醍醐冬基
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 慶安元年6月14日(1648年8月2日) |
死没 | 元禄10年7月14日(1697年8月30日) |
改名 | 一条冬基→醍醐冬基 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 霊元天皇→東山天皇 |
氏族 | 一条家、醍醐家 |
父母 | 父:一条昭良、母:西洞院時直の娘 |
兄弟 | 一条教輔、冬基 |
妻 | 藪嗣孝の娘 |
子 | 冬熙、徳大寺公全、綱姫(津軽信興正室) |
醍醐 冬基(だいご ふゆもと)は、江戸時代前期から中期の公卿。醍醐家の祖となった。
生涯
[編集]一条昭良の次男として、慶安元年(1648年)に生まれる。延宝2年(1674年)に正五位下に叙任。延宝7年(1679年)に従三位左近衛中将となり公卿に列する。同年、従弟にあたる霊元天皇から「醍醐」の家名を下賜され、一条家から分家した。醍醐家は清華家の家格が認められ、江戸幕府の将軍徳川家綱からは300石の知行地と本院(後水尾法皇)附の旗本岡部正綱の屋敷が与えられた[1]。
その後、権中納言・踏歌節会外弁・左衛門督・右兵衛督を経て、天和3年(1683年)に立太子した朝仁親王(東山天皇)の春宮権大夫となった。貞享元年(1684年)には権大納言兼務。貞享4年(1687年)、皇太子朝仁親王の即位に伴い春宮権大夫を辞する。元禄7年(1694年)には正二位へと昇る。元禄10年(1697年)に権大納言辞職。同年に薨去、享年50。
絵を良くしたとされるが、現存作品は『源氏物語画帖』(三井記念美術館蔵)など少数しか残っていない。
家族・親族
[編集]系譜
[編集]醍醐家
[編集]醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。
→詳細は「醍醐家」を参照
一条家
[編集]一条家は、九条道家の子である一条実経を始祖とし、摂家の一つであった。
→詳細は「一条家」を参照
皇室との関係
[編集]後陽成天皇の男系二世子孫(孫)である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の子。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 山口和夫「朝廷と公家社会」『近世日本政治史と朝廷』、吉川弘文館、2017年。ISBN 978-4-642-03480-7。 - 初出:歴史学研究会・日本史研究会 編『日本史講座6近世社会編』(東京大学出版会、2005年)