松風・村雨
平安時代、須磨に暮らしていたという伝承上の姉妹
来歴
編集地元である須磨で語られる伝説によれば、姉妹は多井畑の村長の娘たちで、本来の名は「もしほ」と「こふじ」であった。須磨に汐汲みに出たところ、天皇の勘気を蒙り須磨に流されていた在原行平と出会い、「松風」「村雨」と名づけられて愛された。のちに行平は赦されて都に帰る際、松の木に形見の烏帽子と狩衣を掛けて残した。また『古今和歌集』にある「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む」(巻第八・離別 在原行平)の歌も、この離別の際に詠んだものとされる。松風・村雨姉妹は尼となって行平の旧居に庵を結び、彼を偲んだという[1][2]。
須磨に配流された行平が海女と歌を交わす短い説話は『撰集抄』(13世紀中葉成立)に現れるが、海女の名は記されておらず、姉妹でもない。行平が心通わせる相手を、無名の海女に代えて松風・村雨とした謡曲『松風』(室町時代成立)は、『撰集抄』に加え、平安時代に成立して散逸した物語『あま人』や、『源氏物語』の影響を受けて成立したと考えられる。
謡曲『松風』以後、松風・村雨の悲恋の物語は広く知られることとなり、浄瑠璃や歌舞伎、近代には映画などにも取り入れられた。須磨には衣掛松や松風村雨堂など、彼女たちの伝承に基づく遺跡がいくつかあり、須磨区内には村雨町・松風町・行平町・衣掛町と名付けられた地名もある。
派生作品
編集脚注
編集出典
編集参考文献
編集- 神戸女子大学史学研究室編 『須磨の歴史』 神戸女子大学、1990年
- 辛島正雄 「『撰集抄』所載行平説話の成立をめぐる覚書」 『文學研究』 九州大学大学院人文科学研究院、2001年3月[1]