コンテンツにスキップ

Wikipedia:コメント依頼/kinoriとopen-box

利用者:Kinori利用者:open-boxの議論のやり方について、コメント依頼を求めます。ノート:木綿 (糸)での議論で、open-boxさんは私(Kinori)の発言(「隙をついて裏をかくような読み方」)が自身に対する侮辱であり、ひいては衆を頼み悪口雑言を並べ立てて議論を破綻させることを容易にする、と述べました。また、要約欄で対話拒否を確認され、そうするつもりなのかと尋ねられました。しかし私のほうでは、間違ったことを言ったとは思っていないし、対話拒否を匂わせたつもりもないのです。

しかし私の方では、open-boxさんの議論は、実際に「方針の隙をついて裏をかくような読み方」であり、通常ありうる解釈のずれを逸脱していると思っています。そういう解釈が通るなら、方針や合意が容易に無意味化させられるだろうというのが自分の考えです。しかし、open-boxさんはこのような見方を否定するでしょうし、さらなる侮辱だとお考えになるかもしれません。

私は現在管理者をしておりますし、open-boxさんはベテランのユーザーで改名議論に多く関わっています。Kinoriが侮辱に対話拒否を重ねる人だとしても、open-boxさんが方針の裏をかこうとする人だとしても、それぞれが自分の流儀を正しいと考える限り、問題は一記事の意見対立にとどまらない可能性があります。それゆえ、木綿 (糸)の改名に関する議論はノート:木綿 (糸)にゆだねた上で、両人の議論の方法に問題がないか、第三者のコメントをお願いしたいと思います。

私から特にコメントをお願いしたいのは以下の三点です。他に問題がありましたら、もちろんそれも指摘していただきたいと思います。ご面倒ではありましょうが、コメントをお願いします。--Kinori 2009年5月19日 (火) 02:38 (UTC)[返信]

  1. Kinoriの発言は侮辱にあたるか
  2. Kinoriの発言に対話拒否と受け止められても仕方がないところがあったか
  3. open-boxの方針解釈に、よくある解釈のずれにとどまらない問題があるか

関連の議論

[編集]

Kinoriの主張

[編集]

Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかには「ウィキペディアは辞書ではない」、Wikipedia:曖昧さ回避には「曖昧さ回避ページを辞書にしない」などとありますが、確かに「発音基準の曖昧さ回避を作らない」「ひらがな項目も辞書ではない」とは書いていません。しかしそれを根拠にひらがな項目は適用外だとするopen-boxさんの論法は、白馬非馬論(公孫竜)という詭弁の一種だと思います。この論法を使えば、何か方針に反することを進める際に、少しずらした別表現を持ち出すことで、「○○は禁止かもしれないが××の○○は明文で禁止されていない。だからこれについては未決定なのだ」という状態に巻き戻せます。明文の禁止がたやすく「範囲外・無効」とされてしまうなら、方針文書が何かを決めることはできなくなるのではないか、とさえ危惧します。

「ひらがな項目は適用外」という解釈は、方針文書を素直に読んだときには出てきません。どうにかして反対に解しようと知恵を絞ったときに初めて思いつくものです。その論法には、通常の許容限度を越えた問題がある、と考えます。「方針の隙をついて裏をかくような読み方」とは確かに厳しい言い方ではありますが、では他にどういう表現をとればいいのか、というのが正直な感想です。

厳しい表現を含めざるをえなかったものの、自分としては、open-boxさんに対して悪口雑言を並べ立てるようなことはすまいと工夫したつもりです。open-boxさんが反発するのは、彼が私の意見をほぼ全否定している以上、しかたがありませんが、侮辱はないだろう、とも思います。そして、他のウィキペディアンにもKinoriは侮辱的言辞を弄する人と思われてしまうなら、つらいところです。対話拒否については、私の方にそんなつもりはないし、どうしてそのように受け取られたかもわかりません。

念のため付け加えますと、「ひらがな項目を辞書にしたい」という意見を表明することに問題があるとは思いません。そういう考えも一応ありだと思います。でもそれは、既存の方針を不自然な解釈で骨抜きにするのではなく、正面から現行方針を変えるものとして提案・実行すべきだと思います。改正が承認されず、提案さえなされていない現状では、「辞書にはしない」を自然な意味で解すべきです。

open-boxさんが、記事のノートで現行方針の不備をつきながら自ら提案を起こさない理由はなんとなくわかります。方針を変えるのはものすごく大変だからです。かといって、白馬も馬のうちであるということを方針に盛り込む提案を私から起こせばいいというものでもありません。白馬も馬だとはっきり書いていないのが悪かったとすれば、改正してもその後に、斑馬も馬だと書いていないのが悪いと言い出す人が出てきます。普通に作るのも大変だとわかっているのに、そんな理屈まで考慮して書けとは言いたくありません。同じく他の方々の意見を請うのであれば、そんな論法を使っていいのか、を確認する議論を起こしたいと思います。--Kinori 2009年5月19日 (火) 02:38 (UTC)[返信]

open-boxのコメント

[編集]

