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利用者:らりた/sandbox

武帝 蕭衍
初代皇帝
梁武皇帝(国立故宮博物院蔵)
王朝
在位期間 天監元年4月9日 - 太清3年5月2日
502年5月1日 - 549年6月12日
都城 建康
姓・諱 蕭衍
叔達
小字 練児
諡号 武皇帝
廟号 高祖
生年 大明8年(464年
没年 太清3年5月2日
549年6月12日
蕭順之
張尚柔
陵墓 修陵
年号 天監 : 502年 - 519年
普通 : 520年 - 527年
大通 : 527年 - 529年
中大通 : 529年 - 534年
大同 : 535年 - 546年
中大同 : 546年 - 547年
太清 : 547年 - 549年
梁武帝
梁武帝真像

蕭 衍(しょう えん)は、南朝の初代皇帝。

経歴

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梁建国

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孝武帝大明八年(464年)に南蘭陵郡(現在の江蘇省常州市)の蕭氏(蘭陵蕭氏)の一門であり、南朝斉宗室支族にあたる。父の蕭順之は斉高帝蕭道成の族弟[注釈 1]であり、蕭道成の下で軍功を挙げて、蕭道成が皇帝になるとそれに伴い侍中などの職を歴任した。しかし高帝崩御・武帝即位後は冷遇されて、悶々として死んだという。

蕭衍も若き頃よりその名が高く、時の宰相王倹に辟召されてその幕僚となった。武帝の次男である竟陵王蕭子良が形成した文化サロンに親しく出入りしていわゆる「竟陵八友」の一人に挙げられた。この竟陵八友は文人として沈約を筆頭に文名高き者たちの集まりであり、蕭衍は当時最高の文化人の一人としての評価を受けていた。

武帝が崩御し、その従弟の蕭鸞が武帝の子らを殺して、簒奪して帝位(明帝)についた。『南史』にはこの簒奪の際に蕭衍が明帝の助力をしていたという。明帝の簒奪に漬け込む形で、建武二年(495年)から建武五年(497年)にかけて北魏の大規模な侵攻があり、斉軍は敗北して一部領土を奪われたが、蕭衍自身はここで戦功を挙げて雍州刺史とされた。

この年に明帝が崩御し、明帝の第二子蕭宝巻が16歳で後を継いだ。これが後世に「悪童天子」と呼ばれた暴君東昏侯である。東昏侯は父の遺詔で補佐を命じられていた6人の貴人を誅殺して寒人や宦官による側近政治を行う。街中に出ては乱暴を行い、豪奢な宮殿を造営し、その費用は民衆や寺院から徴収するなど斉の政治は混乱した。これに対して陳顕達崔慧景らの反乱が相次いだが、これらも鎮圧された。崔慧景の反乱のときにこれを鎮圧したのが蕭衍の長兄の蕭懿だったのだが、その功績を東昏侯の側近に妬まれて讒言され、東昏侯より自殺させられた。この報を聞いた蕭衍は決起した。雍州の東の江陵に荊州刺史として配されていた東昏侯の弟蕭宝融を和帝として即位させ、年号と中興と改めて東昏侯の廃位を宣言。更に東へ攻め上がり、首都建康を囲んだ。この期に及んでも東昏侯は奢侈に走り、更に宦官の讒言を聞いて大臣を処刑しようとしたので恐れた大臣たちにより暗殺される。

入城した蕭衍は和帝を立てて、自らは大司馬録尚書事・梁王となり、翌中興二年(502年)に禅譲を受けて帝位に就いた。斉皇室とは同族であるが斉の後継者とはならず、革命の形を取り、国号をとした。

治世

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即位した蕭衍(以下武帝とする)は元号を天監と定め、沈約や范雲ら八友時代の同士を宰相として政治に当たった。

東晋滅亡後のの創始者劉裕およびの創始者蕭道成はいずれも寒門(低い身分の者)[注釈 2]出身で、軍人として功績を挙げたことで台頭してきた軍人皇帝である。

以下、武帝が行った具体的な政策について述べる。

前述の通り、武帝が治世前半に宰相としたのが沈約と范雲の八友時代の同士である。この二人は当時の社会に文名を轟かせた名士であったが、王謝(琅邪王氏陳郡謝氏)のような甲族(最高の家格)ではない。沈約の祖父沈林子・范雲の六代祖の范汪はどちらも軍人として出世した人物である。沈約と范雲の後に政権を執った周捨徐勉

