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国司元蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
国司元蔵
伊賀地にある国司元武・元蔵の墓塔
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文7年(1538年)以降[注 1]
死没 慶長13年1月15日[1]1608年3月1日
改名 国司元熈[1]→元蔵[1]
別名 助六[1]、助兵衛[1]、隼人、隼人佐
戒名 牛庵以吽居士
墓所 西方寺墓地(山口県山口市徳地伊賀地
官位 従五位下[1]、隼人佐[1]
主君 毛利元就隆元輝元
長州藩
氏族 高階姓高氏庶流国司氏
父母 父:国司元相[1]、母:渡辺勝の娘[1]
兄弟 元武[1]元蔵元貞[1]
正室赤川元秀の娘[1]
継室井原元良の娘[1]
女(粟屋元武室)[2]就正[2]、女(桂元忠室)[2]左門[2]、女(神村元忠室)[2]
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国司 元蔵(くにし もとくら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の重臣で、長州藩士。父は国司元相

生涯

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毛利氏家臣・国司元相の次男として生まれる[注 1]

天正15年(1587年)に兄の元武隠居したため、国司氏家督を継承する。毛利輝元の信任篤く家老となり、輝元嫡子の毛利秀就傅役も任せられた。天正16年(1588年)、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜された。

文禄元年(1592年)から始まる文禄の役に従軍し、朝鮮へ渡海。文禄2年(1593年)6月の晋州城攻防戦では毛利秀元に従って戦う。この戦いで元蔵はを用いて敵兵を多数討ち取る武功をたてた。後に小早川隆景から元蔵の武功を聞いた輝元は、元蔵を賞賛した[3]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏は2ヶ国に減封されることとなった。翌慶長6年(1601年)9月には、毛利秀就とともに江戸に登り、徳川家康らに面会。その後は江戸にあって毛利氏の新たな拠点となるべき城地選定の際に、毛利輝元の意向を汲んで福原広俊と共に幕府との折衝にあたった。

慶長12年(1607年)に江戸から所領の周防国佐波郡徳地伊賀地村[注 2]に帰るも、兄の元武に先立ち慶長13年(1608年1月15日に病死。伊賀地村の西方寺に葬られ、家督は嫡男の国司就正が継いだ。なお、西方寺は現存せず、現在は墓地のみが残る。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 後に作成された系図類では元蔵が慶長13年(1608年)に78歳で死去と記されており、逆算すると生年は享禄4年(1531年)となる。しかし、日高山神社の棟札において兄・元武の生年の干支が「戊戌」と記されていることから元武は天文7年(1538年)生まれとなるため、元蔵の生年はそれ以降と考えられる。なお、後に作成された系図類に記された没年と享年から逆算すると元武の生年は永正16年(1519年)となるため、系図類の記載上は元蔵が享禄4年(1531年)生まれでも元武との生年に齟齬は生じていない。
  2. ^ 現在の山口県山口市徳地伊賀地。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 田村哲夫編修 1980, p. 116.
  2. ^ a b c d e 田村哲夫編修 1980, p. 117.
  3. ^ 『毛利輝元卿伝』p. 497.

参考文献

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  • 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQNCID BN01905560全国書誌番号:84027305 
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 萩藩閥閲録 山口県文書館編
  • 渡辺世祐監修、三卿伝編纂所編『毛利輝元卿伝』(マツノ書店1982年

関連項目

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外部リンク

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先代
国司元武
安芸国司氏歴代当主
? - ?
次代
国司就正