石原 量(いしはら りょう(ひとし)、1849年7月20日(嘉永2年6月11日) - 1904年(明治37年)11月21日)は、日本の牧師である。 ・しんの長男として武蔵国に生まれる。生後まもなく、父永田右仲が三河国西端藩の本多家の家臣になったため、三河に移る。1866年(慶応2年)9月にの養子になり、石原姓になる。 1869年(明治2年)10月西端藩民事幹事、1871年(明治4年)4月にになったが、同年11年に退職して母と共に東京府本郷に移る。 1875年(明治8年)新栄教会でデイヴィッド・タムソン宣教師より洗礼を受ける。宣教師より、ギリシア語、ラテン語、英語、数学などを学ぶ。しばらく神学校にも在籍した。 1878年(明治11年)9月本郷教会の創立に係り、青山昇三郎、吉岡弘毅と共に長老に就任する。1879年(明治12年)9月青木ちせと結婚する。長男純と次男謙が生まれる。 1883年(明治17年)5月教職試験を受けて日本基督教会牧師になり、1883年(明治17年)6月9日按手礼を受けて本郷教会牧師に就任する。1889年(明治22年)妻ちせを亡くす。一時三河に帰るが、1890年母親を亡くする。

Property Value
dbo:abstract
  • 石原 量(いしはら りょう(ひとし)、1849年7月20日(嘉永2年6月11日) - 1904年(明治37年)11月21日)は、日本の牧師である。 ・しんの長男として武蔵国に生まれる。生後まもなく、父永田右仲が三河国西端藩の本多家の家臣になったため、三河に移る。1866年(慶応2年)9月にの養子になり、石原姓になる。 1869年(明治2年)10月西端藩民事幹事、1871年(明治4年)4月にになったが、同年11年に退職して母と共に東京府本郷に移る。 1875年(明治8年)新栄教会でデイヴィッド・タムソン宣教師より洗礼を受ける。宣教師より、ギリシア語、ラテン語、英語、数学などを学ぶ。しばらく神学校にも在籍した。 1878年(明治11年)9月本郷教会の創立に係り、青山昇三郎、吉岡弘毅と共に長老に就任する。1879年(明治12年)9月青木ちせと結婚する。長男純と次男謙が生まれる。 1883年(明治17年)5月教職試験を受けて日本基督教会牧師になり、1883年(明治17年)6月9日按手礼を受けて本郷教会牧師に就任する。1889年(明治22年)妻ちせを亡くす。一時三河に帰るが、1890年母親を亡くする。 1890年(明治23年)東京第二中会の議長に就任、翌1891年(明治24年)に中会書記になる。1894年(明治27年)に信条改正をめぐって植村正久と争った。その結果、同年7月に日本基督教会より除名処分を受けた。 (ja)
  • 石原 量(いしはら りょう(ひとし)、1849年7月20日(嘉永2年6月11日) - 1904年(明治37年)11月21日)は、日本の牧師である。 ・しんの長男として武蔵国に生まれる。生後まもなく、父永田右仲が三河国西端藩の本多家の家臣になったため、三河に移る。1866年(慶応2年)9月にの養子になり、石原姓になる。 1869年(明治2年)10月西端藩民事幹事、1871年(明治4年)4月にになったが、同年11年に退職して母と共に東京府本郷に移る。 1875年(明治8年)新栄教会でデイヴィッド・タムソン宣教師より洗礼を受ける。宣教師より、ギリシア語、ラテン語、英語、数学などを学ぶ。しばらく神学校にも在籍した。 1878年(明治11年)9月本郷教会の創立に係り、青山昇三郎、吉岡弘毅と共に長老に就任する。1879年(明治12年)9月青木ちせと結婚する。長男純と次男謙が生まれる。 1883年(明治17年)5月教職試験を受けて日本基督教会牧師になり、1883年(明治17年)6月9日按手礼を受けて本郷教会牧師に就任する。1889年(明治22年)妻ちせを亡くす。一時三河に帰るが、1890年母親を亡くする。 1890年(明治23年)東京第二中会の議長に就任、翌1891年(明治24年)に中会書記になる。1894年(明治27年)に信条改正をめぐって植村正久と争った。その結果、同年7月に日本基督教会より除名処分を受��た。 (ja)
dbo:wikiPageID
  • 2855390 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1122 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 69956181 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
dct:subject
rdfs:comment
  • 石原 量(いしはら りょう(ひとし)、1849年7月20日(嘉永2年6月11日) - 1904年(明治37年)11月21日)は、日本の牧師である。 ・しんの長男として武蔵国に生まれる。生後まもなく、父永田右仲が三河国西端藩の本多家の家臣になったため、三河に移る。1866年(慶応2年)9月にの養子になり、石原姓になる。 1869年(明治2年)10月西端藩民事幹事、1871年(明治4年)4月にになったが、同年11年に退職して母と共に東京府本郷に移る。 1875年(明治8年)新栄教会でデイヴィッド・タムソン宣教師より洗礼を受ける。宣教師より、ギリシア語、ラテン語、英語、数学などを学ぶ。しばらく神学校にも在籍した。 1878年(明治11年)9月本郷教会の創立に係り、青山昇三郎、吉岡弘毅と共に長老に就任する。1879年(明治12年)9月青木ちせと結婚する。長男純と次男謙が生まれる。 1883年(明治17年)5月教職試験を受けて日本基督教会牧師になり、1883年(明治17年)6月9日按手礼を受けて本郷教会牧師に就任する。1889年(明治22年)妻ちせを亡くす。一時三河に帰るが、1890年母親を亡くする。 (ja)
  • 石原 量(いしはら りょう(ひとし)、1849年7月20日(嘉永2年6月11日) - 1904年(明治37年)11月21日)は、日本の牧師である。 ・しんの長男として武蔵国に生まれる。生後まもなく、父永田右仲が三河国西端藩の本多家の家臣になったため、三河に移る。1866年(慶応2年)9月にの養子になり、石原姓になる。 1869年(明治2年)10月西端藩民事幹事、1871年(明治4年)4月にになったが、同年11年に退職して母と共に東京府本郷に移る。 1875年(明治8年)新栄教会でデイヴィッド・タムソン宣教師より洗礼を受ける。宣教師より、ギリシア語、ラテン語、英語、数学などを学ぶ。しばらく神学校にも在籍した。 1878年(明治11年)9月本郷教会の創立に係り、青山昇三郎、吉岡弘毅と共に長老に就任する。1879年(明治12年)9月青木ちせと結婚する。長男純と次男謙が生まれる。 1883年(明治17年)5月教職試験を受けて日本基督教会牧師になり、1883年(明治17年)6月9日按手礼を受けて本郷教会牧師に就任する。1889年(明治22年)妻ちせを亡くす。一時三河に帰るが、1890年母親を亡くする。 (ja)
rdfs:label
  • 石原量 (ja)
  • 石原量 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of