徐勉が大同元年(535年)に死去すると、その後に枢機に携わったのが朱异何敬容の二人である。朱异は祖先が不詳であり、父が県令であったという完全な寒門の出身である。しかしその学識は広く五教に通じ、武帝に引見されて孝経・周易を論じたところ武帝に感心され、以後出世街道を歩むこととなる。朱异は一流貴族に負けないだけの教養の持ち主であったが、しかし貧賎の生まれであることから貪欲であり、また貴族に対しても不遜な態度を取るなど人格的な問題も抱えていた。何敬容は何昌㝢の子であるから名族と言って良い家格である。しかし朱异とは反対に教養には乏しかったが、政治的能力には優れており、徐勉から推薦されて長い間宰相を努めた。しかし当時の貴族にとっては実務に必死になることは軽侮されることであり、教養の乏しさと相まって朱异と同じく世間の評判は悪かった。

これに見るように武帝は最初は名族を優遇していたが、次第に寒門・寒士を重用するようになった。治世後半は南朝皇帝の悪癖に染まり、これが梁の滅亡の原因であると

退嬰

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北魏が523年に起きた六鎮の乱によって大混乱に陥ったことも有り、梁は平和を謳歌し、大輪の文化の花を咲かせた。この時代には沈約・范雲ら武帝の八友時代の同士を始め、数多の文人が活発に著作・芸術活動を行った。特に武帝の皇太子である昭明太子の名は高く、太子の元に形成された文化サロンは大いに栄え、太子の選による『文選』は名著として名高く、現代でも中国文化を研究する者にとって必読の書とされている。この時代が六朝時代の文化的絶頂期であると評される。

しかしその裏面で梁社会には退嬰の足音が忍び寄っていた。貨幣経済の進展に伴って、当時の通貨である銅銭の価値が高騰、反対に農村で生産される農作物・絹などの物産の価値は下落していた。これにより立ち行かなくなった農業従事者は都市部に出て商業活動に従事するようになるが、大半は失敗して

侯景の乱

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東魏の武将侯景が梁に帰順したいと申し出てきた。侯景は太守であり、その配下の兵は10万と言われた。これを武帝と朱异は一旦は承諾した。しかしその直後に侯景は東魏の軍に攻められて大敗。梁に逃げてきたが、その時点で配下の兵は千人ほどになった。侯景の利用価値が無くなると梁は手のひらを返して、東魏に対して侯景を差し出すことで友好を結ぼうとした。侯景はこれに怒り、梁に対して兵を挙げ、建康に進軍を始めた。と言ってもたかだか千人の軍であり、武帝も朱异も真面目に取り合おうとはしなかった。しかし侯景は道中の民衆を徴兵し、また奴隷を開放してこれを優遇することで兵力を急速に増大させ、建康に迫るときには十万の大軍となっていた。

ここに来て事態の重大なることを悟った梁は急遽防衛軍を組織する。侯景軍は南門である朱雀門に通ずる橋・朱雀航に迫っていた。ここを守備を任されていたのが当代一の詩人として名高い庾信であったが、侯景の軍の風貌に恐怖して軍を捨てて逃げ出した。更に裏切り者臨賀王蕭正徳が守っていた宣陽門を開けて侯景を迎え入れた。こうして侯景は難なく城内に入ることができた。城内に入った侯景軍は略奪の限りを尽くし、繁栄の極みにあった建康は一転して地獄絵図となった。更に侯景は台城へ攻撃をかけるが、さすがに台城の守りは固くなかなか落とせなかった。

