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一条家経

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一条家経
『天子摂関御影』一条家経 (後光明峯寺関白)
時代 鎌倉時代中期
生誕 宝治2年12月6日1248年12月22日
死没 永仁元年12月11日1294年1月8日
別名 号:後光明峯寺関白、正字:一條家經
官位 従一位摂政左大臣
主君 後嵯峨上皇後深草天皇亀山天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇
氏族 一条家
父母 父:一条実経
母:坊門有信の娘?または大炊御門家嗣の娘?
兄弟 静厳家経実家、慈信、師良、慈昭、慈玄、頊子忠輔家房、道淳、厳昭、一条内実
亀山院女房新大納言(松殿良嗣の娘)
園基氏の娘、平高望の娘
藤原親成の娘
家房?、内実冬実道昭、良慶、厳家、慈深、尋覚、道済、経厳
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一条 家経(いちじょう いえつね)は、鎌倉時代中期の公卿���白一条実経の長男。官位従一位左大臣一条家2代当主。正字では一條家經。号に後光明峯寺関白

略歴

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宝治2年(1248年)、一条実経の子としてに誕生。左近衛中将のち、正嘉元年(1257年11月10日従三位となる。その後、正嘉3年(1259年)に正三位権中納言に叙任され、同年中に従二位に昇叙。弘長2年(1262年)には正二位権大納言に叙任された。

文永4年(1267年内大臣、文永5年12月(1269年1月)右大臣、文永6年(1269年)に左大臣と昇り、文永7年(1270年1月5日には従一位となる。文永11年(1274年)、後宇多天皇摂政になるが、翌年辞職。永仁元年12月(1294年1月)に薨御。享年46。

勅撰和歌集入首。建治元年(1275年)に、『摂政家月十首歌合』を開く。

官歴

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  • 左近衛中将
  • 正嘉元年(1257年)11月10日:従三位(左中將如元)
  • 正嘉3年(1259年)正月21日:権中納言
  • 正嘉3年(1259年)正月22日:正三位
  • 正元元年(1259年)閏10月15日:従二位
  • 弘長2年(1262年)正月20日:正二位
  • 弘長2年(1262年)正月26日:権大納言
  • 文永2年(1265年)11月8日:左近衛大将
  • 文永2年12月2日(1266年1月):左馬寮御監
  • 文永4年(1267年)正月27日:任大臣宣旨
  • 文永4年(1267年)2月13日:内大臣
  • 文永5年12月2日(1269年1月):右大臣
  • 文永6年(1269年)4月23日:左大臣
  • 文永6年(1269年)4月27日:左近大将還宣旨
  • 文永7年(1270年)正月5日:従一位
  • 文永11年(1274年)6月20日:摂政
  • 文永11年(1274年)7月17日:辞大将 賜兵仗
  • 文永11年(1274年)10月16日:賜内舎人随身
  • 建治元年(1275年)10月21日:止職
  • 建治元年(1275年):辞内舎人随身

系譜

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脚注

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  1. ^ 尊卑分脈』では、実経男。母同。

関連項目

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