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下村幸男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下村幸男
名前
カタカナ シモムラ サチオ
ラテン文字 SHIMOMURA Sachio
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1932-01-25) 1932年1月25日(92歳)
出身地 広島県広島市中区十日市町
(旧:鷹匠町)
選手情報
ポジション GK
ユース
日本の旗 旧制修道中学
1948-1949 日本の旗 修道高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1950-1961 日本の旗 東洋工業
代表歴
1953-1958 日本の旗 日本 1 (0)
監督歴
1955-1962 日本の旗 修道高校コーチ
1962-1963 日本の旗 東洋工業コーチ
1964-1971 日本の旗 東洋工業監督
1972-1974 日本の旗 藤和不動産監督
1975-1978 日本の旗 藤和/フジタ総監督
1979-1980 日本の旗 日本代表監督
1992-1994 日本の旗 広島スカウトスーパーバイザー
2000-現在 日本の旗 修道中学コーチ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

下村 幸男(しもむら さちお、1932年1月25日 - )は、広島県広島市中区十日市町(旧:鷹匠町)出身[1]の元サッカー日本代表選手 (GK)・指導者[2]

人物

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メルボルン五輪日本代表。モスクワ五輪出場を目指した時の日本代表監督

監督として東洋工業(のちのマツダSC、現:サンフレッチェ広島)および藤和不動産(のちのフジタ工業、現:湘南ベルマーレ)の黄金期の礎を築いた名将。

高校サッカーの指導者としても活躍しており、母校修道高校国民体育大会サッカー競技および全国高等学校サッカー選手権大会優勝に導き、二冠達成も経験している。

来歴

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被爆

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原爆投下前の市中央部で同心円の中心が爆心地。爆心地から最下方の広地が市役所。実家の鷹匠町は爆心地から左で中から2つめの円辺り。ちなみにこの写真一帯は被爆により建物が全焼している。

1945年、旧制修道中学2年生の時の8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆した[2]

当時、国民学校女学校旧制中学校数校の約2500人の学生たちは、爆心地から約1キロメートルに位置した雑魚場町(現:広島市役所東側の国泰寺公園付近[3])で、建物疎開作業中のことであった[1][2]。下村は、その前日から中耳炎に罹り体調が優れなかったため6日朝に病院へ行こうとしたが母に作業へ行くように言われ[1]、当地では作業の迷惑にならないよう弁当と上着の見張り当番となり木陰にいたため被爆時に難を逃れた[2]。当時その場にいた修道中の2年生約150人中、136人が亡くなっている[1][4]

その後、南へ逃げ黄金山にあった防空壕で休んだ[2]

同月9日から親類の疎開先であった三次市へと向かい、父と再会した[2]。そこで実家にいた祖母と母の白骨が見つかったこと、兄が避難先で亡くなったことを知った[2]。1946年3月まで疎開先の日彰館中学校(現:広島県立日彰館高等学校)で過ごした[2]

学生サッカー

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1946年3月、父に伴って広島市内に戻り暮らし始め、修道中学に復学した[2]。食べるものにも困る状況であった[1]

1948年学制改革により修道高校2年生に編入する[5]。将来が見通せなくなった不安をサッカーに打ち込むことで払拭しようと、同年に蹴球部に入部する[2]。サッカーを始めた当初はFWでプレーしていた[2]。しかし空腹で動けなくなるためすぐに脱落、そこで動きの少ないGKを志願した[2]。当時は専門知識を持った監督やコーチがいなかったが、我流の練習で、ジャンプ力やキック力を磨いた[2]

当時の修道中は全国屈指の強豪校であり、県立広島一中(現:広島県立広島国泰寺高等学校)と広島高等師範附属中(現:広島大学附属中学校・高等学校)で3強を形成していた[2]。同世代のライバルに高師中の長沼健木村現樽谷恵三古川能章、広島一中の重松良典福原黎三らがいる。

1949年高校3年生の時に東京国体3位入賞を飾る[1]

実業団サッカー

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高校卒��後、地元の東洋工業(現:マツダ)に入社。東洋工業蹴球部に入部した[1]

1951年、全広島の一員として、スウェーデンのプロチーム・ヘルシンボリIFと対戦、初の国際試合を体験した。全広島は渡部英麿、福原らに小畑実銭村健次ら東洋工業の選手も参加したチームだった。

東洋工業は樽谷明・重松良典ら有力選手の加入で徐々にチーム力を強化し1954年、実業団チームとして初めて日本選手権(天皇杯の前身)決勝に進出。慶大BRBとの決勝は、第4延長までもつれ意識不明の選手が出るという日本サッカー史に残る死闘を演じるも敗れた (3-5)[6]。翌1955年は全日本実業団でまたも準優勝(0-2田辺製薬)、しかし翌1956年にライバル・田辺製薬の七連覇を阻み (4-0) 同大会を初優勝してチームに初のタイトルをもたらす。翌1957年、同大会準優勝(0-2田辺製薬)、天皇杯も準優勝(1-2中大クラブ)。1959年、天皇杯・実業団ともに3位。1960年国体優勝。

