壱岐丸(いきまる)は、山陽鉄道傍系の山陽汽船により、下関 - 釜山間の関釜航路開設のため三菱合資会社三菱造船所で建造された2隻の同型の海峡渡船の第1船で、1905年(明治38年)9月11日の本船就航をもって同航路は開設された。 1922年(大正11年)11月からは青函航路へ転じ、1923年(大正12年)5月1日にはその運航の合間、稚内と樺太大泊を結ぶ稚泊航路の開設船として約1ヵ月運航され、翌1924年(大正13年)7月から正式に稚泊航路へ転属した。1932年(昭和7年)大阪商船に売却され、一時琉球航路で運航された後、北日本汽船に移籍し樺太丸と改称のうえ、1937年(昭和12年)4月から稚内と樺太西海岸の本斗を結ぶ稚斗航路に就航した。 1945年(昭和20年)7月からの2年間は壊滅状態となった青函航路で傭船として運航され、1948年(昭和23年)6月から青森 - 室蘭間定期航路で運航された後、1951年(昭和26年)室蘭で解体された。 本船で使用されていた号鐘は1967年(昭和42年)、鉄道記念物に指定され、現在鉄道博物館ヒストリーゾーンに展示されている。

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  • 壱岐丸(いきまる)は、山陽鉄道傍系の山陽汽船により、下関 - 釜山間の関釜航路開設のため三菱合資会社三菱造船所で建造された2隻の同型の海峡渡船の第1船で、1905年(明治38年)9月11日の本船就航をもって同航路は開設された。 1922年(大正11年)11月からは青函航路へ転じ、1923年(大正12年)5月1日にはその運航の合間、稚内と樺太大泊を結ぶ稚泊航路の開設船として約1ヵ月運航され、翌1924年(大正13年)7月から正式に稚泊航路へ転属した。1932年(昭和7年)大阪商船に売却され、一時琉球航路で運航された後、北日本汽船に移籍し樺太丸と改称のうえ、1937年(昭和12年)4月から稚内と樺太西海岸の本斗を結ぶ稚斗航路に就航した。 1945年(昭和20年)7月からの2年間は壊滅状態となった青函航路で傭船として運航され、1948年(昭和23年)6月から青森 - 室蘭間定期航路で運航された後、1951年(昭和26年)室蘭で解体された。 本船で使用されていた号鐘は1967年(昭和42年)、鉄道記念物に指定され、現在鉄道博物館ヒストリーゾーンに展示されている。 (ja)
  • 壱岐丸(いきまる)は、山陽鉄道傍系の山陽汽船により、下関 - 釜山間の関釜航路開設のため三菱合資会社三菱造船所で建造された2隻の同型の海峡渡船の第1船で、1905年(明治38年)9月11日の本船就航をもって同航路は開設された。 1922年(大正11年)11月からは青函航路へ転じ、1923年(大正12年)5月1日にはその運航の合間、稚内と樺太大泊を結ぶ稚泊航路の開設船として約1ヵ月運航され、翌1924年(大正13年)7月から正式に稚泊航路へ転属した。1932年(昭和7年)大阪商船に売却され、一時琉球航路で運航された後、北日本汽船に移籍し樺太丸と改称のうえ、1937年(昭和12年)4月から稚内と樺太西海岸の本斗を結ぶ稚斗航路に就航した。 1945年(昭和20年)7月からの2年間は壊滅状態となった青函航路で傭船として運航され、1948年(昭和23年)6月から青森 - 室蘭間定期航路で運航された後、1951年(昭和26年)室蘭で解体された。 本船で使用されていた号鐘は1967年(昭和42年)、鉄道記念物に指定され、現在鉄道博物館ヒストリーゾーンに展示されている。 (ja)
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  • 壱岐丸(いきまる)は、山陽鉄道傍系の山陽汽船により、下関 - 釜山間の関釜航路開設のため三菱合資会社三菱造船所で建造された2隻の同型の海峡渡船の第1船で、1905年(明治38年)9月11日の本船就航をもって同航路は開設された。 1922年(大正11年)11月からは青函航路へ転じ、1923年(大正12年)5月1日にはその運航の合間、稚内と樺太大泊を結ぶ稚泊航路の開設船として約1ヵ月運航され、翌1924年(大正13年)7月から正式に稚泊航路へ転属した。1932年(昭和7年)大阪商船に売却され、一時琉球航路で運航された後、北日本汽船に移籍し樺太丸と改称のうえ、1937年(昭和12年)4月から稚内と樺太西海岸の本斗を結ぶ稚斗航路に就航した。 1945年(昭和20年)7月からの2年間は壊滅状態となった青函航路で傭船として運航され、1948年(昭和23年)6月から青森 - 室蘭間定期航路で運航された後、1951年(昭和26年)室蘭で解体された。 本船で使用されていた号鐘は1967年(昭和42年)、鉄道記念物に指定され、現在鉄道博物館ヒストリーゾーンに展示されている。 (ja)
  • 壱岐丸(いきまる)は、山陽鉄道傍系の山陽汽船により、下関 - 釜山間の関釜航路開設のため三菱合資会社三菱造船所で建造された2隻の同型の海峡渡船の第1船で、1905年(明治38年)9月11日の本船就航をもって同航路は開設された。 1922年(大正11年)11月からは青函航路へ転じ、1923年(大正12年)5月1日にはその運航の合間、稚内と樺太大泊を結ぶ稚泊航路の開設船として約1ヵ月運航され、翌1924年(大正13年)7月から正式に稚泊航路へ転属した。1932年(昭和7年)大阪商船に売却され、一時琉球航路で運航された後、北日本汽船に移籍し樺太丸と改称のうえ、1937年(昭和12年)4月から稚内と樺太西海岸の本斗を結ぶ稚斗航路に就航した。 1945年(昭和20年)7月からの2年間は壊滅状態となった青函航路で傭船として運航され、1948年(昭和23年)6月から青森 - 室蘭間定期航路で運航された後、1951年(昭和26年)室蘭で解体された。 本船で使用されていた号鐘は1967年(昭和42年)、鉄道記念物に指定され、現在鉄道博物館ヒストリーゾーンに展示されている。 (ja)
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  • 壱岐丸 (ja)
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