」が尋常ではない」
「作者は一歩も後ずさりをしようとはせず、逃げていない。こういうことはめったに出来ることではない」
「しかも、作者は実は被災者ではないのだ。しかし、それでも彼女はこの小説を書いたのだし、書けたのだ。」
(これまでの震災作品は)「震災が起きたという事実を『反映』しているだけで、本質的なところで表現しているとは言えなかった」
「ついに2011年に起きた東日本大震災を『表現』する作品が登場したと言っていい」
「過酷な現実に対応せざるをえない未成熟な自己の、その痛ましくも力強い格闘の記録であり、成長の物語である。私は昼飯のパンをかじりながら読み、落涙したよ」
「ポスト震災の文学を論じていく際には外せない作品として、今後広く長く参照されることになるでしょう。文学研究者として断言します」
梅崎春生『幻化』
佐多稲子『樹影』
大江健三郎『性的人間』『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『懐かしい年への手紙』『さようなら、私の本よ!』『美しいアナベル・リィ』『水死』
開高健『輝ける闇』
小島信夫『うるわしき日々』『残光』
黒井千次『群棲』
村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』
笙野頼子『母の発達』『金比羅』『だいにっほん、おんたこめいわく史』
車谷長吉『鹽壺の匙』『赤目四十八瀧心中未遂』
多和田葉子『雪の練習生』『尼僧とキューピットの弓』『雲をつかむ話』
阿部和重『アメリカの夜』『ABC戦争』『無情の世界』『ニッポニア・ニッポン』『シンセミア』『ピストルズ』
舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』『九十九十九』『ディスコ探偵水曜日』『淵の王』
綿矢りさ『かわいそうだね?』
柴崎友香『その街の今は』
磯崎憲一郎『往古来今』
朝吹真理子『きことわ』
滝口悠生『高架線』
高橋弘希『指の骨』
崔実『ジニのパズル』
「ゼミの方針は何?」と訊かれた。あるとしたら、「論破禁止」。だって、誰かを論破しようとしている時の人間の顔つきは、自分の正しさに酔ってるみたいで、すごく卑しい感じがするから。 - Togetterより。
ネット上でも、良く「論破」という言葉を使う人は居る。
そこで、「論破」という単語を辞書で引いてみた。「議論して相手の説を破ること。言い負かすこと。」と書かれていた。
「相手を負かす事」なのだ。
2chやTwitter等が普及するに連れて、ネット上での会話で「論破」を好む人は増えたと思う。
言い換えれば「相手を負かす事を好む人」…、「勝たなければ気が済まない人」だ。
いや、そういう人はネットが普及する以前から存在したのかも知れない。だが、ネットが普及する前はそういう人が目立つことは無かったのだろう。
「勝たなければ気が済まない人」の増加に対して思う、「勝つ事に固執せず、偶には負けてみても良いんじゃないかな?」
少し違うけれど、似た様な事を書いている人が居た。
ネット社会の弊害と利益
https://togetter.com/li/1090802
高橋源一郎の現代語訳教育勅語を読んで、娘が通っていた幼稚園を思い出した。
それはカトリック系の幼稚園で、地元ではイイトコのご子息ご令嬢が通う幼稚園だ。
元々は別の幼稚園に行かせていたんだが、俺の仕事の都合で転居することになって、そのタイミングから探したらそこしか年中から入れるところがなかったんだ。
当然といえば当然だ。
幼い声で、調子をそろえて、「父なる神のっ! 御心にっ!」とか、「我ら罪深きっ!」とか言わされるわけだ。
ちょっと待てと。
俺の娘はいつどんな罪を犯したというんだ、と思ったね。誰の僕でもないし。
カトリックってのはそういうもんだと分かっていなかったわけではないけど、実際に我が娘の口からこんな言葉が聞こえてきて初めて、カトリック系の幼稚園に通うというのがどういうことなのかに気づいたんだ。
半ば馬鹿だったと思うし、仕方なかったとも思うし、いい経験をしたとも思う。今は。
で、教育勅語の話に戻るけど、こんな内容を、実際には幼稚園児には理解できない言い回しで言わされていた彼の幼稚園の子供らと、聖句を叫んでいたこの子らとが、まぁほぼ同じに見えるわけだ。
奴隷根性を植え付けられているとね。
結局何が言いたいかというと、戦前の天皇というのは本当に神だったんだなと。
そしてもうひとつは、彼の幼稚園の気持ち悪さは、俺の娘が通っていた幼稚園にもあった。どちらかが気持ち悪くて、どちらかは平気ということは、原理的にはありえない、ということだ。
どっちもゲームとして映画として十分に質の良い物に仕上がってるのに批判している人は老害だよ
君の名はを批判する人は映画はこういうものだと決めつけて批判してる
シナリオを批判する人はラーメンをスープだけ飲んでうまいって言う人と同じ
君の名はは物語を極力排除することで観ている人の無意識下に直接訴えている点は評価できるよね
FF15も最近のゲームの流れを組んで作られていてもう完全に廃れていたと思われていた和ゲーでも
ここまでできるんだと証明できたことは嬉しいことだしゲームとして見れば最近の洋ゲーと遜色ない
RPGのジョブチェンジやターン制とか頭を使うようなシステムは日本のキモオタにしか受けなくて
知り合いの若い外国人も毛嫌いにしてることから考えるとFF15のシステムは悪くないし
もし過去のFFと比べることでしかFF15を遊べないのなら自分の好きなFFをずっと遊んでいればいいよ
それは問題を取り違えてるよ。
あのコピーから感じ取れる主張は、少なくとも俺にとっては「文学はアニメより高尚です」という主張ではなくて「文学ファンは(ですらないと俺は思ってる。このサイト、要するに利権業者が広告代理店に発注したものだろ?)アニメファンより高尚です」というものだ。ようするに「文学が高尚であってくれないとそれをネタに商売ができねえ、都合が悪い」という意思だ。
この主張の差は、小さくはないよ。
そしてそれに対して、「いやいやそんなことはねーだろよ」と俺は思ったんだよ。
「そんなことはねーだろ。少なくとも、他ジャンル(今回はアニメ)を揶揄しないと自意識を保てないようなファンの自尊心ってどんなもんよ?」と。
そもそもの話、多くの文学者はアニメを下になってみてないわけよ。文学をそこまで高尚だと思ってすらいないわけ。高橋源一郎は「君が文学を苦手に思ったとしても文学の面白さはいつかきっと君に届く。安心しろ」と「文学がこんなにわかっていいかしら」の中で言った。書き手がそうであるのに、たかだか文学賞の選考委員や新聞などの、いわゆる外野が、書き手とファンの間に割り込んできて「ティーチングしてやる」という、その態度が醜悪だと思ったわけよ。そこにあるのは権威化して利権を得ようとする私欲だけだ。
少なくとも俺は、文学のファンとして、このサイトは許容できないよ。俺の大好きな文学は、こんなふうに、他を引き合いに出さなきゃコピーひとつ作れないようなものじゃない。文字と文章の力を信じて、独力で読者の心に豊かさを届けられるものだよ。そんな文学が、俺は大好きなんだ。