当時の東洋工業では高卒入社だと昇進試験はなく大卒入社との格差が存在した[1]。下村はこれを見返そうとオリンピックに出ることを目標に頑張った[1]。その結果全日本にも選ばれ、1953年6月14日明治神宮外苑競技場で行われた国際親善試合対キッカーズ・オッフェンバッハ戦で初ベンチ入り[7]。初出場(Bキャップ)は1953年11月29日明治神宮競技場で行われた対DIFユールゴルデン戦で、後半から渡部英麿に代わり途中出場する[7]1954年W杯スイス大会アジア予選では同年3月に行われた韓国戦2試合にベンチ入りしている[7]

1955年10月9日、ビルマ戦に先発出場し、国際Aマッチデビュー[8]1956年メルボルンオリンピック代表にも選ばれた[2]。ちなみに、地方のチーム出身でしかも高卒なのは下村だけだった[1]。同年10月25日五輪本戦前に後楽園で行われたアメリカ・アマチュア戦で日本代表初先発を飾る[7]。1958年、東京アジア大会の日本代表に選ばれている[7]。当時の代表では津田幸男古川好男が正GKに君臨し、控えGK枠を争っている状況であった[7]

1961年、現役を引退。

指導者時代

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1956年12月メルボルン五輪終了後、母校・修道高校からの指導依頼により、東洋工業の現役選手ではあったが修道高コーチと兼務することになった[1]。1961年には森孝慈中村勤吉田浩らを率いて、秋田国体少年の部優勝[9]。さらに第40回全国高等学校蹴球選手権大会でも好成績を上げ、決勝では釜本邦茂二村昭雄らを擁する山城高校相手に2-0で勝利に導き二冠を達成した[1]。ただ、この冬の選手権に3年生を出場させたことにより森など受験に失敗したものが続出したことから、保護者に対するけじめとして同年限りでコーチを退任した[1]

1962年、東洋工業コーチに就任、同年には岡山国体(2-1全大阪)・実業団(0-0古河電工)を制し2冠。

1964年小畑実が監督を退き総監督に就任すると、下村は東洋工業監督に昇格した。1965年、日本サッカーリーグ (JSL) 発足当時、下村は最年少監督(33歳)だった[1]。古河電工、三菱八幡製鉄が本命と言われ、3強豪に勝つ為練習量を増やし、毎日6時から9時、夜間照明のある施設を借り歩いて練習を続けた[1]。その結果、小沢通宏石井義信小城得達桑原楽之松本育夫今西和男船本幸路らが走りながら考えるサッカーを実践した[1][10]。 下村率いる東洋工業は、記念すべきリーグ初年度を無敗で優勝すると、1968年までリーグ四連覇の偉業を達成、JSL最多の5度の優勝に導き、さらに天皇杯も3度制覇し(1965年、1967年、1969年)、黄金時代を築いた[11]

1972年、JSLに昇格した藤和不動産(現:三菱地所レジデンス)のサッカー部に監督として招集され[12]、石井義信コーチとともにチームを強化する[13]。当社を経営する藤田正明がチーム強化のため自身の出身地である広島にあった東洋工業からスタッフを引きぬいた形であり、トップリーグでの監督の移籍は日本では初めてのケースだった[14]。ちなみに藤田正明は旧制修道中の先輩であり、藤和初代監督を務めた黒木芳彦は修道高の後輩[15]でもある。1973年セルジオ越後や中村勤らを擁し、藤和不動産/フジタ工業サッカー部をブラジル型の攻撃的チームの礎を築きあげ、のちに育ての親とも称された[13][16]。チームは親会社のフジタに移管さ���下村の後を継いだ石井監督の下でJSLと天皇杯を各2度制覇、フジタ工業の黄金期をもたらした[17]

日本代表監督

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1979年、メキシコ五輪の偉業から既に10年が経過しJSLも低迷、銅メダルメンバーは引退し若いタレントも少ない時代、前年のアジア大会惨敗の後を受け技術委員会の投票で、ゴールキーパー出身として初の日本代表監督に就任。翌年に迫ったモスクワ五輪まで間が無く短期間で結果が出せる、という評価での抜擢だった。しかし打倒韓国を掲げ戦うも敗れて僅か1年で辞任した。メキシコ五輪メンバーが、一握りの選手で長期強化を図り結果を出したが、この時代は非常に選手層が薄く空白期となってしまった。若いタレントが少なかったとはいえ、木村和司川勝良一らを代表に初抜擢した。後任には同郷ながら反りの合わなかった渡辺正コーチが昇格された。

