鈴木朖
人物情報 | |
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別名 |
通称:常介 字:叔清 号:離屋 |
生誕 |
宝暦14年3月3日(1764年4月3日) 日本・尾張国春日井郡下小田井村 (現・愛知県清須市西枇杷島町東六軒) |
死没 |
天保8年6月6日(1837年7月8日(73歳没)) 日本・尾張国江川端 (現・名古屋市西区城西三丁目21番17号) |
国籍 | 日本 |
配偶者 | 横井こよ |
両親 |
父:山田重蔵 母:その |
子供 |
長男:山田豊業 次男:鈴木広業 三男:守田景孝 四男:山田磯松 |
学問 | |
時代 | 江戸時代後期 |
学派 |
古文辞学派 鈴屋学派 |
研究分野 |
儒学 国学 |
研究機関 | 離屋 |
主要な作品 |
『言語四種論』 『雅語音声考』 『活語断続譜』 |
影響を受けた人物 | 本居宣長 |
影響を与えた人物 |
本居春庭? 時枝誠記 |
鈴木 朖(すずき あきら、宝暦14年3月3日(1764年4月3日) - 天保8年6月6日(1837年7月8日))は、江戸時代後期の儒学者、国学者。幼名は恒吉。通称は常介[注 1]。字は叔清。号は離屋(はなれや)。朖は諱である。
『言語四種論』『雅語音声考』『活語断続譜』のいわゆる三部作を著し、国語学に優れた業績を残した[2]。
諱の字体
[編集]諱の文字は「朖」か「朗」かの問題がある。本人は「朖」を本字として意識していたが[注 2]、本人自ら「朗」と自署した書簡も少なからずあり[5]、本人は「朖」と「朗」を両用していた。多くの例を見ると、漢文などには「朖」を使い、和歌などには「朗」を用いる傾向があるが、絶対的とはいえない[6]。また、「朖」は正式な改まった場合(特に学者としての立場を示すような時)に使い、「朗」は啓蒙的な著述や親しい人々に対する場合などに用いる傾向もあるという[7]。これは「朗」を用いる人々に対しては使わざるを得ないため、「朖」と「朗」を使い分けていたともされる[4]。
字訓については、本人が仮名で書いた多くの資料すべてにわたって「あきら」と書いている。国学の師である本居宣長の資料の中には、少なからず「ほがら」とあるものもあるが、宣長は門人の名前などに興味本位で別の訓を施すことがあり[注 3]、字訓の根拠にはならないという[8]。
生涯
[編集]宝暦14年(1764年)3月3日、尾張国春日井郡下小田井村(旧西春日井郡西枇杷島町東六軒町[9]、現愛知県清須市西枇杷島町東六軒)に医師山田重蔵の三男として生まれた[10]。明和8年(1771年)丹羽嘉言に師事し、安永4年(1775年)大内熊耳の高弟市川鶴鳴に入門した[11]。若年より名を広め、安永7年(1778年)には15歳にして『張城人物誌』文苑部に掲載される[11]。
天明元年(1781年)4月、父重蔵の実父鈴木右衛門の家督を継いだ[12]。
天明3年(1783年)、尾張藩藩校明倫堂開校に伴い、督学細井平洲に入校を勧められたが、断った[12]。この頃『思問録』を著し、新井白石『采覧異言』を抄するなど、国学や蘭学へも興味を示した[12]。天明5年(1785年)には本居宣長の諸著作や張位『発音録』を書写、言語学にも関心を見せる[13]。寛政元年(1789年)江戸に出て、荻生徂徠の儒書や中国の韻書に触れた[14]。
寛政4年(1792年)2月、石原正明に次いで本居宣長に入門[15]。以降は日本古典の研究にも集中するようになる[16]。宣長の名古屋訪問時には講義を受け、寛政6年(1794年)4月下旬には直接松坂に赴いた[17]。
寛政7年(1795年)2月17日、山田宇源治跡目として御近習組同心となり、同心長屋(旧名古屋市中区南辰巳町10番)に寓居、以降度々1年間の江戸詰に赴いた[18]。文化元年(1804年)藩の記録所に勤務した[19]。文化2年(1805年)御台所町の鍼医勝田三雪邸(旧名古屋市西区江川町四丁目[20]、現花の木一丁目7番1号[注 4])奥の別棟に寓居し、宣長の号「鈴屋」を真似て「離屋」と号した[5]。
文政4年(1821年)尾張藩御儒者に抜擢された[21]。文政8年(1825年)平田篤胤を藩に推挙した[22]。
天保4年(1833年)、国学の流行により明倫堂でも国学が開講されると、その教授に起用された[23]。その講義は、言葉の一つ一つを解いた後に文脈を説いて原文の意義と語勢を伝えるもので、その逐語は聴く人々を恍惚とさせたという[24]。天保5年(1834年)江川端の新居(旧西区江川端町五丁目2番地[25]、現城西三丁目21番17号[注 4])に移った。
天保8年(1837年)6月6日病死[26]。藩には家督相続のため12日没として届け出た[26]。墓所は久屋町(現中区丸の内三丁目)誓願寺[27]。現在は平和公園内(誓願寺墓域)に移されている[28]。法号は通靖院離山浄達居士。
没後
