コンテンツにスキップ

文選 (書物)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文選集注

文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代南朝梁蕭統(昭明太子)によって編纂された詩集・文集。春秋戦国時代から当時までの文学者131名による800余の作品を、37のジャンルに分類して収録し、蕭統が自ら序文を書いている。全30巻。

成立の背景

[編集]

『文選』の撰者である蕭統の父は、南朝梁の皇帝蕭衍である。蕭衍は南朝斉の宗室の出身であり、学問・文才にも長じ、即位前は竟陵王蕭子良のもとで、沈約謝朓ら当時を代表する文学仲間である「竟陵八友」の一人に数えられていた。蕭統は父やその周囲の影響で学問・文学を好み、太子である蕭統の東宮には約3万巻の書籍が集められた。こうして、蕭統の下へも多数の学者・文人たちが集うこととなった。

形式上は『文選』の撰者は蕭統一人に擬されているが、実際の編纂には劉孝綽ら彼の周囲にいた文人たちが関わったと考えられており、例えば、空海の『文鏡秘府論』南巻には「南朝梁の蕭統の劉孝綽等と『文選』���撰集するが如きに至りては、自ら謂へらく『天地を畢くし、諸を日月に懸く』と」とある。

後世における受容と注釈

[編集]

代以降、官吏登用に科挙が導入され、詩文の創作が重視されると、『文選』は科挙の受験者に詩文の制作の模範とされ、代々重視されてきた。唐の詩人杜甫は『文選』を愛読し、「熟精せよ文選の理」(「宗武生日」)と息子に教戒の漢詩まで残している。[1]またの時代には「文選爛すれば、秀才半ばす」(『文選』に精通すれば、科挙は半ば及第)ということわざが生まれている[2]。このため『文選』は早くから研究され、多くの人により注釈がつけられた。

『文選』の注釈として文献上最も古いものは、隋の蕭該(蕭恢の孫で、蕭統の従甥)の『文選音』である。少し後の隋唐の交代期には、江都の曹憲が『文選音義』を著した。曹憲のもとには魏模・公孫羅・許淹・李善ら多くの弟子が集まり、以後の「文選学」(「選学」)隆盛のきっかけとなった。

曹憲の弟子の一人である李善は、浩瀚な知識を生かして『文選』に詳細な注釈をつけ、658年顕慶3年)、唐の高宗に献呈した。これが『文選』注として最も代表的な「李善注」である。李善注の特徴は、過去の典籍を引証することで、作品に用いられている言葉の出典とその語義を明らかにするという方法を用いていることにある。また李善が引用する書籍には現在では散佚しているものも多く、それらの書籍の実態を考証する際の貴重な資料にもなっている。

李善注の後の代表的な注釈としては、呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰の5人の学者が共同で執筆し、718年開元6年)、唐の玄宗に献呈された、いわゆる「五臣注」がある。五臣注の特徴は、李善注が引証に重きを置きすぎるあまり、時として語義の解釈がおろそかになる(「事を釈きて意を忘る」)ことに不満を持ち、字句の意味をほかの言葉で解釈する訓詁の方法を採用したことにある。そのため注釈として李善注とは異なる価値があるが、全体的に杜撰な解釈や誤りが多く、後世の評価では李善注に及ばないというのが一般的である。

宋代に入り木版印刷技術が普及すると、李善注と五臣注を合刻して出版した「六臣注」(「六家注」)が通行し[3]、元来の李善・五臣の単注本は廃れることとなった。現行の李善単注本は、南宋尤袤が六臣注から李善注の部分を抜き出し(異説あり)、1181年淳熙8年)に刊行したものの系統であるとされる。これをの胡克家が、諸本を比較して校勘を加えた上、嘉慶年間に覆刻した。この「胡刻本」が、今日最も標準的なテキストとして通行している。

このほか重要なものとして、日本に写本として伝わる『文選集注』(120巻、存23巻)がある。これは李善・五臣の注釈のほか、これらの注釈が通行することによって散佚した唐代の注釈が保存されており、『文選』研究にとって不可欠の資料となっている。

構成

[編集]

『文選』は元来は全30巻だったが、前述の李善の注釈をつけた版は全60巻であり、以下のような構成になっている。下記の括弧内の数字は収録巻数で、太字は表内に複数作品のある作者である。

巻号 ジャンル 著名な作品
1-19
19-31
  • 無名氏「古詩十九首」(29)
  • 曹操「短歌行」(27)
  • 王粲「七哀詩」(23)
  • 曹丕「燕歌行」(27)
  • 曹植「贈白馬王彪」(24)
  • 阮籍「詠懐詩」(23)
  • 潘岳「悼亡詩」(23)
  • 陸機「赴洛詩」(26)
  • 左思「詠史詩」(21)
  • 謝霊運「登池上楼」(22)
  • 謝霊運「於南山往北山経湖中瞻眺」(22)
  • 鮑照「東武吟」(28)
  • 謝朓「遊東田」(22)
  • 謝朓「晩登三山還望京邑」(27)
32-33 ���
34-35
35
35
36
36
36
37-38
39 上書
39
40 弾事
40
40 奏記
41-43
44
45 対問
45 設論
45
45-46
47
47
48 符命
49-50 史論
  • 沈約「宋書謝霊運伝論」(50)
50 史述贊
51-55
55 連珠
56
56
56-57
57-58
58-59 碑文
59 墓誌
60 行状
60 弔文
60 祭文