Kinoriさんとの対話で最も気になったのは、相手の意見を「こうである」と解釈すると、そこからなかなか動いていただけないところでした。意図を説明しても振り出しに戻されるようなもどかしさがあったのですが、私の書き方が迂遠で伝わりにくかったのかもしれません。

しかし、そんなことはままあることですし、これだけなら気長に対処するつもりでした(いいかげんずれがひどくなった事と、対話継続が危ぶまれたので、コメント依頼しましたが)。

ただ、方針やガイドラインは、あくまでWikipediaに資するべき物であること、決まっていないことや解釈のぶれがあることを個別記事で「こうである」と決めつけて適用すべきではない、まして全体に波及するかの様な議論は行うべきではないことを指摘したことを、「隙をついて裏をかくような読み方」などとされては、さすがに侮辱ではないと見なすのは無理があると考えました。しかし、意図せずに侮辱的な表現を使用した可能性があることを考慮して、侮辱的な表現を使うことの危険性を説明したのですが、それをまたKinoriさんを『そういうこと』をやる人であると指摘したかのように、こちらに持ってこられるのでは、意図が伝わらないもどかしさは感じます。

対話拒否と受け止められる危険性ですが、私は侮辱と相手の意見の決めつけが両方出た時点で、対話拒否と相手の疲弊を狙っている可能性を疑います。ただ、意図せずにやってる人もいるので、できるだけ確認は取るようにしているつもりです。

方針文書を素直に読めば、「曖昧さ回避��のページに誘導するための定義を書くこと」は、曖昧さ回避に求められる物であってそれがあるからと言って辞書的とするのは当たりません。誘導のための説明を廃して単語の羅列だけにすることで、誰の役に立つのでしょうか? 曖昧さ回避記事は、曖昧さ回避先がわかっている人のためだけに作る物ではないと思います。
「ひらがな」が曖昧さ回避記事であれば、「音」としての側面は無視すべきではないのですし、「文字」としての側面から構成される曖昧さ回避よりも広範な記事が対象となるのは、自然なことでしょう。ひらがなの曖昧さ回避は要らないという意見もありますし、あっても良いとする意見もあるでしょう。私は、「ひらがなが空いてる→なら、そこ使おう」という発想がなされない限り無理に作らなくても良いという考えと、利用者が使う事を想定するなら、索引としての機能も考えてあっても良いだろうという考えの双方がありますので、作成寄りではありますね。

だからこそ、曖昧さ回避が本質的に辞書的な機能を有することについての議論がなされていない点の指摘や、同音語の扱いに定めが無く、個別項目で勝手にそれを決めるべきではないだろうという指摘すら、「ひらがな項目を辞書にしたい」という意見と読み取られている事は、特定項目による占拠を回避する緊急避難とか、ウィクショナリーを経由してウィキペディアに戻ってくるような無意味な手間の存在の指摘とか、同音語の振り分けといった視点は見ていただけてないのかな? と悲しくなりました。

いずれにせよ、特定の記事を改名するために、曖昧さ回避の解釈や、含む記事の範囲を決めるというのは問題があると思います。

これらが方針のぶれを逸脱しているとは私は考えませんが、他の方はそのように考えられるのかもしれません。

「方針を変えるのはものすごく大変だから」というよりも、議論重ねて変更してもいつの間にか元に戻っていたり、議論が終了して適用してから振り出しに戻そうとする人がいるのが何回かありましたので、Wikipediaの議論ってその程度かぁという思いをして、徒労感が大きいですね。これでも余裕があるときは提案してみてはいるのですが。  

  • ここで応酬すべきではないと思うのですが、非常に気になるのでこれだけ。白馬の例えは、当否以前にそれ使ったら相手を詭弁家と決めつけ対話する気がないと表明するようなもので、決定的な対立を招きますよ? 細かいこと気にせずに危険な表現を使ってしまっているだけではないかと思いますが、相手が我慢してくれなければ無意味に波風を立てることになりませんか? Kinoriさんが管理者だからまともな議論にはならないと、最初からあきらめて嫌々スルーしている可能性すらあります。もう少し慎重になっていただきたいと思います。--open-box 2009年5月19日 (火) 10:07 (UTC)[返信]

