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増田嘉兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

増田 嘉兵衛[1][2](ますだ かへえ、1834年9月17日天保5年8月15日[3] - 1920年大正9年)9月4日[4])は、日本商人貿易商)、実業家。族籍は神奈川県平民[3][5]

人物

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伊賀上野車坂七面屋敷(現・三重県伊賀市)の赤貧の家に生まれる[2]。平蔵の長男[3]。幼くして父を亡くし、母によって育てられる[6]1844年、母が亡くなり、嘉兵衛は天涯孤独の身となる[7]行商を業とする[6]

猪田屋に奉公する[2]。14歳の春、大坂に出て、海産物問屋榎並屋に住み込む[7]文久2年、横浜で増田屋をひらき、外国輸入で富をきずく[4]1869年、横浜為替(横浜銀行の前身)の創立に加わる[4]

1884年家督を長男増蔵に譲り、分家して一家を創める[3]。中央倉庫取締役社長[5]第二銀行[3]横浜製糖取締役などをつとめる[1][5]

横浜市内の資産家である[3]1918年4月及び10月、横浜市公設浴場建築費金4万5千円を寄附したため紺綬褒章を下賜される[8]。住所は横浜老松町2丁目[1][3]

家族・親族

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増田家

脚注

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  1. ^ a b c 『日本紳士録 第16版』横浜の部59頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月9日閲覧。
  2. ^ a b c 『伊賀翼賛綜合文化展覧会先賢文化人略伝』一〇九増田 嘉兵衛(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年1月26日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『人事興信録 第4版』ま80頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年1月26日閲覧。
  4. ^ a b c 増田 嘉兵衛とはコトバンク。2020年1月26日閲覧。
  5. ^ a b c 『人事興信録 第3版』ま132 - 133頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年1月26日閲覧。
  6. ^ a b 増田翁 立志の地 由来。
  7. ^ a b 信夫隆司「中村房次郎と松尾鉱山」43 - 90頁、岩手県立大学総合政策学会 総合政策 第3巻第1号(2001)。
  8. ^ 『官報 1919年09月15日』官報 第2135号 312頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年1月3日閲覧。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903 - 1911年。
  • 『日本紳士録 第16版』交詢社、1911年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 大蔵省印刷局編『官報 1919年09月15日』日本マイクロ写真、1919年。
  • 大政翼賛会伊賀翼賛文化会編『伊賀翼賛綜合文化展覧会先賢文化人略伝』伊賀翼賛文化会、1942年。