その後

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その後マツダに復帰しJリーグ創設期にはサンフレッチェ広島のスカウトスーパーバイザーを務めた。

2000年から母校・修道中学の指導にあたり、現在も高齢ながら指導者として活躍している[2]。2004年には広島市で1位、広島県で2位となり修道中学校を初の中国大会出場へと導いた[1]。それと同時に、被爆体験を毎年在校生に話している[1]

また、全国健康福祉祭サッカー交流大会(ねんりんピック)やシニア(70歳以上)サッカーフェスティバルでもプレーしている[1][18][19]

2008年現在、日本サッカー協会参事[20]、2011年現在広島県サッカー協会顧問[21]。現在、安芸郡府中町在住[2]

2015年、第12回日本サッカー殿堂入り[22]

代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 1試合 0得点


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1953 0 0 1 0 1 0
1954 0 0 0 0 0 0
1955 1 0 1 0 2 0
1956 0 0 3 0 3 0
1957 0 0 0 0 0 0
1958 0 0 0 0 0 0
通算 1 0 5 0 6 0

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1955年10月09日 日本の旗東京都 後楽園競輪場  ビルマ △0-0 竹腰重丸 国際親善試合

監督成績

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年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 JSL杯 天皇杯
1965 JSL 東洋 優勝 14 26 12 2 0 - 優勝
1966 JSL 優勝 14 25 12 1 1 - 準優勝
1967 JSL 優勝 14 22 10 2 2 - 優勝
1968 JSL 優勝 14 21 10 1 3 - 準々決勝
1969 JSL 準優勝 14 21 10 1 3 - 優勝
1970 JSL 優勝 14 23 11 1 2 - 準優勝
1971 JSL 6位 14 10 3 4 7 - 資格なし
1972 JSL1部 藤和 8位 14 6 2 2 10 - 準々決勝
1973 JSL1部 4位 18 21 9 3 6 優勝 準々決勝
1974 JSL1部 8位 18 16 5 6 7 - 準々決勝

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 広島西南ロータリークラブ
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 朝日新聞広島版、2010年8月3日付
  3. ^ 教員日誌”. 修道高校. 2011年12月17日閲覧。
  4. ^ 原爆被災説明板 --旧雑魚場町地区周辺--”. 広島市. 2011年12月15日閲覧。
  5. ^ 沿革”. 修道中学校・修道高等学校. 2011年12月15日閲覧。
  6. ^ K.B.F会員たよりNo2”. 慶應義塾大学 体育会 ソッカ-部 K.B.F. 2011年12月15日閲覧。
  7. ^ a b c d e f 代表タイムライン
  8. ^ 代表TIMELINE 日本サッカー協会
  9. ^ サッカー元日本代表・森さん 県内からも惜しむ声 広島”. 朝日新聞 (2011年7月19日). 2011年12月15日閲覧。
  10. ^ 「走るサッカー」とは何か”. 牛木素吉郎&ビバ!サッカー研究会 (2006年8月7日). 2011年12月16日閲覧。
  11. ^ 攻守兼備のMF 努力の人 小城得達”. 賀川サッカーライブラリー. 2011年12月16日閲覧。
  12. ^ クラブ沿革”. 湘南ベルマーレ公式サイト. 2020年4月9日閲覧。
  13. ^ a b セルジオ越後 リベリーノと競ったブラジルの技術の高さをJSLで披露”. 賀川サッカーライブラリー (2005年3月15日). 2011年12月16日閲覧。
  14. ^ 早川文司『サンフレッチェ広島 奇跡のイレブン』イーストプレス、1994年、187-188頁
  15. ^ 修道サッカーの歴史”. 修道サッカーOB会. 2011年12月17日閲覧。
  16. ^ 朝日新聞朝刊、1980年1月3日20面
  17. ^ 沿革”. 湘南ベルマーレ公式. 2011年12月16日閲覧。
  18. ^ 第14回全国健康福祉祭広島大会(2001ねんりんピック広島)の開催について”. 厚生省 (2001年9月21日). 2011年12月17日閲覧。
  19. ^ 全国シニア(70歳以上)サッカーフェスティバルのゲーム報告”. 京都暁フットボールクラブ (2009年6月). 2011年12月17日閲覧。
  20. ^ 「広島が生んだ巨星」 長沼健さん死去、惜しむ声相次ぐ”. 中国新聞 (2008年6月3日). 2011年12月17日閲覧。
  21. ^ 2011サッカーサンクスフェスタ 受賞者(案)” (PDF). 広島県サッカー協会. 2011年12月17日閲覧。
  22. ^ [1]

参考資料

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関連項目

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外部リンク

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