そして梁各地を守備していた軍が救援に駆けつけ、その総数は100万と号するほどの大軍となった。この大軍が一斉に侯景を攻撃すればひとたまりもない所であったが、なぜか救援軍は一向に動こうとせず、ただ包囲して散発的な攻撃を行うのみであった。この援軍の不可解な行動について。森三樹三郎は宗族同士の間で次期皇帝の座を巡って暗闘が有り、宗族同士の不和がこうした事態を招いたとする。川勝義雄は商業活動の発展に伴う農業従事者の没落によって、各軍府にこれらが流入して軍人が勢力を拡大し、各軍府は既にこれら軍人たちが実験を握る軍閥と化しており、自分たちの勢力保存のために動かなかったのだとする(詳細は梁滅亡の原因で後述)。

この時、侯景軍も台城内の朝廷軍もどちらも食糧難に悩まされていた。援軍が動かないことを見た侯景は武帝と偽りの和約を結び、自分たちだけ食料の補給を行い、台城を包囲し続けた。その後に侯景軍と台城内の軍とが再び戦闘に入ったが、疲弊した台城内の軍は敵せず遂に台城も陥落した。侯景は武帝を脅して丞相となり、城外の援軍に任地へ帰るように命令し、援軍はこれに応じて帰還の途についた。残された武帝は鬱々として過ごし、喉の渇きを覚えて蜜を求めたが、得られず。最後に「荷荷」と言葉を発して崩御した。享年86。

その後、侯景に擁立されて簡文帝が立つが、侯景自身が蕭繹(元帝)の派遣した武将王僧弁によって滅ぼされる。その元帝も直後に西魏の遠征軍によって殺されて、南部全体が大混乱に陥る。実質的に梁は武帝一代で滅んだと言って良い。武帝は50年近く続いた王朝で創業と亡国二つの君主となった極めて珍しい存在となった。

武帝の政策

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天監の改革

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武帝が天監七年(508年)に行ったのが天監の改革と称される大規模な官制改革である。

改革の内容に入る前に、斉までの制度を簡略に説明する。九品官人法の元で官僚は最高の一品官から最低の九品官まで分けられていた。これを官品という。そして当時の貴族層はその家格によって最終的にどの品官まで登るかが決定される。これを郷品という。そして通常その4品下の官品から官僚生活が開始される。これを起家官という。そして教品の中でも郷品二品がほぼ最高の家格であり、これらの家は貴族の中でもそれ以下の家とは隔絶した存在として扱われていた。これらの家を門地二品と呼ぶ。本来、同じ官品の官職は全て同格とされるのだが、貴族社会の間では同じ官品でもその扱いに差異が設けられるようになった。これを清濁の別という。簡単に言うと貴族の好みに合う官職が清官と呼ばれ、逆に合わない官職が濁官と呼ばれていた。例えば貴族層の間で起家官として最も好まれたのが秘書郎である[1]。これは文書管理の省庁の下位官僚であり、清官の代表格である。こうなると仮に品官が上昇したとしても濁官に就任させられることは出世とはいえず、これを拒否することも行われていた。つまり旧来の九品官制は貴族制の現実と乖離していたのである。

武帝はこれに対して大幅な改革を加えた。まず九品という名前を十八班と変えた。九品とは逆に十八班が最高で一班が最低である。ただしこれは名前を変えただけではなく、当時の現実を官制に反映するように調整がされている。具体的には九品のうち七品官以下(門地二品が就かない)の官職はこの十八班からは全て弾かれて、流外官という区分にされた。つまり門地二品が門地三品以下とは隔絶した存在として扱われていた現実に実際の官制を適合させたのである。また清官とされていた中書門下秘書系統の官班を大きく上昇させている。

流外官には更に流外七班[注釈 3]が設けられて

この改革の意義は貴族が社会の主要な部分を占めていることに対しての現状追認が主であるが、それと共に武帝は無能無気力の輩と成り果てた甲門(最高の家格の門閥)に対して、その下の(甲門に比べれば)意欲と能力を残していた層[注釈 4]を政権内部に取り込むことにより、限界を迎えつつあった貴族制に新たな活力を吹き込むことにあった。

改革前 一品 二品 三品 四品 五品 六品 七品 八品 九品
改革後 一正
(十八班)
一従
(十七)
二正
(十六)
二従
(十五)
三正
(十四)
三従
(十三)
四正
(十二)
四従
(十一)
五正
(十)
五従
(九)
六正
(八)
六従
(七)
七正
(六)
七従
(五)
八正
(四)
八従
(三)
九正
(二)
九従
(一)
流外

