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北陸鉄道小松線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北陸鉄道 小松線
1971年以降の専用車両モハ3000形
(1977年3月27日、小松駅付近)
概要
現況 廃止
起終点 起点:小松駅
終点: 鵜川遊泉寺駅
駅数 8駅
運営
開業 1929年5月15日 (1929-05-15)[1]
廃止 1986年6月1日 (1986-6-1)[1][2]
所有者 白山電気鉄道→小松電気鉄道→
北陸鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 5.9 km (3.7 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 直流600 V架空電車線方式
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
STRq STRq
国鉄北陸本線
exSTR+l
0.0 小松駅 左:新小松駅
exSTR3 exSTR
尾小屋鉄道
exBHF
0.9 沖駅
exBHF
2.1 打越駅
exBHF
2.5 若杉駅
exBHF
3.2 加賀八幡駅
exBHF
3.9 佐々木駅
exBHF
5.3 軽海駅
exhKRZWae
梯川
exKBHFe
5.9 鵜川遊泉寺駅

小松線(こまつせん)は、石川県小松市小松駅から、同市の鵜川遊泉寺駅を結んでいた北陸鉄道鉄道路線[3]モータリゼーションの進行による利用者の大幅な減少により、北陸鉄道の経営合理化の対象となり、1986年(昭和61年)5月31日限りで全線廃線となった。

路線データ

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運行形態

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ほぼ中間に位置する加賀八幡駅交換駅で朝夕は約20分毎、日中は約60分毎の運行で、廃止時点では1日に20往復が設定されていた。

歴史

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小松線の前身となる白山電気鉄道(免許時白山鉄道)は、鳥越村の金名鉄道(後の北陸鉄道金名線釜清水駅に至る構想で[7]鳥越村の鈴木源平ほか67名の発起により、1926年(大正15年)3月に能美郡小松町-同郡中海間の敷設免許状が下付されたことに始まる。11月に会社を設立し、資本金65万円としたが株金の払込がすすまなかったため、不足分を借入金でまかない[注釈 1]工事をすすめ、1929年(昭和4年)5月になり小松 - 遊泉寺(後の鵜川遊泉寺)間の開業をむかえることになる。ところが開業間もない12月には、債権者の訴えにより破産宣告を受けた[8]。これは1930年(昭和5年)4月、抗告により破産宣告取消となったが、その後も経営者は度々変わり、株主総会決議無効確認の訴訟など内紛もあった[9]。負債は累積しついに半額減資し、その後175,000円の増資を行って資本金を50万円とした[10]

やがて戦時体制になり、鵜川遊泉寺近くの洞窟に海軍軍需部の施設や中島飛行機の疎開工場が建設された[11]。また北陸本線の手取川橋梁が破壊された時の迂回路として、1945年(昭和20年)5月に鵜川遊泉寺 - 加賀佐野間の免許が申請された。県当局(県警察)は私鉄統合による統制を進めていき、1942年(昭和17年)に発足した北陸鉄道により統合は具体化していった。最後に残った小松電気鉄道は、浅野川電気鉄道とともに合併には否定的であったが、北陸鉄道に石川県警察部の推薦で支配人に入った前保安課長西村朝栄が合併につとめ、反対していた社長の町谷彦作を小松署に拘留している間に、北陸鉄道への統合を完成させた[12]

戦後は通勤・通学の足として、1967年(昭和42年)には約212万6000人の利用客があった。しかし以降は並行道路の整備により利用客は急減。1983年(昭和58年)には約62万3000人まで落ちこんだ。駅の無人化などで経費を削減したが、収支は悪化するばかりで、ついに1984年(昭和59年)に小松市長に小松線廃止の申し入れを行った[1]。道路整備の遅れや、代替バスが自社のものではなく旧・尾小屋鉄道の小松バス(当時、現在の北鉄加賀バス)であることなどがネックとなり、折衝は難航したが、1986年(昭和61年)4月にバス代行同意にいたり、同年5月31日限りで廃止となった[2][13][7]

利用状況

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輸送実績

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小松線の近年の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。

