慶光院利敬
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時代 | 明治時代 - 昭和時代 |
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生誕 | 1875年2月13日[1] |
死没 | 1938年2月19日(63歳没) |
官位 | 従三位 |
勲章 | 勲三等瑞宝章 |
主君 | 明治天皇→大正天皇→昭和天皇 |
氏族 | 二条家→慶光院家 |
父母 |
父:二条斉敬、母:家女房 養母:慶光院盈子 |
兄弟 | 二条正麿、四条隆英 |
配偶者 | 慶光院増子(東園基愛女) |
子供 | 利彰、俊、敏子、治子 |
奉職神社 | 伊勢神宮 |
慶光院 利敬(けいこういん よしゆき[1])は、明治時代から昭和時代にかけての日本の神職。伊勢神宮少宮司。従三位。
生涯
[ソースを編集]1875年(明治8年)、二条斉敬の子として生まれる[1]。1902年(明治35年)に慶光院盈子の養子となり、1906年(明治39年)に家督を継承した[2]。
1906年4月4日、伊勢神宮禰宜に任じられ、高等官八等(奏任官)に叙される[3]。同日年俸として420円を下賜された[4]。1912年(明治45年)5月31日に高等官七等に陞叙した[5]。以後、1915年(大正4年)12月24日には高等官六等[6]、1918年(大正7年)12月26日には高等官五等[7]、1922年(大正11年)3月8日には高等官四等[8]、1926年(大正15年)5月13日には高等官三等[9]、と順調に陞叙していった。
神宮禰宜を務める傍ら、神宮司庁会計課長[10]、官房主事兼庶務課長を務める[2]。1934年(昭和9年)6月22日には臨時神宮施設調査会の幹事[11]、1936年(昭和11年)9月3日には神宮関係施設調査会の幹事に[12]、それぞれ任じられる。
1937年(昭和12年)8月28日、神宮少宮司に任じられ、高等官二等(勅任官)に叙された[13][注釈 1]。翌1938年(昭和13年)2月19日に63歳で薨去した[15][16][17][注釈 2]。
栄典
[ソースを編集]- 位階
- 1906年(明治39年) 5月11日、従七位[18]
- 1910年(明治43年) 3月30日、正七位[19]
- 1916年(大正 5年) 2月12日、従六位[20]
- 1918年(大正 7年) 1月 4日、正六位[21]
- 1925年(大正14年) 3月16日、従五位[22]
- 1929年(昭和 4年) 1月15日、正五位[23]
- 1930年(昭和 5年) 3月29日、従四位[24]
- 1937年(昭和12年)11月 1日、正四位[25]
- 1938年(昭和13年) 2月19日、従三位[26]
- 勲等・勲章
- 1919年(大正 8年) 5月30日、勲六等瑞宝章[27]
- 1924年(大正13年) 8月29日、勲五等瑞宝章[28]
- 1930年(昭和[29] 5年)10月15日、勲四等瑞宝章
- 1938年(昭和13年) 2月19日、勲三等瑞宝章[26]
系譜
[ソースを編集]脚注
[ソースを編集]注釈
[ソースを編集]出典
[ソースを編集]- ^ a b c d 霞会館 1996b, p. 319.
- ^ a b c d e 人事興信所編 1931, p. ケ1.
- ^ 『官報』第6826号, 明治39年4月4日, p. 93, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第6826号, 明治39年4月4日, p. 94, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第8684号, 明治45年6月1日, p. 3, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第1021号, 大正4年12月25日, p. 634, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第1921号, 大正7年12月27日, p. 706, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第2878号, 大正11年3月9日, p. 214, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第4115号, 大正15年5月14日, p. 353, 敍任及辭令.
- ^ 人事興信所編 1934, p. ケ2.
- ^ 『官報』第2242号, 昭和9年6月23日, p. 597, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第2904号, 昭和11年9月4日, p. 100, 敍任及辭令.
- ^ a b 『官報』第3198号, 昭和12年8月30日, p. 876, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第3198号, 昭和12年8月30日, p. 877, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第3342号, 昭和13年2月25日, p. 779, 「彙報」官吏薨去、卒去及死去.
- ^ 神宮司庁編 2005, p. 248.
- ^ 館史編纂委員会 2014, p. 144.
- ^ 『官報』第6858号, 明治39年5月12日, p. 364, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第8028号, 明治43年3月31日, p. 803, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第1058号, 大正5年2月14日, p. 217, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第1626号, 大正7年1月7日, p. 33, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第3800号, 大正14年4月25日, p. 653, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第615号, 昭和4年1月19日, p. 353, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第981号, 昭和5年4月10日, p. 254, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第3258号, 昭和12年11月10日, p. 265, 敍任及辭令.
- ^ a b 『官報』第3344号, 昭和13年2月28日, p. 874, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第2046号, 大正8年5月31日, p. 808, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第3608号, 大正13年9月1日, p. 5, 敍任及辭令.
- ^ 『官報』第1141号, 昭和5年10月16日, p. 399, 敍任及辭令.
- ^ 霞会館 1996b, p. 388.
- ^ 霞会館 1996a, p. 234.
- ^ 霞会館 1996a, p. 276.
参考文献
[ソースを編集]- 書籍
- 人事興信所編『人事興信録』(9版)人事興信所、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録』 上巻(10版)、人事興信所、1934年。
- 霞会館『平成新修旧華族家系大成』 上巻、吉川弘文館、1996年。
- 霞会館『平成新修旧華族家系大成』 下巻、吉川弘文館、1996年。
- 神宮司庁編『神宮史年表』戎光祥出版、2005年。ISBN 978-4-90090-151-3。
- 館史編纂委員会『皇學館大学百三十年史:年表篇・写真篇』学校法人皇學館、2014年。
- 官報
- 『官報』 第6826号、1906年4月5日。
- 『官報』 第6858号、1906年5月12日。
- 『官報』 第8028号、1910年3月31日。
- 『官報』 第8684号、1912年6月1日。
- 『官報』 第1021号、1915年12月25日。
- 『官報』 第1058号、1916年2月14日。
- 『官報』 第1626号、1918年1月7日。
- 『官報』 第1921号、1918年12月27日。
- 『官報』 第2046号、1919年5月31日。
- 『官報』 第2878号、1922年3月9日。
- 『官報』 第3608号、1924年9月1日。
- 『官報』 第3800号、1925年4月25日。
- 『官報』 第4115号、1926年5月14日。
- 『官報』 第615号、1929年1月19日。
- 『官報』 第981号、1930年4月10日。
- 『官報』 第1141号、1930年10月16日。
- 『官報』 第2242号、1934年6月23日。
- 『官報』 第2904号、1936年9月4日。
- 『官報』 第3198号、1937年8月30日。
- 『官報』 第3258号、1937年11月10日。
- 『官報』 第3342号、1938年2月25日。
- 『官報』 第3344号、1938年2月28日。
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