仏教政策

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武帝は天覧3年(504年)に「捨事李老詔」[注釈 5]を出して道教を捨て去ることを決めた。その中で「老子周公孔子等は如来の弟子といっても、既に邪道である。これらはただ世俗的な善に留まり、これを革めて聖になることは出来ない。公卿百官王侯宗族よ、偽に反して真に就け。邪を捨てて正に入れ。」と激越な言葉で仏教へと帰依することを求めた[注釈 6]

同泰寺(現在の鶏鳴寺)を始めとして多数の寺院を建立し、首都建康だけで寺院が500余り、僧尼が十数万いたと伝わる。また大法会を度々開き、自ら涅槃経般若経について講義した。

鶏鳴寺

そして何より有名なのが捨身である。捨身とは本来は月の兎の仏教説話のように自らの肉体を食物として差し出すことであるが、当時士大夫の間で行われていた捨身とは自らの財物を捨てて寺院に奉納し、更に自らをも「三宝の奴」として労役に従事することであった。武帝はこれを大規模な形で行った。最初に行われたのが大通元年(527年)で、その後大通三年(529年)、中大同元年(546年)、太清元年(547年)と四回行われた[注釈 7]。「三宝の奴」になるということは当然皇帝を罷めるということであり、数十日の後に臣下が銭一億万で「買い戻される」。そして武帝は皇帝に再び即位し、大赦改元が行われて終わる。

捨身の間は帝位が空白になるということであり、この行動について胡三省は『資治通鑑』の注で「帝、天下を忘れたり」と強く批判した[7]。ただし捨身自体は武帝以前に皇太子の身分で行われるなど前例があり[8]、後代でも陳武帝文帝後主などが行っている[8]。また記録では特別に捨身自体を非難した物は見つからないように当時の感覚ではそこまで奇異なこととは見做されなかったと推察される[9]

当時捨身より大きな問題になったのが、天監十七年に行われた皇帝祭祀における改定である。皇帝が行う国家祭祀においては生贄が必須のものであるが、武帝は不殺生戒を重視し、生贄を止めて野菜・果物に変えることにしたのである。これは長い伝統を変えるというだけでなく、国家の支配原理を変えることにも等しいのであり、猛然と反対論が起きた。しかし武帝は揺らがずこれを押し通した。

これらは後に『南史』に「釈教に溺る」と批判され、後世に梁滅亡の原因と評されることになる。しかしこれらの政策は国家支配原理の中心に置く仏教国家を理想とし、そのためにこれらの政策を行ったのであって、政策が武帝の個人的な信仰、妄信ないし狂信によるものとは断じて言えないのである。

学館の設立とそれによる官吏の任用

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首都建康には既に貴族の子弟が学ぶ国子学があったが、武帝は五経博士を起き、それぞれが対応する寒門の子弟を対象とした学館(五館)を設立した。国子学・五館ともに折に触れて試験が行われ、その成績に応じて官吏へと登用される。国子学と五館では任用される地位に大きな差が有り、不平等なものであったが門地の低い寒門たちにも官吏への道を開いたということで大きな意義があった。また貴族層にも学問を促すことでその資質を高らしめ、貴族は門地ではなく、教養によって尊いのであるという精神を植え付けたことにこれもまた大きな意義があった。

この試験制度は不完全なものであったが、後の科挙につながるものであると評される。

梁律・梁令・梁科の制定

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経済政策

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当時は首都建康周辺の京師および揚州荊州郢州江州湘州梁州益州では専ら銅銭が使用され、その他の州では穀物が銅銭と交えて通貨として使われ、広州交州では金銀が貨幣として使われていた[10]。その銅銭については漢代に鋳造された五銖銭を始めとして、三国・宋・斉政府がそれぞれ独自の銅銭を鋳造していた。またこれら官銭に対して私鋳銭および様々な変造銭(鵝眼銭、綖環銭・剪輪銭など)も通行していた。