年度別輸送実績
年 度 輸送実績(乗車人員):万人/年度 輸送密度
人/1日
特 記 事 項
通勤定期 通学定期 定 期 外 合 計
1977年(昭和52年) 26.0 43.5 35.7 105.3 1,782  
1978年(昭和53年) 29.3 41.8 32.7 103.9 1,784  
1979年(昭和54年) 21.2 35.1 33.6 90.0 1,591  
1980年(昭和55年) 17.7 29.8 34.2 81.9 1,456  
1981年(昭和56年) 15.6 27.4 31.3 74.4 1,321  
1982年(昭和57年) 13.2 23.0 29.1 65.2 1,162  
1983年(昭和58年) 12.1 21.2 29.0 62.3 1,094  
1984年(昭和59年) 10.0 19.1 24.2 53.3 950  
1985年(昭和60年) 8.2 21.1 25.6 54.9 961  
1986年(昭和61年) 1.1 2.6 5.0 8.7 992 廃止

収入実績

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小松線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。

年度別収入実績
年  度 旅客運賃収入:千円/年度 運輸雑収
千円/年度
総合計
千円/年度
通勤定期 通学定期 定 期 外 手小荷物 合  計
1977年(昭和52年) 41,273 ←←←← 37,592 27 78,892 661 79,554
1978年(昭和53年) 44,042 ←←←← 41,050 32 85,125 770 85,896
1979年(昭和54年) 43,496 ←←←← 45,028 35 88,560 842 89,403
1980年(昭和55年) 37,558 ←←←← 45,510 47 83,116 1,049 84,166
1981年(昭和56年) 33,127 ←←←← 41,820 55 75,003 1,507 76,511
1982年(昭和57年) 27,846 ←←←← 38,858 64 66,768 1,108 67,876
1983年(昭和58年) 28,057 ←←←← 43,358 61 71,476 858 72,335
1984年(昭和59年) 27,207 ←←←← 39,968 78 67,253 1,219 68,471
1985年(昭和60年) 27,655 ←←←← 45,416 82 73,153 984 74,137
1986年(昭和61年) 3,908 ←←←← 9,614 0 13,522 200 13,722

白山(小松)電気鉄道時代の輸送収支実績

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年度別実績
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他損金(円) 支払利子(円)
1929 201,936 213 19,412 23,098 ▲ 3,686 40,804
1930 193,388 287 19,133 23,703 ▲ 4,570 雑損125,470 56,002
1931 180,059 500 18,161 19,425 ▲ 1,264 雑損338
1932 164,721 506 16,814 14,909 1,905 雑損1,290 33,539
1933 201,357 1,857 20,422 17,353 3,069 不用地売却差損7,190 413
1934 215,928 2,217 21,986 20,559 1,427 償却金500 120
1935 250,201 548 報告書未着
1936 122,911 12,857 11,007 1,850 償却金1,850
1937 352,562 17,847 67,520 64,927 2,593 853
1939 450,657 740
1941 573,143 770
1943 797,323 5,563
1945 1,060,273 6,206
  • 鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版

駅一覧

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駅名および所在地は廃止時点のもの。全駅石川県小松市に所在。

駅名 駅間キロ 営業キロ 接続路線
小松駅 - 0.0 国鉄北陸本線
尾小屋鉄道:尾小屋線(新小松駅)
沖駅 0.9 0.9  
打越駅 1.2 2.1  
若杉駅 0.4 2.5  
加賀八幡駅 0.7 3.2  
佐々木駅 0.7 3.9  
軽海駅 1.4 5.3  
鵜川遊泉寺駅 0.6 5.9  