[編集]生前は公には専ら儒学者として認識され、墓誌でも主著として儒学書のみ挙げられているが、死後に国学が発展するとともに、国学者としての名声が高まった。とりわけ明治以降、上田万年や保科孝一らによって『言語四種論』『雅語音声考』『活語断続譜』などの著書が評価され、やがて時枝誠記の「鈴木朖の国語学史上に於ける位置」[注 5]によって重要人物として高い評価が行われた[2][30]。しかし、肯定的評価と否定的評価のいずれも、「日本語の品詞論や文法理論の確立を目指す」という時代の偏見のもとになされている傾向がある[31]。
昭和42年(1967年)、没後130年を記念して、尾張徳川家当主徳川義親を会長に名古屋市鶴舞中央図書館、市文化財委員会、子孫鈴木俍によって「鈴木朖顕彰会」が結成され、それまでの研究が『鈴木朖 百卅年忌記念』に結集された[32]。
没後140年に当たる昭和50年(1975年)6月7日には「鈴木朖学会」が設立された。上記の顕彰会とは性格が異なるが、研究史上においては継承したものともいえる[32]。座右の銘「文莫吾猶人也」(『論語』述而編)[32][33]に由来する機関誌『文莫』の発刊のほか、未刊著作の刊行などが行われた[34]。
藩での経歴
[編集]- 寛政7年(1795年)2月17日 - 御近習組同心、6石2人扶持
- 寛政11年(1799年) - 御近習組が御手筒組に改称
- 享和2年(1802年)1月11日 - 6石1斗2人扶持
- 文化元年(1804年)8月7日 - 御記録所書役並、8石3人扶持
- 文化3年(1806年)1月11日 - 御記録所書役本役、10石3人扶持
- 文化3年(1806年)6月 - 御記録所廃止に付き罷免
- 文政元年(1818年)12月4日 - 御記録所書役
- 文政2年(1819年)閏4月5日 - 罷免
- 文政4年(1821年)6月28日 - 御儒者
- 天保4年(1833年)1月20日 - 明倫堂教授並、20石4人扶持
- 天保6年(1835年)12月19日 - 永々御徒格以上
主な著作
[編集]朖の国学者としての業績は、ほぼ国語学と国文学に限られ、とりわけ国語学に関する著述が優秀として挙げられる[5]。
国語学
[編集]- 『活語断続譜』
- 『言語四種論』
- 『雅語音声考』
以上の著述がすぐに刊行されなかったのは、文化5年(1808年)に本居春庭の『詞八衢』が世に出たという事情が関係しているとされる[41]。
国文学
[編集]- 『源氏物語玉の小櫛補遺』
- 『源氏物語少女巻抄註』
- 『雅語訳解』
漢文学
[編集]- 『大学参解』
- 『論語参解』
- 『改正読書点例』
- 『離屋読書説』
- 『徳行五類図説』
教学
[編集]- 『離屋学訓』
医学
[編集]- 『医事巵言』
- 医事に関する随筆[54]。
- 『養生要論』
- 天保5年刊。
- 『続養生要論』
- 天保11年刊。
弟子
[編集]縁戚関係
[編集]家系
[編集]鈴木家は熊野国造穂積氏を祖とする三河鈴木氏の一族であり、鈴木重善 9世孫という鈴木十郎右衛門穂積浄慶(天正17年10月7日没) が三河国二本木に土着し、その後作十郎(正保元年2月11日没)、千助(寛文5年11月12日)、市作(元禄15年11月11日没)、与市(寛保元年1月19日没)と続き、実祖父・養父の鈴木林右衛門に至るとされる[55]。鈴木林右衛門は浪人となって名古屋に移り、その次男重房は医師山田重蔵の娘そのと、山田家を継いで重蔵を名乗った[25]。二代目重蔵の四男朖は鈴木林右衛門の養子となり、いわば一代空いて鈴木家に復帰したことになる。
鈴木朖の長男豊業は山田家を継ぎ、鈴木家は次男の広業が継いだ[56]。広業には男子が出来なかったため、清洲藩勘定奉行三浦家より婿養子巌を取り、林之丞、靖、𣳾典[56]、俍(たかし)と続き、現当主は鈴木喜博[29]。
家族
[編集]- 養父・実祖父:鈴木林右衛門(元禄11年 - 安永6年11月8日)
- 父:山田重蔵(享保11年 - 天明4年5月4日) - 鈴木林右衛門次男。通称は林八、後幸八、名は重房。初代山田重蔵の婿養子となる[25]。法号は歓喜院廓無大然居士。
- 母:その(元文3年 - 文政元年9月2日) – 初代山田重蔵の娘[25]。文化5年剃髪[57]。法号は照峯院慧岸智光大姉。
- 妻:横井こよ(明和4年 - 文政10年8月28日) - 海西郡芝井新田(弥富市芝井三丁目)淨念寺恵亮の娘[56]。寛政4年結婚[17]。法号は観応院音光貞察大姉。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「常助」の表記も見られる[1]。
- ^ 安永9年(1780年)に出版された『日本翻刻康熙字典』で知ったとされる[3][4]。
- ^ 例えば七里長行の「七里」を「しちり」ではなく「ななさと」とするなど[8]。
- ^ a b 現地に名古屋市教育委員会設置板あり。
- ^ 初出は『國語と國文學』四ノ一(1927年1月)。後に『文莫』第29号(2007年6月)に「資料」として再掲。
