岩倉使節団
岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団である。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。当初の目的であった不平等条約改正の交渉は果たせなかったものの、日本近代化の原点となる旅として、明治政府の国家建設に大きな影響を与えたことから[1]、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われる[2]。
概要
[編集]- 背景
1870年7月に北ドイツ連邦 プロイセン王国とフランス帝国の間に勃発した普仏戦争は、ドイツ側の連合国が1871年1月に統一されドイツ帝国が成立、同年4月にはビスマルク憲法が施行され、5月には戦争が終結していた。
ただ、1870年10月に日本政府が北ドイツ連邦フランクフルトの印刷会社ドンドルフ・アンド・ナウマン社に注文した偽造通貨対策のための紙幣(明治通宝と呼ばれる)は、使節団が出発した1871年11月にはまだ届かなかった。
- 出発
明治4年(1871年)11月12日(陰暦)に米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。
使節団はキュナード社の蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスのリヴァプールに到着した。ロンドンから始まり、ブライトン、ポーツマス海軍基地、マンチェスターを経てスコットランドへ向かう。スコットランドではグラスゴー、エディンバラ、さらにはハイランド地方にまで足を延ばし、続いてイングランドに戻ってニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテア、ハリファクス、シェフィールド、チャッツワース・ハウス、バーミンガム、ウスター、チェスターなどを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。1872年12月5日はウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。
ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4か月)、フランス(2か月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間、独語版)、ロシア(2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの12か国に上る。帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問も行われたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなった。
当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に、太平洋郵船の「ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治六年政変となった。
元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。政府首脳の半数近くが長期間外遊するというのは極めて異例なことだった[3]が、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。
使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪[4]。以後は洋装に改めた。
目的
[編集]使節団の主目的は友好親善、および欧米先進国の文物視察と調査であったが、各国を訪れた際に条約改正を打診する副次的使命を担っていた。明治政府は旧幕府と締約された各種条約を新政府のものとに置き換えるべく明治初年度から順次交渉を続けていたが、1872年7月1日(明治5年6月26日)をもって欧米十五カ国との修好条約が改訂の時期をむかえ、以降1ヵ年の通告を持って条約を改正しうる取り決めであったので、明治政府はこの好機を捕えて不平等条約の改正を図ったのである[6]。だが、法制度が整っていないことやキリスト教禁教政策などを理由に不成功に終わった。
謁見した国家元首
[編集]- アメリカ合衆国 大統領ユリシーズ・グラント
- 大英帝国 女王ヴィクトリア
- フランス共和国 大統領アドルフ・ティエール
- ベルギー王国 国王レオポルド2世
- オランダ王国 国王ウィレム3世