車両

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モハ500形(モハ501-503)
前身の白山電気鉄道が開業に合わせて新潟鉄工所で新製した木造4輪単車。全長8m、定員40人の小型車で、当初は1-3を名乗っていたが、合併を経て1949年の一斉大改番でモハ501-503となった。1956年に503が加南線へ転属して事業用車となり、残る2両もボギー車の転入によって第一線を退き、1963年に501が、1965年に502が廃車されている。
サハ510形(サハ511)
金石線の前身である金石電気鉄道が1938年に鉄道省から払い下げを受けた木造ボギー客車3両(12-14)のうち12が1949年に転入し、同年の一斉改番でサハ511となった。1965年に廃車されている。
サハ300形(サハ301, 302)
余市臨港軌道の全長7メートルの半鋼製単車(元ガソリンカー[30]キハ101, 102)で、片側の妻面に荷台を備えている。1943年に石川総線に投入され、1949年の改番でハフ30, 31からサハ301, 302となり、翌年小松線に転属した。1963年に廃車されている。
モハ550形(モハ551)
山中線の前身である山中電軌が山中 - 大聖寺間の電化に合わせて1912年に新製したデハ2を出自とし、1929年に車体を新製、一斉改番を経て1951年に小松線へ転入したが、1956年には石川線に転属して事業用車となった。
モハ1000形(モハ1001, 1002)
1947年日本鉄道自動車製の半鋼製ボギー車で、近江鉄道クハ21形(2代)とほぼ同形。松金線で使用されていたが、1955年の廃止により翌年小松線へ転入した。1968年に金沢市内線モハ2100形の小型パンタを転用し、前面窓の両側がHゴム化されていたが、1971年にモハ3000形の転入と入れ替わりに廃車されている。
サハ570形(サハ571)
加南線の前身である温泉電軌が1922年に新製した木造ボギー車デハ15を出自とし、一斉改番でモハ841となり、1957年に小松線へ転入する際に電装を解除されていた。1965年に廃車されている。
モハ1200形(モハ1201)
能美線の前身である能美電気鉄道が1938年に木南車輌で新製した半鋼製ボギー車デボ301が一斉改番でモハ1201となり、金石線を経て1962年に小松線へ転入した。1971年の廃車までZパンタのままであった。
サハ700形(サハ701)
金石電気鉄道が1937年に日本車輛で新製したデハ11を出自とし、一斉改番でモハ611に、1960年に付随車化されサハ701となり、1963年に小松線に転入、1965年に廃車されている。
モハ1810形(モハ1814)
加南線の主力として活躍していたが、1962年の宇和野 - 新粟津間廃止によって余剰となり、金石線を経て1964年に転入した。
モハ1800形(モハ1802)
片山津線の廃止によって1965年に転入し、同線の特徴であったY字ビューゲルからZパンタを経て金沢市内線モハ2100形の小型パンタグラフに交換されていた。廃車後は能登線キハ5201と同じ飲食店で利用されていたが、1980年代に撤去されていた。
サハ1600形(サハ1601)
浅野川線の前身である浅野川電気鉄道が1927年に日本車輛で新製した半鋼製ボギー車で、カ5からデハ2を経てモハ1601となり、1956年に金石線へ移り、1964年に付随車化されて小松線へ転入した。
モハ3000形(モハ3001-3005)[3]
1949年日本鉄道自動車製で、1971年金石線から5両全車が転入し[31]、前述の在来車すべてを置き換え、路線廃止まで使用された[31]