で過半を占める。

蕭統の書いた『文選』の序文には、作品の収録基準を「事は沈思より出で、義は翰藻に帰す」とし、深い思考から出てきた内容を、すぐれた修辞で表現したと見なされた作品を収録したとある。また収録する分野についても、四部分類でいうところの経部・子部・史部[8]を除く、集部に相当する文学作品をもっぱら選録の対象としている点で、文学の価値を明確に意識した総集となっている。

三国志演義に引用されている作品も「為袁紹檄豫州」「短歌行」「出師表」などがある。

なぜか王羲之の「蘭亭集序」は収録されておらず、古来論議を呼んでいる。これについては、以下の説がある[9]

  • 文章が下手なうえ、思想性が低くて不採用だと言う説。
    • 『文選』収録の名文と比べると、とっさに書いたものなので描写に重複が多く、語句も春の宴会の描写で秋の風景描写の「天朗らかに気清む」(天が高く空気が澄んでいる)を使うなどおかしなところがある。
    • また、文章の内容も悲観的で、生死を超越すべきと説く老荘思想や仏教思想に通じた蕭統からすれば貧相だと思われたのではないか。
  • 『文選』は君主と臣下の関係を扱った政治的な文学が多いので、自然描写が多い「蘭亭集序」は編者の好みに合わなかったために不採用だったという説
  • そもそも後世の偽作なのでこの当時存在しなかったという説

日本における『文選』

[編集]

『文選』は上代の日本に伝わり、日本文学の進展にも重大な影響を与えた。奈良時代は、貴族の教養として必読の対象となっており、『日本書紀』や『万葉集』などに『文選』からの影響を指摘する見解もある(小島憲之など[10])。後の平安時代から室町時代でも、「書は文集・文選」(『枕草子』)、「文は文選のあはれなる巻々」(『徒然草』)とあるように、貴紳の読むべき書物としての地位を保ち続けた。現在でも『文選』の用語は、日本語語彙で活かされ、故事教訓として使用されている。

『文選』出典の熟語

[編集]

英雄、栄華、炎上解散、禍福、家門、岩石、器械、奇怪、行事、凶器、金銀、経営傾城、軽重、形骸、権威、賢人、光陰、後悔、功臣、故郷国家国王、国土、国威、虎口、骨髄、骨肉、紅粉、鶏鳴、夫婦、父子、天罰、天子、天地、元気、学校、娯楽、万国、主人、貴賤、感激、疲弊…など[11]

訳注書

[編集]
全訳書
  • 岡田正之『文選 國訳漢文大成』(全3巻、國民文庫刊行会、1939 - 1941年) 
現代語訳はなく、書き下しと文語体の訳文を収載
抄訳版
編者代表:川合康三、富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹

脚注

[編集]
  1. ^ これは杜甫が生まれた子供に与えた詩で、主要部分は『全唐詩』によれば以下の通りである。「小子何時見,高秋此日生。自從都邑語,已伴老夫名。詩是吾家事,人傳世上情。熟精文選理,休覓綵衣輕。(以下略)」。唐詩では襄陽を歌うときに『文選』が持ち出されることが多いが、これは編者蕭統が襄陽出身だからである。例えば李頎の『送皇甫曾遊襄陽山水兼謁韋太守』には「峴山枕襄陽,滔滔江漢長。山深臥龍宅,水淨斬蛟鄉。元凱春秋傳,昭明文選堂。風流滿今古,煙島思微茫。」とある。
  2. ^ 南宋の陸游の『老学庵筆記』より。原文の意味は「宋の初め、文人はみな『文選』を真似て詩を作っていたので、使う語句も��選風のものばかりだった。だから、文選を覚えたら科挙の試験は半分通過したようなものだと言われた。その後、あまりに『文選』は陳腐だと言うので蘇軾の文章が流行った。」というものである。
  3. ^ 六臣注は李善・五臣の順で、六家注は五臣・李善の順で注が並べられたものを指す。
  4. ^ いわゆる「前出師表」
  5. ^ 袁紹に依頼された作者が曹操の先祖代々の悪事を暴き立てたもの。豫州とは劉備のことで、劉備に極悪人曹操に従わずに我らとともに曹操を倒そうと勧めている。
  6. ^ 鍾会が蜀を攻めたときの降伏勧告文。
  7. ^ 呉の発展を褒め称え、孫晧の暴政による滅亡を悲しむ文。
  8. ^ ただし歴史評論の類(論・讃・序・述)は例外とする。
  9. ^ 祁小春『「蘭亭序」はなぜ『文選』に採録されなかったか』-「東アジア研究」32、大阪経済法科大学アジア研究所、2001参照
  10. ^ 令和の出典、漢籍の影響か 1~2世紀の「文選」にも表現 - 毎日新聞
  11. ^ 佐藤喜代治『漢語漢字の研究』より、明治書院、1998年

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]