このうち古くからの完全な形を残していた古銭および政府によって鋳造された五銖銭は良貨、政府によって発行された軽量の銭(二銖銭など)および私鋳銭・変造銭は悪貨として当時に通行し、良貨と悪貨の貨幣の二重体制ができあがっていた。質の高い良貨は富豪によって蔵されて希少となることでその価値を高め、逆に悪貨はその悪貨から更に変造されるなどその価値を低くしていった。斉代には悪貨をして良貨と1:2のレートと公認し、更に私鋳も認めるなどこの状況を助長するかのような制作も行われた。その後の斉で、これを撤回し新鋳造の通貨を発行すると共に悪貨の使用を禁止するなどの政策も行われたが、現実の二重通貨体制を改めるには至っていなかった。

即位直後の天監元年(504年)に武帝は五銖銭(重量四銖種三参二黍)と公定女銭という二種の銅銭を新規に鋳造した。このことは多少の成果を上げたようではあるが、社会の銅銭の需要は高まるばかりであり、それに追いつくものではなかった。そもそもからして南朝の領土には銅山が乏しく[注釈 8]、銅銭の鋳造能力には限界があったのである。

これに対して普通四年(523年)に武帝は銅銭の使用を全面的に禁止して、それに代わって鉄銭を鋳造してこれを公定通貨とするという思い切った政策に打って出た。これも一時的には功を奏したようではあるが、銅に比べて安価な鉄では私鋳が横行し、ほどなくして鉄銭はその額面ではなく重さで価値を計られるようになり、鉄銭は大八車に積まれて使用されるようになったという。530年代にはもはや鉄銭政策は完全に破綻していたが、梁政府はこれに対して何も出来ずただ眺めているだけであった[12][注釈 9]

人物

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仏教信仰

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を語る上で外すことが出来ないのが仏教信仰である。武帝は元から仏教を信仰していたが、同時に道士陶弘景とは深い親交があるなど道教にも通じていた。これが帝位についてから仏教に強く傾くようになり、

その後の武帝の生活は午前二時に起き出しては仕事を始め、食事は日に一食、身につける衣服は一つの物を何年も使い、酒も音楽も好まず、50歳以降は女性も絶った。武帝の信仰心は六朝士大夫にありがちな形だけの物ではなく、真実の信仰であったと評さる。

寛容仁慈

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何度か述べたように武帝の政治の最大の特徴は寛容さである。

庶民に対して

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商業活動の活発化に伴い貧富の格差が如実に現れ、大きな社会問題となっていた。しかし武帝はこれに対して、貧窮するのは努力が足りないからだと言っている[注釈 10]。おおよそ武帝はどこまでも貴族主義の人物であって、庶民に対しての同情心はほとんど持ち合わせていなかった。士大夫が罪を犯した場合は「寛容な武帝」はなにかの理由をつけてはその罪を許したりしていたのだが、庶民に対してはそのようなことは全く無く厳しい法律をそのまま適用した。武帝が庶民の一老人から「陛下は庶民に対して厳しく、貴族に対して緩い。これは国家長久の術ではありません。」と諫言されて、さすがの武帝も庶民に対する連座制を緩めたりしている。

後世の評価

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北宋司馬光は『資治通鑑』「梁紀」の論賛にて次のように評している[13]

梁の高祖(武帝)が終わりを全うしなかったのはもっともだ。自らの粗食(菜食)を盛徳とし、君主としての道が既に備わって、これ以上加えるものがなく、群臣の諫言はどれも聞くに値しないとした。(…)名は辱しめられ、身は危うく、国は覆り(滅び)、宗廟の祀りは絶え、長く後世に憫笑(哀れだとさげすみ笑われ)された。哀しいことだ。

妻子

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蘭陵蕭氏中国語版系図】(編集
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蕭整
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
南朝斉
 
 
 
 
 
 
 
 
蕭雋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蕭鎋
 
 
 
 
 
 
 
南朝梁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蕭楽子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蕭副子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)宣帝
0蕭承之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蕭道賜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)景帝
0蕭道生
 
(1)高帝
0蕭道成
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)文帝
0蕭順之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(5)明帝
蕭鸞
 
