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前田利同

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前田利同
生年月日 安政3年6月27日1856年7月28日
没年月日 大正10年(1921年12月23日
前職 越中国富山藩
称号 正二位勲四等旭日小綬章伯爵
配偶者 淑(松平輝聴の娘)
子女 鞍子(前田利男正室)、鞭子(山縣有道室)、韁子(久松定孝室)
養子:利男利乗
親族 前田斉泰(父)
前田利聲(養父)
前田慶寧(兄)
前田利義(兄)
池田慶栄(兄)
前田利行(兄)
前田利鬯(兄)
前田直会(兄)
前田利武(弟)

日本の旗 越中富山藩知藩事
在任期間 明治2年6月17日 - 明治4年7月

日本の旗 宮内省式部官
在任期間 1882年 - 1888年

日本の旗 外務省公使館書記官
在任期間 1888年 - 1893年
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前田 利同(まえだ としあつ)は、江戸末期大名明治から大正期の日本官僚華族位階勲等爵位正二位勲四等伯爵

越中富山藩第13代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事宮内省侍従・式部官・宮中顧問官、外務省公使館書記官などを歴任[1][2]

生涯

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安政3年(1856年)6月27日、加賀藩主・前田斉泰の十一男として江戸で生まれる。富山藩では第12代藩主・前田利聲隠居していた父の利保が改革をめぐって対立していたが、その争いは利保に斉泰が味方したことで利保の勝利に終わり、利聲は富山藩の藩主の座を追われて強制隠居処分となった。代わって斉泰の息子である利同が安政6年(1859年)11月22日に富山藩主となった。しかし幼少のため、実権は実父の斉泰が掌握し、富山藩は本家である加賀藩の影響下に置かれ、加賀藩から津田正行らが派遣されて藩政を監督された。

明治2年(1869年)6月の版籍奉還で富山藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官される。その後、東京へ移った。明治4年(1871年)10月、明治政府からフランス留学を許可される。最初はフランス・パリ、次いでイギリス・ロンドンへ留学した。明治6年(1873年)12月、帰国した。

明治15年(1882年)4月、フランス公使館書記生から外務省御用掛となる。その後、宮内省の式部官となる。明治17年(1884年)、伯爵となる。明治21年(1888年)10月、宮内省の式部官から外務省の公使館書記官となる。明治26年(1893年)3月、免官となる。大正10年(1921年)12月23日、脳溢血により東京市下谷の自宅にて死去した[3]。享年66。墓所は文京区護国寺

前田伯爵家を継承した養子の前田利男は、伯爵溝口直正の子である。

栄典

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

家族

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脚注

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  1. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 534.
  2. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 115.
  3. ^ 富山市役所編 『富山市史』第2巻p369 1980年 富山市役所
  4. ^ 『官報』第7512号「叙任及辞令」1908年7月11日。
  5. ^ 『官報』第2820号「叙任及辞令」1921年12月24日。
  6. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  7. ^ 『官報』第610号「賞勲叙任」1885年7月14日。
  8. ^ 『官報』第7600号「叙任及辞令」1908年10月24日。

参考文献

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  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719 
日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
富山前田家初代
1884年 - 1921年
次代
前田利男