陳昌
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陳 昌(ちん しょう、大同3年(537年)- 天嘉元年3月25日(560年5月5日))は、南朝陳の皇族。衡陽献王。武帝陳霸先の六男。字は敬業。
経歴
[編集]大同11年(545年)、陳霸先が南征して交州の李賁を討つと、陳昌は章要児とともに沈恪に従って故郷の長城県に帰った。大宝2年(551年)、陳霸先が侯景を討つために豫章におもむくと、陳昌は章要児や陳蒨とともに侯景の軍に捕らえられた。大宝3年(552年)、侯景の乱が平定されると、陳昌は長城国世子・呉興郡太守に任じられた。陳霸先は謝哲や蔡景歴を派遣して陳昌の呉興郡統治を補佐させ、また杜之偉を派遣して陳昌に経書を教えさせた。まもなく陳頊とともに荊州におもむき、梁の元帝に仕えて員外散騎常侍となった。承聖3年(554年)、江陵が西魏の侵攻により陥落すると、陳昌は陳頊とともに関中に連行された。
永定元年(557年)、陳が建国されると、武帝(陳霸先)はたびたび陳頊と陳昌の身柄を返還するよう北周に要請し、北周はこれを許可しながら送還しようとしなかった。永定3年(559年)、武帝が崩御すると、陳昌は帰国の途についた。当時、王琳が長江中流域を占拠していたため、陳昌は帰国できず、安陸にとどまった。天嘉元年(560年)2月、陳昌は安陸から出発して、魯山を経由して長江を渡ろうとした。文帝(陳蒨)により使持節・散騎常侍・都督湘州諸軍事・驃騎将軍・湘州牧に任じられ、衡陽郡王に封じられた。
3月、国境を越え、長江を渡る途中、中流で船が沈没して溺死した。4月、柩が建康に帰った。侍中・仮黄鉞・都督中外諸軍事・太宰・揚州牧の位を追贈された。諡は献といった。
子はなく、文帝の七男の陳伯信が跡を嗣いだ。