(2)武帝
蕭賾
 
 
長沙王
蕭懿
 
 
 
 
 
(1)武帝
蕭衍
 
 
 
 
 
 
 
 
 
臨川王
蕭宏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(6)東昏侯
蕭宝巻
 
斉皇帝
蕭宝寅
 
(7)和帝
蕭宝融
 
(追)文帝
蕭長懋
 
 
閔帝
蕭淵明
 
(追)昭明帝
蕭統
 
(2)簡文帝
蕭綱
 
(3)元帝
蕭繹
 
武陵王
蕭紀
 
臨賀王
蕭正徳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(3)鬱林王
蕭昭業
 
(4)海陵王
蕭昭文
 
 
(追)安帝
蕭歓
 
(西1)宣帝
蕭詧
 
哀太子
蕭大器
 
武烈世子
蕭方等
 
愍懐太子
蕭方矩
 
(4)敬帝
蕭方智
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豫章王
蕭棟
 
(西2)明帝
蕭巋
 
河間王
蕭巌
 
永嘉王
蕭荘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(隋)煬愍皇后
蕭氏
 
(西3)後主/靖帝
蕭琮
 
河間王
蕭璿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
梁皇帝
蕭銑


后妃

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  • 郗徽(即位前に没し、皇后を追贈された)
  • 貴嬪 丁令光(皇太后を追贈された)
  • 修容 阮令嬴(皇太后を追贈された)
  • 淑媛 呉景暉
  • 董昭儀
  • 丁充華
  • 葛修容

男子

[編集]
  • 昭明太子 蕭統(徳施)- 母は丁貴嬪
  • 豫章王 蕭綜(世謙)- 母は呉淑媛。実父は蕭宝巻。
  • 簡文帝 蕭綱(世讃)- 母は丁貴嬪
  • 南康簡王 蕭績(世謹)- 母は董淑儀
  • 廬陵威王 蕭続(世訢)- 母は丁貴嬪
  • 邵陵携王 蕭綸(世調)- 母は丁充華
  • 元帝 蕭繹(世誠)- 母は阮修容
  • 武陵王 蕭紀(世詢)- 母は葛修容

女子

[編集]
  • 永興公主 蕭玉姚(殷鈞にとついだ) - 母は郗徽
  • 永世公主 蕭玉婉(謝朓の子の謝謨にとついだ) - 母は郗徽
  • 永康公主 蕭玉嬛 - 母は郗徽
  • 安吉公主 蕭玉娡(王瑩の子の王実にとついだ)
  • 富陽公主(張纘にとついだ)
  • 長城公主 蕭玉姈(柳惲の子の柳偃にとついだ)

研究

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武帝に関する研究は六朝・魏晋南北朝時代の個人についてとしてはずば抜けて多い。それは武帝が六朝の代表的人物とみられることに起因し、かつその仏教信仰において中国仏教史における劃期となった人物であると目されることにもよる。

梁滅亡の原因について

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絶頂の時にあった梁がわずか1000の兵士を持っていたに過ぎない侯景の乱によってあっさり滅びてしまった。従来この急転直下の滅亡劇については、長く続いた太平による士大夫層の文弱化・捨身を始めとした武帝の仏教信仰による政治の弛緩などが原因として語られてきた。これに対して川勝義雄は「(それらを原因と考えることは)単に表面的な理解にしかすぎないであろう。」[14]と述べている。

武帝の伝記『梁の武帝』を書いた森三樹三郎は、当時の士大夫層の中で文弱の傾向が進んでいたのは間違いないが、それを滅亡の原因とすることは一面的に過ぎると述べる。庾信はあくまで文人・詩人であって軍人ではないこと、梁の軍事力は北朝に何ら劣るものではなかったことを述べた上で、本来なら戦場に出ることのない庾信のような人物が前線に出たことは侯景による奇襲が上手くいった故であるとする。そしてその奇襲を成功させたのが武帝の一族である臨賀王正徳の裏切りである。また各地方からの援軍が動かなかったことについて、昭明太子が死去した後に武帝が後継としたのは昭明太子の子ではなく、昭明太子の弟の蕭綱であった。このことが他の武帝の子の中でわだかまりとなり、「蕭綱が死ねば自分が皇帝になれるかも」という意識を生むようになった。その意識が働いたゆえに侯景を取り囲んでいながら互いに牽制して手出しが出来ず。最後は武帝の憤死という結果となってしまった。武帝が滅んだ原因は武帝自身の寛容仁慈の精神にあり、寛容が過ぎたことで宗族・官僚は増長し、統制が取れなくなっていた。その結果が臨賀王の裏切りであり、援軍による武帝の見殺しとなった。武帝はその寛容さにより滅び、中国においての仏教国家の限界を露呈した。更に進んで言えば、六朝士大夫という時代精神そのものの限界が武帝の滅亡に表されているのであり、この克服には代の士大夫層の確立まで待たねばならないとしている。

