鈴木重義 (サッカー選手)
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
カタカナ | スズキ シゲヨシ | |||||
ラテン文字 | SUZUKI Shigeyoshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1902年10月13日 | |||||
出身地 | 福島県 | |||||
没年月日 | 1971年12月20日(69歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1921-1923 | 早稲田高等学院 | |||||
1924-1926 | 早稲田大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
早稲田大学WMW | ||||||
代表歴 | ||||||
1927[1] | 日本 | 2 | (1) | |||
監督歴 | ||||||
1930, 1936 | 日本 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
鈴木 重義(すずき しげよし、1902年10月13日 - 1971年12月20日)は、福島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。1936年のベルリンオリンピックのサッカー日本代表監督を務めた。
経歴
[編集]豊島師範附属小学校、東京高等師範学校附属中学校から1920年に早稲田高等学院に入学。同校でサッカー部(ア式蹴球部)を設立した。在学中、ビルマ人留学生チョウ・ディンからショートパス等のサッカーの指導を受けて実力を伸ばした。
1923年に早稲田大学に入学、1924年にア式蹴球部を創設した。在学中、野津謙らと全国高等学校ア式蹴球大会を開催した。
1927年、上海で開催された第8回極東大会のサッカー日本代表に選出され、主将としてフィリピン代表戦では先制ゴールを決めるなど、日本代表として最初の国際大会勝利に貢献した。
その後は早稲田大学の監督を務めるとともに、1930年に東京で開催された第9回極東大会では日本代表監督を務め、中華民国代表と同位ながら国際大会で初優勝を実現した。なお、翌年の1931年の1年間、鈴木の自宅が大日本蹴球協會(現日本サッカー協会)となっている(大日本蹴球協會3回目の引っ越し)。
1936年のベルリンオリンピックで日本代表監督に就任。本大会前の練習試合で、当時ヨーロッパで広まりつつあった3バック(WMシステム)を目の当たりにし、急遽代表チームにこのシステムを導入した。その結果、スウェーデン代表に勝利した(ベルリンの奇跡)。
鈴木は大日本蹴球協会で常務理事、主事を歴任し、日本体育協会の専務理事も務めた。また、早大ア式蹴球部では終身OB会長を務めていた。
戦後は同和火災の社員として勤務、後に共栄火災の取締役も務めた。
1971年12月20日、死去。69歳没。2007年、第1回日本サッカー殿堂表彰を受けた[2]。
代表歴
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 2試合 1得点(1927)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1927 | 2 | 1 | 3 | 0 | 5 | 1 |
通算 | 2 | 1 | 3 | 0 | 5 | 1 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1927年08月27日 | 上海 | 中華民国 | ●1-5 | 極東選手権 | ||
2. | 1927年08月29日 | 上海 | フィリピン | ○2-1 | 極東選手権 |
得点数
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1927年08月29日 | 上海 | フィリピン | ○2-1 | 極東選手権 |
著書
[編集]- 野津謙、鈴木重義『ア式蹴球』アルス、1928年7月。 NCID BN09667626。
関連項目
[編集]出典
[編集]外部リンク
[編集]- 鈴木重義 - Olympedia
- 鈴木重義 - National-Football-Teams.com
- 鈴木重義 - WorldFootball.net
- 鈴木重義 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 日本サッカー人物史 - 日本サッカーアーカイブ