第三者のコメント

[編集]
  • (コメント)何でも方針化・明文化すべきかといえばそうでないという点においてはKinori氏を支持するが、議論そのものについては双方に議論を拡散させる誤りがあり、応酬しているいるのでどちらか一方のみに問題があるとは言えない。相互に相手の主張を極付けて過熱したようですね。依頼事項の議論の仕方について両者とも問題あり。索引や曖昧さ回避の仕方に関する議論は両者の主張を各々纏めて別途議論すればいい。上記の依頼文やKinori氏の文章には時折不適切な例えがあり、コメント依頼の趣旨も判り辛くなる。白馬の例えは言いたいことはまあ分かり同意できるが、open-box氏の主張がそれに該当すると判断する材料に乏しい。Kinori氏は論点と主張を分けた方が(一応節としては分けられているようですが、内容的に分けられているように見えません)、主張への理解や議論での合意も得易いと思われる。ノートを見た感じ改名議論ではなくなっているのは明らかでコメント依頼にかけるのは妥当だと思われるが、論点をより明確にして論点毎の双方の主張を示して頂かないと、似た遣り取りの繰返しでは意味がない。johncapistrano 2009年5月19日 (火) 06:14 (UTC)[返信]
  • コメント百科事典としてのウィキペディア像の違いがあり、その像からの逸脱の度合いについての評価が異なることから、「議論の方法」、または「議論の方法に関する指摘の表現」への評価も異なっているのかなと思いました。他者のふるまいについては、それぞれが抑制的にであろうと努めてもらえればそれでよいと思います。
    論点となっているものが、既存の方針に完全に従うことが難しい、またはそれが最善ではないと思われる事例であるということについては、両者とも一致しているように見えます。私見では、二人の議論は曖昧さ回避の意味合いについて、Wikipedia:曖昧さ回避などで明文化されていないことを、それぞれが、それぞれの原則論みたいなところから自分の捉えかたが正しいと主張しているために起こっているように思います。やや遠回りに思うかもしれませんが、議論の流れからは、この項目をどうするかということとは別に、ここで顕在化した問題はどういうもので、お二人にはどういう食い違いがあり、それは「Wikipedia:記事名の付け方」「Wikipedia:曖昧さ回避」に対して、どういう変更をすれば解消できるか(議論のうえで明文化しないという選択肢もありますがという話に向かわないと、しょうがないように思います。--Ks aka 98 2009年5月19日 (火) 10:17 (UTC)[返信]
  • コメント●Kinoriの発言は侮辱にあたるか:あたらない●Kinoriの発言に対話拒否と受け止められても仕方がないところがあったか:特にない●open-boxの方針解釈に、よくある解釈のずれにとどまらない問題があるか:問題はない。議論が白熱しても冷静に対処すべき問題。現在の項目名に関して問題があるという認識は双方ともにあるため、互いの百科事典の理想像に関わらない解決方法を模索すべき課題のように感じる。--Himetv 2009年5月19日 (火) 11:16 (UTC)[返信]
  • コメント双方ともに一理あり、取り立てておかしいことは言っていないのに、お互いを悪意に取っているように見えます。Wikipedia:善意にとる。--ろう(Law soma) D C 2009年5月19日 (火) 11:39 (UTC)[返信]

コメントを受けて

[編集]

それぞれにお忙しいところ、コメントをありがとうございました。ノート:木綿 (糸)にも多くの方がご意見をお寄せくださり、あわせて感謝いたします。皆様のご忠告を受けまして、ひらがな項目の辞書化についてはいずれ方針のノート(おそらくWikipedia‐ノート:曖昧さ回避)で確認の議論を起こすことにします。依然として私は現行方針にopen-boxさんが示したような解釈を認める余地はないと考えており、その点について批判を止めた��控えたりすることはできませんが、そういう考え方を異常視することは止めましょう。とはいえ、そちらの議論も一対一になったららちがあかなくなると思いますので、気にかけてくださると大変ありがたく存じます。今回はありがとうございました。--Kinori 2009年5月26日 (火) 02:56 (UTC)[返信]

第三者の方には、参加してくれたことにたいして、御礼申し上げます。しかし、あなたがたの意見からは、Wikipediaにおける侮辱や対話拒否の認識は、現実よりも甘いとの感想を持ちました。コメント依頼の文ですら、白馬の例えを持ち出すという決定的な侮辱を繰り返しているにも関わらず、それすら見逃されるのでは、困ります。Wikipediaに限らずネット上の議論/言説は、現実と異なり、リスクが低いことにより、攻撃的なものになりやすい事で、「この程度なら」と感覚が甘くなってはいないかと、一度考えてみて下さい。
また、方針やガイドラインで扱うべき事であり、定まってもいないことを個別議論でKinoriさんの個人的解釈を決定的な解釈であるかのように開陳したことを延々と指摘し続けているにもかかわらず、その点について一切コメントがないことには、やや意外な感想を持ちました。単に「明文化されていないこと」の扱いではありません。「明文化されていないこと」の解釈を個別議論で、「当該議論に限定する」事無く作り上げようとすることが問題なのです。--open-box 2009年5月29日 (金) 02:42 (UTC)[返信]