関水利晃
Toshiaki SEKIMIZU | |
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基本情報 | |
名前 | 関水 利晃 |
生年月日 | 1936年4月3日 |
身長 | 180 cm (5 ft 11 in) |
体重 | 89 kg (196 lb) |
国籍 | 日本 |
経歴 |
関水 利晃(せきみず としあき、1936年4月3日 - )は日本の元プロゴルファー。
来歴
[編集]1962年の中日クラウンズでは初日の第1ラウンドで中村寅吉・小野光一・陳清波(中華民国)と共に首位に立ち、第2ラウンドには磯村行雄・佐藤精一らと共にイーグルを記録したもののボギーも多い出入りの激しいゴルフで後退するが、藤井義将と並んでの7位タイで、首位と5ストローク以内に留まった[1]。
1967年にはアジアサーキット・マレーシアオープンで安田春雄、ガイ・ウォルステンホルム(イングランド)と共にイレネオ・レガスピ(フィリピン)の2位タイ[2]に入った。
1969年11月に交通事故で重傷を負うが無事に復帰し、怪我の影響で軽く打つことを覚える[3]。
1970年の日本プロでは初日67で鈴村久の2位に着け、2日目には68の通算9アンダーで首位に立つ[3]。3日目の第3ラウンドで77と崩れて後退し、佐藤・橘田光弘・河野高明・村上隆に次ぎ、杉本英世・安田・鈴村・陳健忠(中華民国)・青木功・矢部昭を抑えての6位[3]に終わった。
続く日本オープンでは橘田・青木に次ぐと同時に陳清・河野光隆・石井裕士・杉本を抑え、謝敏男(中華民国)・安田と並んでの3位タイ[4]に入った。
1971年の日本プロでは尾崎将司・杉本に次ぐと同時に島田幸作・草壁政治・田中文雄・青木・河野高・陳健を抑え、内田繁と並んでの3位タイ[5]に入った。
1971年にプロ入りした佐藤正一が弟子となり、高校時代にやっていた空手の影響から握力が強く、インパクトの瞬間に力が入ってポールを曲げていた佐藤は、関水の教えで力を抜いて打てるようになった[6]。
1972年のロレックスクラシックでは矢部・沼澤聖一と並んでの6位タイ[7]に入った。
1975年のペプシウィルソントーナメントでは初日を豊田明夫・野口英雄・草壁、ブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)、内田・吉川一雄・沼澤・村上・尾崎将・呂良煥(中華民国)・中村と並んでの4位タイ[8]でスタートし、2日目にはベン・アルダ(フィリピン)、草壁と並んでの6位タイ [9]、3日目には謝永郁(中華民国)・川田時志春・陳健と並んでの4位タイ[10]に着け、最終日には激しい追い込みをかけたグラハム・マーシュ(オーストラリア)と共に4アンダー284で2位タイ[11]となった[12]。
1975年の関東プロでは新井規矩雄・村上と並んでの6位タイ[13]に入り、1976年の長野県オープンでは杉本と並んで新井の2位タイ[14]に入った。
1977年の阿蘇ナショナルパークオープンでは初日を井上幸一・前田新作と並んでの7位タイ[15]でスタートし、2日目には金井清一と並んでの6位タイに浮上[16]。
1978年の長野県オープンでは矢部・小林富士夫・内田・新井に次ぐと同時に草壁・川田を抑え、石井裕・アルダと並んでの5位タイ[17]に入った。
1979年にはアマチュアながらハワイで最強のゴルファーと目されていたアレン・ヤマモトに参加を呼びかけられて第1回パールカントリークラブインターナショナルに出場し[18]、帰国後のフジサンケイクラシックでは3日目夜の宿舎で2日間首位から3位に転落した佐藤に「青木と尾崎を相手にしたら勝てるわけないんだから、優勝争いは二人にまかせて、お前は知らん顔でそっぽ向いてプレーしろ」と忠告し、忠実に関水の言葉通りのプレーを続けた[6]佐藤はマンデートーナメントからのツアー優勝を初めて成し遂げた[19]。関水も最終日に69をマークし、呂西鈞(中華民国)・新井と並んでの10位タイ[6]に入った。KBCオーガスタでは2日目に呂西・石井秀夫・藤木三郎と共に69をマークし、吉川・前田・井上・陳志明(中華民国)と並んでの6位タイ[20]に着けた。
1980年には初日が霧と雨のため中止となり、18ホール・ストロークプレーの1日競技として実施された[21]長野県オープンで川田・天野勝・内田に次ぐと同時に矢部・廖国智(中華民国)・金井・アルダを抑え、安田・新井と並んでの4位タイ[22]、1981年の富山県オープンでは三上法夫・杉本と並んで松井利樹の5位タイ[23] [24]に入った。
1982年のKBCオーガスタでは最終日にベストスコア66をマークし、通算5アンダーとし前日の22位タイから一気に3位まで躍進[25]。全日空札幌オープンでは初日に新井・前田新作・中村通と並んでの2位タイ[26]でスタートし、2日目には羽川豊・中嶋常幸・謝永と並んでの2位タイ[27]に着けた。
1983年のパールカントリークラブオープンでは倉本昌弘・水野和徳と並んでの4位タイ[28]、栃木オープン5位[29]に入り、1985年の関東プロ[30]を最後にレギュラーツアーから引退。