川勝は六朝時代を通じて進んできた貨幣経済の進展と物価の下落、それに伴う農村の不景気と農民の没落。そして官僚による苛斂誅求。これらの要素により、生活できなくなった農民が都市部に出て商業活動に従事するようになったこと、これらの商業人口の一部は成功して富を成したが、ほとんどは更に没落して浮浪の民となり、各豪族に囲い込まれたり、あるいは反社会勢力の手先となったりしていた。侯景がわずか1000の兵から10万に膨れ上がらせることが出来たのも京師周辺にこれら浮浪の民が大量に存在したからである。そしてそれら食い詰め農民が兵士となり、梁の地方軍の中に入り込むようになり、武帝末期にはこれら軍人が各地方軍の主要な地位を占めるにいたり、地方軍の主たる梁の宗族は既に実権を失っていた。それが侯景を包囲していながら武帝を見殺しにする結果につながった。つまり武帝末期に既に梁は分裂寸前の状態に至っており、その状態を爆発させたきっかけが侯景の乱であったのである。

脚注

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  1. ^ 宮崎 1997, p. 141.
  2. ^ 宮崎 1997, p. 334.
  3. ^ 広弘明集.
  4. ^ 内藤 1957, p. 162.
  5. ^ 森 2021, pp. 132–133.
  6. ^ .
  7. ^ 『資治通鑑』「胡三省注」巻160[6]
  8. ^ a b 森 2021, pp. 140.
  9. ^ 森 2021, pp. 138–139.
  10. ^ 越智 1984, p. 29.
  11. ^ 川勝 1982, pp. 361–362.
  12. ^ 川勝 1982, p. 370.
  13. ^ 『中国古典文学大系第14巻 資治通鑑選』(広常人世 新田大作 石川忠久 頼勤惟 山井勇平凡社 1970年
  14. ^ 川勝 1982, p. 350.

注釈

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  1. ^ 高祖父蕭整を共にする。
  2. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「寒門」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  3. ^ 実際には梁代でこの呼名は使われておらず、陳代になってから使われ始めたらしい[2]
  4. ^ 越智重明の言う次門層
  5. ^ 広弘明集』に収録[3]。ただし偽選説もある[4]
  6. ^ ただ陶弘景との関係はその後も続いており、いわゆる三武一宗の法難のように道教を弾圧などはしていない[5]
  7. ^ 546年の捨身については『梁書』には記載がなく、『南史』にのみ見える。
  8. ^ 斉の永明八年(490年)に蜀の奥地の銅山で銅を採掘したが、多額の費用がかかったために以後は取りやめになった[11]
  9. ^ この節については川勝1982にほとんどを依拠しているが、これに反対する説もある。詳しくは研究史で後述。
  10. ^ 「其れ勤力営産すれば則ち富鏡ならざる無し。惰遊緩事すれば則ち家業貧饗なり。」

参考文献

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史料

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一般書

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  • 森三樹三郎
    1. 森, 三樹三郎『梁の武帝 仏教王朝の悲劇』 5巻、平楽寺書店〈サーラ叢書〉、1956年。ASIN B000JAZRW2NCID BN0364669X 
  • 吉川忠夫
    1. 吉川, 忠夫『侯景の乱始末記―南朝貴族社会の命運』中央公論新社〈中公新書〉、1974年。ISBN 978-4121003577 

論文・専門書

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概説書

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