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竹山祐太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
竹山 祐太郎
たけやま ゆうたろう
生年月日 1901年4月25日
出生地 日本の旗 日本静岡県磐田郡見付町(現・磐田市
没年月日 (1982-07-07) 1982年7月7日(81歳没)
出身校 東京帝国大学農学部実科
前職 全国農業会指導部長
所属政党国民協同党→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 勲一等瑞宝章
親族 長男・竹山裕

日本の旗 第11・12代 建設大臣
内閣 第1次鳩山内閣
第2次鳩山内閣
在任期間 1954年12月10日 - 1955年11月22日

選挙区 静岡3区
当選回数 9回
在任期間 1946年4月11日 - 1966年12月27日

静岡県の旗 第6・7代 静岡県知事(公選)
当選回数 2回
在任期間 1967年1月31日 - 1974年6月24日
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竹山 祐太郎(たけやま ゆうたろう、1901年4月25日 - 1982年7月7日[1])は、昭和期の政治家。元建設大臣静岡県知事。長男は元参議院議員竹山裕[2]

来歴・人物

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静岡県磐田郡見付町(現・磐田市)に、農業・竹山宗一郎の長男として生まれる。中泉農業学校(現・静岡県立磐田農業高等学校)を経て、1922年東京帝国大学農学部実科(1935年東京高等農林学校として独立、現・東京農工大学)を卒業[3]農商務省に入省する[3]。農林技官として、1930年代農山漁村経済更生運動(いわゆる“自力更生運動”)に取り組み、全国各地を回った。1941年からは東京高等農林学校教授を兼任した[3]

1945年農林省を退官し、全国農業会指導部長となる[3]1946年第22回衆議院議員総選挙日本協同党から旧静岡全県1区にて立候補し初当選(当選同期に小坂善太郎二階堂進江崎真澄小沢佐重喜石井光次郎坂田道太水田三喜男村上勇原健三郎川崎秀二井出一太郎早川崇中野四郎など)。以後連続9回当選[3]1948年国民協同党書記長。その後改進党に所属し、1953年には農林省時代より面識のあった松村謙三幹事長の下で副幹事長となり、以後松村に付き従う。1954年第1次鳩山内閣にて建設大臣として初入閣する[4]。建設相時代の功績として日本住宅公団日本道路公団の設立があるが、これらはいずれも竹山の構想にもとづくものである。保守合同後は松村・三木派に所属し、自由民主党国会対策委員長、副幹事長等を歴任するかたわら、古井喜実らとともに松村側近として、日中国交回復推進に尽力した[3]

1967年、静岡県知事選に当選する[5]。在任中に田子の浦港ヘドロ公害に取り組む。国立医科大学県内誘致の際には県議会での静岡市への誘致決定を独断で覆し、浜松市に誘致したため県中部、東部の与党県会議員が集団離党するという騒ぎを起こす。2期目途中の1974年、参議院議員の任期切れが近づいていた山本敬三郎にスムーズに禅譲するため知事を退任、そのまま政界を引退する。

1971年勲一等瑞宝章受章。

1982年7月7日死去。享年81。

脚注

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  1. ^ 竹山祐太郎』 - コトバンク
  2. ^ 科学技術庁長官 竹山 裕”. 首相官邸. 2021年11月13日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 発見!いわた 「磐田の著名人」 竹山 祐太郎”. 磐田市立図書館. 2021年11月13日閲覧。
  4. ^ 第1次鳩山(一)内閣 閣僚名簿”. 内閣府. 2021年11月13日閲覧。
  5. ^ 歴代公選知事名簿(都道府県別) 静岡県”. 全国知事会. 2021年11月13日閲覧。
議会
先代
設置
日本の旗 衆議院決算委員長
1947年 - 1948年
次代
松原一彦
先代
鹿野彦吉
日本の旗 衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員長 次代
加藤常太郎
公職
先代
斎藤寿夫
静岡県の旗 静岡県知事
公選第6 - 7代:1967年 - 1974年
次代
山本敬三郎
先代
小沢佐重喜
日本の旗 建設大臣
第11・12代:1954年 - 1955年
次代
馬場元治
党職
先代
江﨑真澄
自由民主党国会対策委員長
第8代:1962年 - 1963年
次代
園田直
先代
岡田勢一
国民協同党書記長
第3代:
次代
解散