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近衛家熙

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近衛 家熈
近衛予楽院像(陽明文庫蔵) 九峰自端賛・寛深画
時代 江戸時代
生誕 寛文7年6月4日1667年7月24日
死没 元文元年10月3日1736年11月5日[1]
改名 増君(幼名)、家熙、豫樂院(号)
墓所 京都市北区大徳寺
官位 従一位摂政関白太政大臣准三后
主君 霊元天皇東山天皇中御門天皇
氏族 藤原北家近衛流
父母 父:近衛基熈
母:品宮常子後水尾天皇皇女)
女一宮憲子霊元天皇皇女)

家久鷹司房熙鷹司尚輔
尚子中御門天皇女御

安己君徳川継友室)、政姫(徳川家宣養女)
特記
事項
桜町天皇の外祖父
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近衛 家熈(このえ いえひろ、旧字体近󠄁衞 家熈)は、江戸時代前期から中期にかけての公家。近衛家21代当主。[2]

経歴

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寛文7年(1667年)6月4日に京都で誕生。幼名は増君。延宝元年(1673年)11月に7歳で元服し、従五位上に叙せられた[3]。同時に昇殿を許される。延宝4年(1676年)1月に従三位に叙せられる。貞享3年(1686年)3月、20歳で内大臣となる。元禄6年(1693年)8月に右大臣宝永元年(1704年)1月に左大臣。宝永4年(1707年)11月関白に就任する。宝永6年(1709年)に中御門天皇の摂政となり、更に翌年の宝永7年(1710年)に太政大臣に任ぜられる。正徳元年(1711年)7月太政大臣辞任。正徳2年(1712年)8月摂政辞任。享保10年(1725年)准三后の宣下。同年12月24日に落飾し、予楽院と号する。

書道は、はじめ加茂流を学び、更に近衛家や他に伝わる空海小野道風らの書に学び独自の境地を切り開いた。絵画は水墨画を好んで描き佳作と評される。茶道は慈胤法親王を師とした。有職故実にも堪能で、礼典儀礼を研究し、『唐六典』の校勘を長年継続して��致仕後の享保9年(1724年)に20年の歳月をかけて完成させ、家熙の没後に刊行された。また、公家茶道に通じた茶人であり、『槐記』に見られるように、自ら茶事をおこない、侘び茶人との交流でも知られる。1713年(正徳3年)8月から自邸で行った茶事については陽明文庫蔵の『御茶之湯記』に詳細に記録されている[4]

なお、家熙の人となりや博学多才ぶり、高い見識のほどについては、侍医(専門は現代で言う小児科)で、茶人であった山科道安(やましなどうあん)がその言行を日録風に記した『槐記』11巻により、如実に知ることができる。

『槐記』によれば、家熙は自然科学にも精通し、享保16年(1731年)、鳴と稲妻とは同時に発生するものとし、距離に比例して雷鳴が後れることを書き記している[5]

元文元年(1736年)10月3日薨去。享年70。京都市北区の京都大徳寺に葬られる。

家族・親族

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系譜

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近衛家

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近衛家は、藤原忠通の子である近衛基実を始祖とし、五摂家の一つであった。

皇室との関係

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後陽成天皇男系四世子孫である。後陽成天皇の第四皇子で近衛家を継いだ近衛信尋の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。

脚注

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  1. ^ 近衛家煕』 - コトバンク
  2. ^ 展覧会概要/第25回 近衛家熈 - 宮内庁”. 2023年1月22日閲覧。
  3. ^ 『豫楽院鏡 近衞家熙公年譜』(2012年 緑川明憲著)p.13-15
  4. ^ 『豫楽院鏡 近衞家熙公年譜』(2012年 緑川明憲著)P.216-230
  5. ^ 『槐記』續篇[1]

関連項目

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