在原行平

日本の公卿・歌人

在原 行平(ありわら の ゆきひら)は、平安時代初期から前期にかけての公卿歌人平城天皇の第一皇子である弾正尹阿保親王の次男[1](または三男)。官位正三位中納言在中納言在民部卿とも呼ばれた。小倉百人一首では中納言行平

 
在原 行平
在原行平像
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 弘仁9年(818年
死没 寛平5年7月19日893年9月6日
別名 在中納言、在民部卿
官位 正三位中納言
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇清和天皇陽成天皇光孝天皇
氏族 在原朝臣
父母 父:阿保親王
兄弟 兼見王、仲平、行平守平業平
行慶、源弘室、女子
遠瞻友于、基平、文子
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経歴

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天長3年(826年)父・阿保親王の奏請により兄弟と共に在原朝臣姓を賜与され、臣籍降下する。

承和9年(843年)に承和の変後急死した阿保親王の子息のうち、比較的順調な昇進ぶりを示し、特に民政に才を発揮した。承和7年(840年仁明天皇蔵人に任じられ、翌承和8年(841年従五位下侍従に叙任される。承和13年(846年)従五位上・右近衛少将に叙任されると、以降は主に武官と地方官を務める。

文徳朝斉衡2年(855年)正月の除目従四位下に叙せられると同時に因幡守に任ぜられ地方官に転じる。『小倉百人一首』に採られた和歌は、このときの任国への下向に際してのもの��ある。地方赴任2年余りで、斉衡4年(857年兵部大輔として京官に復し帰京する。なお、『古今和歌集』によれば、理由は明らかでないが文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴である須磨琴を製作したと伝えられている。なお、謡曲の『松風』は百人一首の行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている。

清和朝では左京大夫大蔵大輔左兵衛督を務めながら、貞観4年(862年)従四位上、貞観8年(866年正四位下と昇進し、貞観12年(870年参議に補任され公卿に列す。貞観14年(872年)には蔵人頭を兼ねるが、参議が蔵人頭を兼帯した例は非常に珍しい。貞観15年(873年従三位大宰権帥に叙任される。貞観18年(876年)大宰権帥として、九州の統治に関する2つの事項の起請を提出し、許されている[2]

  • 対馬島の年粮について、九州地方の六ヶ国(筑前筑後肥前肥後豊前豊後)から運搬する負荷が非常に大きいため、壱伎島水田100町を営んでこれに充てること。
  • 肥前国松浦郡の庇羅・値嘉の両郷について、郷長の権力が弱まっていることや、外交上重要な島であることから、庇羅郷を上近郡、値嘉郷を下近郡として郡に昇格して郡領を置くとともに、値嘉島として肥前国から分立させ島司を置くこと。

元慶5年(881年在原氏の学問所として大学別曹奨学院を創設した。これは朱雀大路東・三条大路の北一町を占め、住居を与えて大学寮を目指す子弟を教育したもので、当時は藤原氏勧学院と並んで著名であった。なお、行平の死後、醍醐天皇のときに奨学院は大学寮の南曹とされた。元慶6年(882年)���三位・中納言に至るが、仁和3年(887年)70歳の時、中納言兼民部卿陸奥出羽按察使を致仕して引退した。

宇多朝寛平5年(893年)7月19日薨去。享年76。最終官位は前中納言正三位。

和歌

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中納言行平(百人一首より)
 
在原行平(菊池容斎『前賢故実』)

勅撰歌人として『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に合計11首入集[3]。また、民部卿行平歌合(在民部卿家歌合)を880年代中頃に主催したが、これは現存する最古の歌合である。

立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む — 『百人一首』第16番

[現代語訳:これでお別れです。でも因幡の国の山に生える松のように「ここでずっと待っているよ」とあなたが言うならばすぐにでも帰って来ましょう。]

この歌は現代において、いなくなった飼猫の帰還を願う猫返しのまじないとしても、伝えられ親しまれている[4][5]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 66頁。
  2. ^ 『日本三代実録』貞観18年3月9日条
  3. ^ 『勅撰作者部類』。内訳は『古今和歌集』4首、『後撰和歌集』4首、『新古今和歌集』1首、『続古今和歌集』1首、『玉葉和歌集』1首
  4. ^ 福田晃、真鍋昌弘、常光徹『口頭伝承<トナエ・ウタ・コトワザ>の世界 』三弥井書店〈講座日本の伝承文学 第9巻〉、2003年、p83。
  5. ^ 『ペット用語事典犬・猫編』ワンダーブック、2005年改訂版、p303。
  6. ^ a b c d e f g h i 『公卿補任』
  7. ^ 桓武天皇皇女伊都内親王(業平の母)説もあるが、阿保親王は行平の生年時にはまだ帰京していないため、史実ではない。
  8. ^ 『日本三代実録』仁和3年6月29日
  9. ^ 「在原氏系図」『続群書類従』巻第174所収
  10. ^ 『日本三代実録』貞観18年3月13日条

関連項目

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参考文献

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