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呉の[[陸績]]・[[全ソウ|全琮]]・[[顧邵]]らとは懇意であり、龐統は陸績を「駿馬」、顧邵を「足が遅いが力のある牛」、全琮を[[汝南]]の樊子昭に例えて褒め称えた。龐統が周瑜の喪の帰りは、彼らが見送りにやってきており、陸績と顧邵から別れの際に「天下が太平になったら、また四海の士を批評しましょう」と言われるなど、深い交流があった。
呉の[[陸績]]・[[全ソウ|全琮]]・[[顧邵]]らとは懇意であり、龐統は陸績を「駿馬」、顧邵を「足が遅いが力のある牛」、全琮を[[汝南]]の樊子昭に例えて褒め称えた。龐統が周瑜の喪の帰りは、彼らが見送りにやってきており、陸績と顧邵から別れの際に「天下が太平になったら、また四海の士を批評しましょう」と言われるなど、深い交流があった。


『三国志』において龐統の伝は、[[法正]]の伝と同時に評されている。[[陳寿]]の評にいわく「龐統は常に人物批評を好み、経学と策謀にすぐれ、当時、荊・[[楚]]の地域の人士から、才能に秀でた人物と謳われていた」「魏臣に当てはめると[[荀彧]]の兄弟」とあり、法正と共に曹操腹心の軍師たちに匹敵すると評価されている。
『三国志』において龐統の伝は、[[法正]]の伝と同時に評されている。[[陳寿]]の評にいわく「龐統は常に人物批評を好み、経学と策謀にすぐれ、当時、荊・[[楚]]の地域の人士から、才能に秀でた人物と謳われていた」「魏臣に当てはめると[[荀彧]]の兄弟」とあり、法正と共に曹操腹心の軍師たちに匹敵すると評価されている。


== 『三国志演義』での龐統 ==
== 『三国志演義』での龐統 ==

2018年2月23日 (金) 03:52時点における版

龐統
清朝時代の龐統の肖像
朝時代の龐統の肖像
蜀漢
関内侯軍師中郎将
出生 光和2年(179年[1]
荊州襄陽郡
死去 建安19年(214年[1]
益州広漢郡雒県
拼音 Páng Tǒng
士元
諡号 靖侯
別名 鳳雛(渾名)
主君 劉備
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龐 統[2](ほう とう、179年 - 214年[1][3] は、中国後漢末期の武将、政治家。劉備に仕えた。士元しげん道号鳳雛靖侯荊州襄陽郡(現在の湖北省襄陽市)の出身。「臥龍がりょう」「伏龍ふくりょう」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛ほうすう」と称せられた。弟は龐林。子は龐宏。従父は龐徳公。族弟は龐山民(妻は諸葛亮の姉)ら。

生涯

若い頃は口下手であまり身なりが冴えなかったことから評判を得なかったが、人物鑑定で有名な司馬徽に、その才能を認められたことでようやく名が高まった。後に郡に仕えて功曹となり、孫権軍の周瑜南郡太守を領した後に病死すると、周瑜の喪のために埋葬地の呉へ赴いた。

その後、荊州を領有した劉備の下に転じ、耒陽(らいよう、現在の湖南省耒陽市)の県令の職を任ぜられるものの、仕事を滞らせたために罷免された。これを聞いた孫権軍の魯粛が、劉備への手紙の中で「龐統は大役を与えてこその人物」と薦め、諸葛亮も取り成したので再び劉備に召し抱えられ、諸葛亮と同じ役職である軍師中郎将に任命された。

劉備陣営の次の方策として、西の益州を獲ることが考えられていたが、劉備は主が同族の劉璋であることを理由にこれを渋っていた。龐統はこれを諫めて、益州を獲ることを劉備に決心させた[4]。入蜀に際しては龐統が劉備に同行し、諸葛亮は荊州の留守を守ることになった。

益州に入った当初、劉璋が劉備たちの本心を知らずに歓迎の宴を開くなど無防備だったので、龐統はこの機会に劉璋を捕らえて、無用に戦うこと無く益州を取るよう劉備に進言した。しかし劉備は「他国に入ったばかりで、恩愛や信義はまだ現れていない。それはいかん」と答え、これを聞き入れなかった。その後、劉備軍は漢中張魯と対峙する振りをして駐屯し、成都にいる劉璋をどう攻めるかを検討していたが、東で曹操と孫権が戦い劉備に対して援軍を求めてきたことを口実に、軍団を移動させることを考えた。この時、龐統は劉備に対して、昼夜兼行で成都を強襲する上計・関所を守る劉璋の将を欺いて兵を奪い成都を目指す中計・一旦白帝城まで退く下計の三計を提示した。劉備は中計を採用した。

そこで劉備は龐統の策略を用いて、白水関を守る劉璋軍の楊懐高沛を呼びつけて騙し討ちにし、白水関を占領した(劉備の入蜀)。

劉備軍は、成都攻略の前に劉循張任が守るらく城を包囲した。しかしこの包囲戦の最中、龐統は流矢(雨のように降りそそぐ矢、あるいは流れ矢)に当たって死去した。享年36[5]。劉備は龐統の死を大いに悲しんだ。のちに関内侯を追封され、景耀3年(260年)9月には靖侯諡号を贈られた。