代替バス

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廃止後は、廃止代替バスとして旧小松バス(2021年7月1日に、加賀温泉バスと合併し北鉄加賀バスに社名変更)が、小松駅と鵜川遊泉寺の先のハニベ前まで路線バスを運行しているが[31]、利用客減のため2024年4月時点では平日7往復・土休日5往復に減回されている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 未払込金32万円借入金60万円(破産宣告時)
  2. ^ 間に河田(こうだ)駅、埴田(はねだ)駅の2駅を予定していた[29]。このうち、加賀佐野 - 埴田間は1926年に能美電気鉄道(後の北陸鉄道能美線)が延伸線として申請したものと重複している(北陸鉄道能美線#年表の節も参照)。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 寺田 2008, p. 110.
  2. ^ a b c 鉄道ジャーナル』第20巻第9号、鉄道ジャーナル社、1986年8月、122頁。 
  3. ^ a b 稲見眞一 (2012年6月19日). “稲見駅長の鉄道だよ人生は!! 北陸鉄道小松線。”. 中京テレビ放送. 2021年7月14日閲覧。
  4. ^ V.設備 發電所及受電地點 42. 變電所設備(供給、鐵道、供給及鐵道兼營)」『電気事業要覧. 第25回 昭和9年3月』1934年3月、1032-1033頁。doi:10.11501/1077236https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077236/536 
  5. ^ 中川浩一「III.鉄道博物館三題 明治村でみた鉄道記念物 誤解をうけやすい京都市電」『鉄道記念物の旅 : 臨地調査の記録』クオリ、1982年5月、229頁。doi:10.11501/12067631https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12067631/117 
  6. ^ 中川浩一「博物館明治村」『鉄道ピクトリアル』No.473
  7. ^ a b 「消えた地方私鉄 晩年の日々 第3回 北陸鉄道小松線」『鉄道ジャーナル』 2017年10月号 p.152 - 155
  8. ^ 「高利の負債六十万円白山電鉄破産宣告」『北国新聞』1929年12月25日
  9. ^ 判明分のみ石徹白静磨(大野郡石徹白村)『日本全国諸会社役員録. 第37回(昭和4年)』、黒川孫四右衛門(吉田郡中藤島村)『日本全国諸会社役員録. 第39回』、清水太郎右衛門(能美郡中海村)『日本全国諸会社役員録. 第41回(昭和8年)』、中木戸佐吉(能美郡国府村)『日本全国諸会社役員録. 第43回(昭和10年』、町谷彦作『日本全国諸会社役員録. 第46回(昭和13年)』、中木戸佐吉(無効確認の訴訟中)『日本全国銀行会社録. 第47回(昭和14年)』、中木戸佐吉『日本全國銀行會社録. 第48回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 『北鉄のあゆみ』87-88頁
  11. ^ 「北陸鉄道小松線の未成線」162-163頁
  12. ^ 『石川県史 現代編2』1963年、472-473頁
  13. ^ 『北陸鉄道50年史』143-144頁
  14. ^ 年報では所有者芳谷炭坑(『日本全国諸会社役員録. 明治40年』)、免許明治40年12月16日、未開業、軌間2フィート『鉄道局年報. 明治40年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  15. ^ 鉄道統計資料昭和2年まで掲載、所有者竹内鉱業、動力蒸気『鉄道統計資料. 昭和2年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1926年3月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  17. ^ 『鉄道統計資料. 昭和元年 第3編 監督』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  18. ^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』『日本全国諸会社役員録. 第35回(昭和2)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  19. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1927年7月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  20. ^ 「鉄道免許失効」『官報』1928年2月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  21. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年5月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  22. ^ 「破産宣告」『官報』1929年12月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  23. ^ a b 15章.年表 昭和4年」『北鉄の歩み』北陸鉄道、1974年、316頁。doi:10.11501/11954762https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11954762/170 
  24. ^ 「破産宣告取消」『官報』1930年4月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  25. ^ 「鉄道起業廃止許可」『官報』1933年4月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  26. ^ 「鉄道財団競売開始決定ニ付申出方」『官報』1935年1月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  27. ^ a b 寺田 2008, p. 166.
  28. ^ 白山電気鉄道株式会社商号変更」『官報』1938年1月17日、56頁。doi:10.11501/2959797https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959797/44 
  29. ^ 今尾恵介 責任編集『地図と鉄道』(洋泉社 2017年6月)p.150 - 151
  30. ^ 『余市町地理読本』国立国会図書館デジタルコレクション
  31. ^ a b c 寺田 2008, p. 111.

参考文献

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  • 西脇恵「北陸鉄道」『鉄道ピクトリアル』通巻215, 216, 218、1968年、?。  (再録鉄道ピクトリアル編集部(編)『私鉄車両めぐり特輯』 3巻、鉄道図書刊行会、東京、1982年、208-230頁。 
  • 宮田憲誠「遊泉寺銅山専用鉄道について」『鉄道ピクトリアル』2001年5月臨時増刊号
  • 山本宏行「北陸鉄道小松線の未成線」『鉄道ジャーナル』2012年1月号。 
  • 寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年5月1日。ISBN 978-4-533-07145-4