黎世蘅
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黎世蘅 | |
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『中国文化界人物総鑑』(1940年) | |
プロフィール | |
出生: | 1896年[1][2][3] |
死去: | 1977年[2] |
出身地: | 清安徽省当塗県[1][4][5][6][7] |
職業: | 経済学者・教育者・官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 黎世蘅 |
簡体字: | 黎世蘅 |
拼音: | Lí Shìhéng |
ラテン字: | Li Shih-heng |
和名表記: | れい せいこう |
発音転記: | リー・シーホン |
黎 世蘅(れい せいこう、1896年 – 1977年)は、中華民国・中華人民共和国の経済学者・教育者・官僚。字は子鶴[1]。経済学者として活動した一方、中華民国臨時政府と南京国民政府(汪兆銘政権)において官僚をつとめたことがある。
事績
[編集]日本に留学し京都大学経済学部を卒業した。帰国後、1922年(民国11年)、国立北京大学経済系講師兼私立民国大学校長となる。1924年(民国13年)、教育部編審処編審員に任命された[8]。1928年(民国17年)、国立北平大学法学院教授となる。1930年(民国19年)から1937年(民国26年)まで北平成達初級中学校長兼中法大学院教務主任をつとめた[6]。なお、経済学者としての著書に、『論中国民数』などがある。
王克敏らが中華民国臨時政府を創立すると、黎世蘅もこれに参加した。1938年(民国27年)1月1日、黎は教育部次長(教育部総長:湯爾和)に任命されている[9]。翌1939年(民国38年)1月9日、方宗鰲と入れ替わりで議政委員会秘書長(議政委員会委員長(兼):湯爾和)に改任された[10]。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会へ改組された。黎世蘅は南京に移り、中央政治委員会教育専門委員会主任委員に起用されている[11]。後に再び北京に戻り、翌1941年(民国30年)11月1日、国立師範大学校長に就任した[12]。
日本敗戦後における黎世蘅の動向は不詳だが、漢奸として逮捕・訴追された旨の情報は見当たらない。没年についてだけは、1977年とされている。享年82。
出典
[編集]- ^ a b c 橋川編(1940)、720頁。
- ^ a b 胡(2023)。
- ^ 大陸文化研究所編(1939)、416頁及び帝国秘密探偵社編(1940)、「支那」65頁は「1897年生」、満蒙資料協会編(1940)、1850頁及び徐主編(2007)、2411頁は「光緒24年」(1898年)生まれとしている。本記事は、橋川編(1940)と胡(2023)に従う。
- ^ 大陸文化研究所編(1939)、416頁。
- ^ 帝国秘密探偵社編(1940)、「支那」65頁。
- ^ a b 満蒙資料協会(1940)、1850頁。
- ^ 徐主編(2007)、2411頁。
- ^ 政府公報においては、1925年(民国14年)2月17日任命。中華民国政府官職資料庫「姓名:黎世蘅」
- ^ 臨時政府令、民国27年1月1日(『政府公報』第1号、民国27年1月18日、臨時政府行政委員会公報処、15-16頁)。
- ^ 臨時政府令、令字第312号、民国28年1月6日(『政府公報』第52号、民国28年1月6日、臨時政府行政委員会情報処公報室、1頁)。
- ^ 満蒙資料協会編(1941)、874頁。
- ^ 「北京の国立師範大学開校」『同盟旬報』5巻31号通号158号、昭和16年11月上旬号(11月20日発行)、同盟通信社、18頁。
参考文献
[編集]- 橋川時雄編『中国文化界人物総鑑』中華法令編印館、1940年。
- 大陸文化研究所編『現代支那人名辞典』泰山房、1939年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 外地・満支・海外篇 第十三版』帝国秘密探偵社、1940年。
- 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第三版』満蒙資料協会、1940年。
- 満蒙資料協会編『満華職員録 康徳九年・民国三十一年版』満蒙資料協会、1941年。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 胡陽東「地質調査与抗戦救国―抗戦初期謝家栄在湘桂地区的地質鉱山調査」清華大学校史館(原典:『科学文化評論』2023年第5期)