パトリシア・タラビーニ
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基本情報 | ||||||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||||||
出身地 | 同・ラプラタ | |||||||||
生年月日 | 1968年8月6日(56歳) | |||||||||
身長 | 165cm | |||||||||
体重 | 61kg | |||||||||
利き手 | 右 | |||||||||
バックハンド | 片手打ち | |||||||||
ツアー経歴 | ||||||||||
デビュー年 | 1985年 | |||||||||
引退年 | 2006年 | |||||||||
ツアー通算 | 15勝 | |||||||||
シングルス | 0勝 | |||||||||
ダブルス | 15勝 | |||||||||
生涯通算成績 | 596勝490敗 | |||||||||
シングルス | 147勝143敗 | |||||||||
ダブルス | 449勝347敗 | |||||||||
生涯獲得賞金 | 1,541,551 アメリカ合衆国ドル | |||||||||
4大大会最高成績・シングルス | ||||||||||
全豪 | 2回戦(1991・94・95) | |||||||||
全仏 | 3回戦(1990) | |||||||||
全英 | 2回戦(1994) | |||||||||
全米 | 3回戦(1987・89) | |||||||||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||||||||
全豪 | ベスト4(1998) | |||||||||
全仏 | ベスト4(1993) | |||||||||
全英 | ベスト8(1995) | |||||||||
全米 | ベスト8(1993・95・97・2000) | |||||||||
キャリア自己最高ランキング | ||||||||||
シングルス | 29位 | |||||||||
ダブルス | 12位 | |||||||||
獲得メダル | ||||||||||
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パトリシア・タラビーニ(Patricia Tarabini, 1968年8月6日 - )は、アルゼンチン・ラプラタ出身の女子プロテニス選手。1996年の全仏オープン混合ダブルス部門で、同じアルゼンチンのハビエル・フラナと組んで優勝した選手である。2004年のアテネ五輪で、36歳にして銅メダルを獲得したことでも知られる。WTAツアーでシングルスの優勝はなかったが、ダブルスで15勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス29位、ダブルス12位。
来歴
[編集]1986年にプロ転向。タラビーニはキャリアの初期から、シングルスよりもダブルスで多くの好成績を出し始めた。彼女の4大大会シングルス成績は、全米オープンで1987年・1989年の2度、全仏オープンで1990年の3回戦進出が最高である。1992年にタラビーニはバルセロナ五輪でオリンピックに初出場を���たし、最初はシングルス・ダブルス両部門に出場した。シングルスでは2回戦で16歳のジェニファー・カプリアティに敗れたが、メルセデス・パスとのダブルスでベスト8に入る。1993年の全仏オープンで、タラビーニはサンドラ・チェッキーニ(イタリア)と組んで初めて4大大会女子ダブルスの準決勝に進出したが、第1シードのジジ・フェルナンデス&ナターシャ・ズベレワ組に 6-7, 5-7 で敗れた。キャリアの最初期は、チェッキーニが最も親しいダブルス・パートナーであった。
1995年から、タラビーニはダブルス大会のほとんどをコンチタ・マルティネスと組んで出場するようになった。この年を最後に、彼女は女子テニスツアー大会のシングルス転戦を断念し、1995年全仏オープンの1回戦敗退を最後の4大大会シングルス出場にした。この年はウィンブルドンと全米オープンで2大会連続の女子ダブルス8強進出がある。翌1996年の全仏オープンで、パトリシア・タラビーニは同じアルゼンチンのハビエル・フラナと混合ダブルスのペアを組んで初優勝を飾った。タラビーニとフラナは、決勝でアメリカペアのルーク・ジェンセン&ニコル・アレント組を 6-2, 6-2 で破って栄冠を獲得した。この後、タラビーニは1996年アトランタ五輪で2度目のオリンピックに出場し、ガブリエラ・サバティーニと組んだ女子ダブルスのみに出場したが、1回戦でベルギーペアに敗退した。
1998年の全豪オープンで、タラビーニは1993年全仏オープン以来2度目の4大大会女子ダブルス準決勝に進出する。タラビーニとコンチタ・マルティネスは、準々決勝でエレーナ・リホフツェワ&杉山愛組を破った後、続く準決勝で第1シードのリンゼイ・ダベンポート&ナターシャ・ズベレワ組に 3-6, 1-6 で敗れた。タラビーニの2度の4大大会女子ダブルス準決勝は、どちらもズベレワが決勝への道を阻んだことになる。1998年9月のトーナメントを最後に、タラビーニはシングルス戦から完全に撤退し、1999年以後はダブルスのみに活動を絞るようになった。
ダブルスに専念し始めた1999年は、日本の「トヨタ・プリンセス・カップ」でマルチネスとペアを組んだ優勝があり、タラビーニはマルチネスのコーチも務めるようになった。日本での優勝から5年後、パトリシア・タラビーニは2004年アテネ五輪の舞台で、アルゼンチン代表選手として女子ダブルスの銅メダルを獲得した。タラビーニとパオラ・スアレスのペアは、準決勝で中国代表の李婷&孫甜甜組に 2-6, 6-2, 7-9 で敗れた後、準決勝敗退の2組による「銅メダル決定戦」で日本の杉山愛&浅越しのぶ組に 6-3, 6-3 で勝ち、アルゼンチンのペアが銅メダルの表彰台に立った。タラビーニは1992年・1996年に続く3度目のオリンピック出場で、36歳という年齢で五輪の表彰台を実現させた。オリンピックの晴れ舞台に立った2004年は、4大大会でも全仏オープンとウィンブルドンで女子ダブルスのベスト16に進出している。
パトリシア・タラビーニは2006年8月6日、38歳の誕生日に現役を引退した。
外部リンク
[編集]- パトリシア・タラビーニ - WTAツアーのプロフィール
- パトリシア・タラビーニ - ビリー・ジーン・キング・カップのプロフィール
- パトリシア・タラビーニ - 国際テニス連盟
- パトリシア・タラビーニ - Olympedia