脚注
[編集]- ^ “中日クラウンズ”. hicbc.com. 2023年7月29日閲覧。
- ^ “Malaysian Open to Filipino”. The Age: p. 15. (13 March 1967)
- ^ a b c “第38回日本プロゴルフ選手権(1970年)”. www.golfing.jp. 2023年7月29日閲覧。
- ^ “第35回日本オープンゴルフ選手権(1970年)”. www.golfdendou.jp. 2023年7月29日閲覧。
- ^ “第39回日本プロゴルフ選手権(1971年)”. www.golfdendou.jp. 2023年7月29日閲覧。
- ^ a b c 毎日新聞縮刷版p381 昭和54年5月14日朝刊19面「無名の佐藤が初栄冠 AOを逆転した 月曜予選から一週間がかり フジサンケイゴルフ最終日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p398 昭和47年11月12日朝刊18面「森、マイホーム優勝 尾崎17位、パーマー19位 ロレックス・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p686 昭和50年5月23日朝刊16面「日吉トップ ペプシ・ウイルソン・ゴルフ第一日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p723 昭和50年5月24日朝刊17面「橘田、一気にトップ ペプシ・ウイルソン・ゴルフ(第二日)」
- ^ 朝日新聞縮刷版p752 昭和50年5月25日朝刊14面「橘田弟、首位を保つ ペプシ・ウイルソン・ゴルフ(第三日)」
- ^ McCormack, Mark H. (1976). The World of Professional Golf 1976. Collins. pp. 291, 482. ISBN 000211996X
- ^ 朝日新聞縮刷版p780 昭和50年5月26日朝刊18面「謝永、逆転で初優勝 ペプシ・ウイルソン・ゴルフ(最終日)」
- ^ 朝日新聞縮刷版p95 昭和50年8月4日夕刊7面「謝敏初優勝を飾る 青木・尾崎2打差で2位 関東プロ・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p545 昭和51年7月17日朝刊17面
- ^ 朝日新聞縮刷版p295 昭和52年4月9日朝刊15面「田野倉が首位に 阿蘇オープン・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p324 昭和52年4月10日朝刊16面「新井規ら三人首位に並ぶ 阿蘇オープン・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p226 昭和53年7月7日朝刊16面
- ^ “ハワイパールオープン : 大会概要 ─ 偉大なローカルトーナメント”. 2012年6月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月29日閲覧。
- ^ “ジャンボの「奇跡」、石川の劇的連覇…フジサンケイクラシック、名勝負プレーバック”. www.sankei.com. 2024年10月15日閲覧。
- ^ 朝日新聞縮刷版p819 昭和54年8月25日朝刊17面「ゼラー不振、予選落ち 郭首位、3差で小林続く KBCオーガスタ・ゴルフ第2日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p101 昭和55年7月3日朝刊17面「スポーツ短信 ☆長野県オープン中止」
- ^ 朝日新聞縮刷版p141 昭和55年7月4日朝刊17面
- ^ 毎日新聞縮刷版p396 昭和56年7月12日朝刊18面
- ^ 朝日新聞縮刷版p471 昭和56年7月12日朝刊17面
- ^ 毎日新聞縮刷版p864 昭和57年8月30日朝刊18面「陳志明が逃げ切る KBCオーガスタ・ゴルフ最終日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p646 昭和57年9月17日朝刊16面「アマの東聡、飛び出す 全日空札幌ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p695 昭和57年9月18日朝刊17面「鈴木、一気に首位 全日空札幌ゴルフ」
- ^ “ハワイパールオープン”. 2012年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月29日閲覧。
- ^ 朝日新聞縮刷版p525 昭和58年7月14日朝刊17面
- ^ “関水 利晃選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2023年7月29日閲覧。