- ドイツ帝国 皇帝ヴィルヘルム1世
- ロシア帝国 皇帝アレクサンドル2世
- デンマーク王国 国王クリスチャン9世
- スウェーデン王国 国王オスカル2世
- イタリア王国 国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
- オーストリア=ハンガリー帝国 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
- スイス連邦 大統領ポール・セレソル
派遣使節団
[編集]使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれた。
使節
[編集]- 特命全権大使
- 岩倉具視
- 副使官
- 一等書記官
- 二等書記官
- 三等書記官
- 四等書記官
- 大使随行
- 理事官
- 随行
- 村田新八
- 由利公正
- 原田一道
- 長與專齋
- 安場保和
- 若山儀一
- 阿部潜 - 阿部正蔵の三男[9]
- 沖守固
- 富田命保
- 杉山一成 - 幕臣、検査大属[10]
- 吉雄永昌 - 大蔵理事官、のち工部省官僚[11]。
- 中島永元
- 近藤鎮三
- 今村和郎
- 内村公平
- 大島高任
- 瓜生震 - のち三菱財閥幹部[12]
- 岡内重俊
- 中野健明
- 平賀義質 - 判事。平賀義美の岳父。
留学生
[編集]留学生のほとんどは士族だが、清水谷公考、坊城俊章、万里小路正秀(万里小路正房八男)、武者小路実世(武者小路実篤の父)、錦小路頼言は公家出身。以下、それぞれ50音順。
- イギリス留学
- イギリス・フランス留学
- アメリカ留学
- ドイツ留学
- ロシア留学
- 留学
随員
[編集]- 随員
ほか。
キリシタン禁制の高札撤去と信教の自由の保障
[編集]岩倉具視は使節団として不平等条約改正の予備交渉を進める中で、各国から浦上キリシタンへの非人道的行為(浦上四番崩れ)や当時進めていた外海と長崎湾周辺におけるキリスト教徒の大規模な捕縛などについて厳しく非難されることとなり、日本において信仰の自由を認めるよう迫られた。キリスト教徒への弾圧が条約改正の障壁になっていると判断した使節団はその旨を日本へ打電通達するが、その結果、政府は1873年(明治6年)2月24日に太政官布告第68号によりキリシタン禁制の高札を撤去することとなり、江戸時代初期以来つづけられてきたキリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれた[15][16]。
同年3月14日には、関係各県に流配されていた浦上のキリスト教徒を帰還させる命令が政府から出され、5年の流刑を経て、1,930人が浦上に帰ることが許された。その後、1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法により、国によって信教の自由が保障されるに至った[15]。
備考
[編集]使節団のアメリカ滞在の際、明治政府が金貨を鋳造・発行するにあたり必要な資金を調達する契約をカリフォルニア州のバンク・オブ・カリフォルニアと結んでいる。 これは明治政府がアメリカの企業と結んだ最初の契約であると言われている。 [17]
なおバンク・オブ・カリフォルニアは1984年に三菱銀行により買収され、さらに1996年の東京三菱銀行誕生に伴い東京銀行傘下となっていたユニオン・バンクと合併し、MUFGユニオン・バンクとして現存している。 また明治政府とバンク・オブ・カリフォルニアの間で締結された契約書は現存しており、サンフランシスコにあるMUFGユニオン・バンクの博物館に収蔵されている。 契約書には伊藤博文および大久保利通の署名が残されている。
参考文献
[編集]- 久米邦武編著『米欧回覧実記』(1878年・明治11年刊、5冊組で全100巻、博聞社)
- ※復刻版『特命全権大使米欧回覧実記』(全5巻 宗高書房、1975年)
- 『米欧回覧実記』 田中彰校注、岩波文庫(全5巻)、初版1977-82年/岩波書店、1985年(単行判5巻組)
- 『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』 水澤周訳注、慶應義塾大学出版会、2005年(単行判5巻組)
- 『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』 同上:選書普及判(全5巻+別巻総索引)、2008年。企画:米欧亜回覧の会
- 〔専門的な編著・単著〕
- 久米美術館編 『岩倉使節団関係 久米邦武文書 3』 吉川弘文館、2001年
- 久米美術館編 『特命全権大使 「米欧回覧実記」銅板画集』1985年