- ^ 漢学の「実辞」「虚辞」「作用字面」「形状字面」の区別から思いついたものとされる[37]。
- ^ 例えば山田孝雄は「品詞分類として整合的でない」と否定的であるが、時枝誠記は「詞とテニヲハの区別を品詞分類上に明確化した」と肯定的である[31]。
- ^ 「文政3年刊」とする説もある[45]。
出典
[編集]- ^ 甲斐睦朗 (2020), p. 151.
- ^ a b 坪井美樹 (2016), pp. 70–71.
- ^ 石田元季 (1928), p. 5.
- ^ a b 甲斐睦朗 (2020), p. 155.
- ^ a b c 坪井美樹 (2016), p. 68.
- ^ 明治書院企画編集部 (1997), p. 58.
- ^ 岡田芳幸 (1992), p. 56.
- ^ a b 明治書院企画編集部 (1997), p. 59.
- ^ 愛知県西春日井郡 (1923), p. 527.
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 1(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ a b 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 2(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ a b c 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 3(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 4(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), pp. 5–6(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 6(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 明治書院企画編集部 (1997), p. 40(初出:尾崎知光 1984a)
- ^ a b 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 7(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 8(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), pp. 10–11(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 11(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 16(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 18(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), pp. 19–20(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 石田元季 (1928), p. 18.
- ^ a b c d e f g 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 28(岡田「新修山田家系譜」)
- ^ a b 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 21(岡田「新修鈴木朖年譜」)
- ^ 愛知県西春日井郡 (1923), p. 528.
- ^ “千種区史跡散策路”. 名古屋市千種区. 2021年3月16日閲覧。
- ^ a b 「鈴木朖の業績たどり40年」『朝日新聞』朝刊、2014年6月18日付、愛知県版
- ^ 趙菁 (2003), pp. 48–52.
- ^ a b c 坪井美樹 (2016), p. 71.
- ^ a b c 尾崎知光 (1983), p. 126.
- ^ 杉浦豊治 (1979), p. 308.
- ^ 尾崎知光 (1983), p. 127.
- ^ 坪井美樹 (2016), pp. 69–70.
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 158(市橋「朖の著述」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 159(市橋「朖の著述」)
- ^ 坪井美樹 (2016), p. 69.
- ^ a b 坪井美樹 (2016), p. 70.