人物

『龐統伝』には次のような逸話がある。益州への侵攻の際、勝利に浮かれる劉備に対し「仁を掲げる御方が他人の国を奪って喜ぶとは、いかがなものでしょう」と、元々益州を取ることを勧めたのは龐統であるにもかかわらず、痛烈に劉備を批判した。劉備は怒って龐統に退席を命じたが、すぐに自分の非に気がつき戻るように言った。龐統が何ごともなかったかのように席に戻ったが、劉備の方がかえって恐縮してしまい「先程の議論では私と君のどちらが間違っていたのか」と聞いた。それに対し「君臣共に間違っていたのです」と答えたので、笑い話になったという。

また龐統は人物評価を好んで行なったが、その場合はいつもその人物を過大に評価していた。ある人にその理由を尋ねられた際、龐統は「現在天下は乱れ、正道は衰え、善人は少なく悪人は多い。褒め過ぎるくらいの評価をして、名誉欲を満たしてやらなければ、善事を行なう者は増えないだろう。志ある者に希望を与え、努力させられるのだから、これもいいではないか」と答えている。

呉の陸績全琮顧邵らとは懇意であり、龐統は陸績を「駿馬」、顧邵を「足が遅いが力のある牛」、全琮を汝南の樊子昭に例えて褒め称えた。龐統が周瑜の喪の帰りは、彼らが見送りにやってきており、陸績と顧邵から別れの際に「天下が太平になったら、また四海の士を批評しましょう」と言われるなど、深い交流があった。

『三国志』において龐統の伝は、法正の伝と同時に評されている。陳寿の評にいわく「龐統は常に人物批評を好み、経学と策謀にすぐれ、当時、荊・の地域の人士から、才能に秀でた人物と謳われていた」「魏臣に当てはめると荀彧の兄弟」とあり、法正と共に曹操腹心の軍師たちに匹敵すると評価されている。

『三国志演義』での龐統

小説『三国志演義』においては、龐統の兄弟が諸葛亮の妹を娶り、義兄弟となっている。赤壁の戦いでは周瑜に対して曹操を破るための献策を行なう。周瑜は曹操軍の軍船を火攻めにしようと考えていたが、一隻に火をつけても他の船は逃げてしまい、燃え広がらないということが問題となる。そこで龐統は連環の計と呼ばれる策を周瑜に勧める。龐統自身が周瑜の陣営に偵察にやって来た蒋幹をうまく欺き、曹操の軍営に潜り込み曹操と面会し、北方人の弱点である船酔い対策として、船同士を鎖で繋げることを進言するのである。このことにより、火がついても曹操軍の軍船が逃げられないようになり、劉備・孫権の連合軍による火攻めで曹操軍は大敗したということになっている。また、曹操の臣下となっていた親友の徐庶が火計に巻き込まれないように、別方面へ派遣されるようにし向ける策を授けている。

その後、周瑜の葬儀に参列した諸葛亮に対面し、劉備に仕えるよう誘われる。彼の才を惜しんだ魯粛によって孫権に引見されるが、醜い風貌と、孫権の問いかけにきちんと答えなかったことから疎まれてしまう。次に龐統は劉備に面会するが、劉備がその風貌を見て諸葛亮が推挙する龐統かどうかが判らず、閑職の地方県令を宛がってしまう。すると龐統は1か月の間酒ばかり飲んで職務を怠け、村人から訴えられることになる。しかし、劉備が派遣した張飛に詰問されたところ、溜まっていた1か月分の仕事を半日で全て片付けてしまう。これによって、龐統がその才能を劉備に認められることになり、さらに劉備は自身の行為を戒めることになっている。

またその死については、気遣った劉備が貸し与えた白馬に乗って、劉備の代わりに危険な間道を進んだため、「落鳳坡」という場所で劉備と間違えられて、張任配下の伏兵に射殺されたという描写になっている。

なお落鳳坡という地名は実在し(現在の四川省徳陽市)、落鳳坡の石碑付近には龐統墓がある。

脚註

  1. ^ a b c The Sanguozhi stated that Pang Tong died at the age of 36 (by East Asian age reckoning) in 214 CE. By calculation, his birth year should be around 179.
  2. ^ 龐は广=まだれに龍
  3. ^ de Crespigny, Rafe (2007). A biographical dictionary of Later Han to the Three Kingdoms (23–220 AD). Brill. p. 689. ISBN 978-90-04-15605-0 
  4. ^ 九州春秋』によれば、龐統は劉備に「無理な手段で益州を奪っても、正しい方法で統治し、道義を持って彼らに報いて、事が定まった後に大国を与えれば、信義に背くことはないだろう」と語った。
  5. ^ 世説新語』言語篇の劉孝標注では享年38となっている。なお雒の攻囲戦は213年から214年と越年して行なわれているため、龐統の没年がどちらなのかは不明である。

外部リンク