- 久米美術館編 『銅鐫にみる文明のフォルム 「米欧回覧実記」挿絵銅版画とその時代展」資料集』2006年
- 田中彰 『岩倉使節団の歴史的研究』 岩波書店、2002年
- イアン・ニッシュ編 『欧米から見た岩倉使節団』
- 芳賀徹編 『岩倉使節団の比較文化史的研究』 思文閣出版、2003年
- 米欧回覧の会編 『岩倉使節団の再発見』 思文閣出版、2003年
- 米欧亜回覧の会編 『世界の中の日本の役割を考える 岩倉使節団を出発点として』
- 米欧亜回覧の会・泉三郎編 『岩倉使節団の群像 日本近代化のパイオニア』ミネルヴァ書房、2019年
- 芳賀徹『文明の庫Ⅱ 夷狄の国へ』中央公論新社、2021年。第2部に関連論考
- 田中彰・高田誠二編著 『「米欧回覧実記」の学際的研究』北海道大学図書刊行会、1993年
- 西川長夫・松宮秀治編 『「米欧回覧実記」を読む 1870年代の世界と日本』法律文化社、1995年
- 岩倉翔子編著 『岩倉使節団とイタリア』京都大学学術出版会、1997年
- 菅原彬州 『岩倉使節団と銀行破産事件』「中央大学学術図書96」中央大学出版部、2018年
- 山崎渾子『岩倉使節団における宗教問題』思文閣出版、2006年
- 〔一般向けの書籍〕
- 田中彰 『岩倉使節団 「米欧回覧実記」』(岩波現代文庫(改訂版)、2002年)。初刊は講談社現代新書、1977年
- 大久保喬樹編訳 『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』(角川ソフィア文庫、2018年)
- 牧原憲夫『幕末から明治時代前期 文明国をめざして』小学館〈全集日本の歴史 第13巻〉、2008年12月。ISBN 9784096221136。
- 宮永孝 『アメリカの岩倉使節団』(筑摩書房[ちくまライブラリー]、1992年)
- 古川薫 『新・米欧回覧 歴史紀行 岩倉使節団の旅を追う』(毎日新聞社、1993年)
- 泉三郎 『誇り高き日本人 国の命運を背負った岩倉使節団の物語』 (PHP、2008年)
- 改題『岩倉使節団 誇り高き男たちの物語』(祥伝社黄金文庫、2012年)
- 高田誠二 『維新の科学精神 「米欧回覧実記」の見た産業技術』(朝日選書、1995年)
- 高田誠二 『久米邦武 史学の眼鏡で浮世の景を』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2007年)
脚注
[編集]- ^ “明治150年 インターネット特別展 -岩倉使節団 〜海を越えた150人の軌跡〜-”. アジア歴史資料センター. 2024年5月23日閲覧。
- ^ 岩倉使節団 米欧亜回覧の会 岩倉使節団とは?『明治維新政府首脳による西洋文明調査旅行』 2017年2月4日
- ^ 牧原憲夫, p. 102.
- ^ 平松隆円 『黒髪と美女の日本史』2012年、水曜社、pp.120-122
- ^ アメリカではグラント大統領、イギリスではヴィクトリア女王、フランスではティエール大統領、ベルギーでは国王レオポルド2世、オランダでは国王ウィレム3世、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム1世と謁見した。
- ^ 宮永孝「アメリカにおける岩倉使節団 : 岩倉大使の条約改正交渉」『社會勞働研究』第38巻第2号、法政大学、1992年1月、43-93頁、NAID 110000184475。
- ^ 長野桂次郎国立公文書アジア歴史センター
- ^ 池田寛治国立公文書アジア歴史センター
- ^ 阿部潜国立公文書アジア歴史センター
- ^ 岩倉使節団メンバー(出発時)米欧亜回覧の会
- ^ 吉雄永昌国立公文書アジア歴史センター
- ^ 瓜生震(読み)うりゅう しんコトバンク
- ^ a b “津田塾大学デジタルアーカイブ「津田梅子 4, 五人の女子留学生たち、シカゴにて」”. 津田塾大学. 2022年10月24日閲覧。 “津田塾大学デジタルアーカイブのファイル名:PH011_001”
- ^ 亀田 2005, p. 14
- ^ a b 国土交通省 観光庁 『高札撤去―信教の自由獲得へ―』 (PDF) 地域観光資源の多言語解説文データベース
- ^ 国立公文書館 公文書にみる日本のあゆみ 『キリスト教禁止の高札が撤廃される』
- ^ 三菱UFJフィナンシャルグループ (2009年1月8日). “MUFGのある暮らし 5号” (PDF). 2021年4月18日閲覧。 p.23
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]ウィキソースには、岩倉公実記の原文があります。