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 160(市橋「朖の著述」)
- ^ 明治書院企画編集部 (1997), p. 46(初出:尾崎知光 1984b)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), pp. 162–163(市橋「朖の著述」)
- ^ 明治書院企画編集部 (1997), p. 50(初出:尾崎知光 1984c)
- ^ a b c d 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 163(市橋「朖の著述」)
- ^ 湯浅茂雄 (2017), p. 257.
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 164(市橋「朖の著述」)
- ^ 石川洋子 (2007), p. 39.
- ^ 明治書院企画編集部 (1997), p. 53(初出��尾崎知光 1984c)
- ^ 石川洋子 (2008), pp. 54–56.
- ^ 明治書院企画編集部 (1997), p. 56(初出:尾崎知光 1984c)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), pp. 164–165(市橋「朖の著述」)
- ^ 『離屋学訓』早稲田大学古典籍総合データベース
- ^ 明治書院企画編集部 (1997), pp. 53–54(初出:尾崎知光 1984c)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 169(市橋「朖の著述」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), pp. 24–25(岡田「新修鈴木家系譜」)
- ^ a b c d e f 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 26(岡田「新修鈴木家系譜」)
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 12(岡田「新修鈴木朖年譜」)
参考文献
[編集]- 図書
- 愛知県西春日井郡 編『西春日井郡誌』1923年。
- 岡田稔、市橋鐸『鈴木朖:百卅年忌記念』鈴木朖顕彰会、1967年。
- 杉浦豊治『鈴木朖:人と学問』鈴木朖学会、1979年。
- 明治書院企画編集部 編『日本語学者列伝』明治書院〈日本語学叢書〉、1997年。ISBN 4625521599。
- 論文
- 石田元季「鈴木離屋」『国語国文の研究』第28号、1928年、1-23頁。
- 服部正義「国語学史上に於ける鈴木朖」『安藤教授還暦祝賀記念論文集』三省堂、1940年、863-898頁。
- 矢野文博「鈴木朗のこと」『瑞垣』第120号、神宮司庁、1980年、51-56頁。
- 尾崎知光「鈴木朖学会」『日本語学』第2巻第10号、明治書院、1983年、126-127頁。
- 尾崎知光「鈴木朖伝(1)」『日本語学』第3巻第4号、明治書院、1984年、98-101頁。
- 尾崎知光「鈴木朖伝(2)」『日本語学』第3巻第5号、明治書院、1984年、115-118頁。
- 尾崎知光「鈴木朖伝(3)」『日本語学』第3巻第6号、明治書院、1984年、94-98頁。
- 岡田芳幸「鈴木朖の名前:朗・朖両字の使用と訓みに関する若干の考察」『文莫』第17号、鈴木朖学会、1992年、39-59頁。
- 趙菁「鈴木朖の国語学史上における評価の変遷について」『言語文化論叢』第7巻、金沢大学外国語教育研究センター、2003年、35-62頁。
- 石川洋子「鈴木朖『論語参解』の注釈態度:漢学の面から」『同朋文化』第2巻、2007年、21-40頁。
- 石川洋子「鈴木朖『論語参解』の訓読に於ける国語の語法と字訓」『同朋文化』第3巻、2008年、33-57頁。
- 坪井美樹「鈴木朖」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年、68-71頁。
- 湯浅茂雄「鈴木朖『雅語��解』の刊行年について」『實踐國文學』第91巻、2017年、256-263頁。
- 甲斐睦朗「鈴木常介の諱「朗/朖」について」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年、150-155頁。
関連文献
[編集]- 中根粛治編『慶長以来諸家著述目録:和学家之部』青山堂支店、1893年
- 関隆治編『國学者著述綜覧』森北書店、1943年
- 足立巻一『やちまた』上・下、河出書房新社、1974年
- 新装版、1990年(河出書房新社、上 ISBN 4309006531/下 ISBN 430900654X)
- 朝日学芸文庫、1995年(朝日新聞出版、上 ISBN 9784022640659/下 ISBN 9784022640666)
- 中公文庫、2015年(中央公論新社、上 ISBN 9784122060975/下 ISBN 9784122060982)
- 尾崎知光『国語学史の基礎的研究:近世の活語研究を中心として』笠間書院〈笠間叢書179〉、1983年
- 尾崎知光『国語学史の探求』新典社〈新典社研究叢書231〉、2012年。ISBN 9784787942319