前田利意
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永2年6月17日(1625年7月21日) |
死没 | 貞享2年4月27日(1685年5月29日) |
改名 | 孫八郎(幼名) |
戒名 | 霊雲院殿桃岳宗吾大居士 |
墓所 | 群馬県富岡市の長学寺 |
官位 | 従五位下右近大夫 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
藩 | 上野国七日市藩主 |
氏族 | 菅原姓前田氏 |
父母 | 父:前田利孝、母:本多康俊の娘 |
兄弟 | 利意、孝矩、寄孝、娘(浅野長賢正室) |
妻 | 正室:戸田庸直の養女(戸田忠光の娘、のちに離縁・二の丸殿と呼ばれる) |
子 | 利広(長男)、主殿、九八郎、孝興(初名は豊昌、小川町前田家祖)、孝興(初名は豊嘉。蔵人、織部)、誠明(加賀藩士の前田兵部家祖、孝経とも)、上田元休(初名は清水頼母。兵庫。上田元隆養子)、孝教(小川町前田家、孝興養子)、福島定正(福島助六郎、前田主税)、孝效(幼名伊勢松。数馬。宗家の家臣、前田式部家祖)、麻(山田勘兵衛某室)、恭(前田綱紀養女、長尚連室)、娘(品川伊兵衛某室)、娘(畠山義寧正室)、長(前田孝始室) |
前田 利意(まえだ としもと)は、上野国七日市藩の第2代藩主。七日市藩前田家2代。
生涯
[編集]初代藩主・前田利孝の長男。母は本多康俊の娘。正室は戸田庸直の養女(戸田忠光の娘、のちに離縁し、二の丸殿と通称された)。
寛永2年(1625年)、江戸滝口邸にて生まれる。寛永14年(1637年)、父の死去により跡を継ぐ。館林城代(正保元年(1644年))や大坂御加番代を務め、貞享元年(1684年)に将軍・徳川綱吉より朱章を賜る。貞享2年(1685年)4月27日(もしくは4月28日)に61歳で七日市にて死去した。跡を子の利広が継いだ。法号は霊雲院殿桃岳宗吾大居士。墓所は群馬県富岡市の長学寺。
『土芥寇讎記』の利広の項目に拠れば、利広は女性に溺れることもなく、「善ありて悪なし」の「誉の将」とされている。一方利広の評価は「父親(利意)と比べて抜群に良い」ともされており、「父親(利意)は美女を好んで弊害が多く、浪費していた」とされている。
系譜
[編集]父母
正室
子女
- 前田利広(長男)
- 前田主殿
- 前田九八郎
- 前田孝興[注釈 1](三男)
- 前田孝興[注釈 2]
- 前田誠明[注釈 3]
- 上田元休[注釈 4]
- 前田孝教[注釈 5]
- 福島定正[注釈 6]
- 前田孝效[注釈 7]
- 麻 ー 山田勘兵衛某室
- 恭 ー 長尚連室、前田綱紀の養女
- 品川伊兵衛某室
- 畠山義寧正室
- 長 ー 前田孝始室