近藤美恵子
こんどう みえこ 近藤 美恵子 | |
---|---|
『サンケイグラフ』1955年3月13日号より | |
本名 | 近藤 美恵子 |
生年月日 | 1936年1月10日 |
没年月日 | 2020年12月15日(84歳没) |
出生地 | 名古屋市 |
出身地 | 名古屋市 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1955 - 1963 |
活動内容 | 青春映画から時代劇まで |
近藤 美恵子(こんどう みえこ、1936年1月10日 - 2020年12月15日[1])は、日本の元女優である。
1954年(昭和29年)のミス・ユニバース日本代表を務めた。
経歴
[編集]1936年1月10日、愛知県名古屋市に生まれる[2]。安達女学園師範科卒業[3]。
1954年、大阪の産経会館で開かれたミス・ユニバース日本大会に中部代表として出場し、全国11地区の代表の中からミス・ユニバース日本代表(ミス・ユニバース・ジャパン)に選ばれた[4]。
同年7月、アメリカのロングビーチで開催されたミス・ユニバース1954(第3回世界大会)に日本代表として出場した。当時は身長160センチ、体重47キロ、スリーサイズ84-52-92であった[5](ウエスト51センチとする資料[6]もある)。公表されている限りにおいて、現在に至るまで歴代のミス・ユニバース・ジャパンで最も小柄ながら、最も細いウエストの持ち主でもある。入賞は出来なかったが、ハリウッドではトニー・カーティス��パイパー・ローリーと会い、パラマウント映画やメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)からオファーがあったという[6]。
その後、大映に入社し、半年間演技の勉強をしたのち『娘の人生案内』のヒロインで銀幕デビュー。新人育成に定評ある田中重雄監督は、「新人にはちょっと大役だが、なんとかして持ち味を引っ張りだすのが監督の責務」とコメント[3]。以降、大スターだった長谷川一夫、市川雷蔵、勝新太郎らと共演して活躍。青春映画から時代劇まで主演作多数。
1956年には第9回カンヌ国際映画祭に出席。同年4月25日に出国、5月18日に帰国するまでフランスに滞在した。当時はまだ海外渡航自由化の前で、ミス・ユニバース世界大会の渡米に続いて貴重な外国訪問となった。
結婚を機に引退。その後は芸能活動を行っていない。2020年12月15日、死去[7]。
その他
[編集]「昭和29年ミス日本に選ばれたのを機に30年大映に入社」とする資料[2]もあるが、読売新聞社主催の「ミス日本」コンテストは昭和27年で終了しており、ここで言及されている「ミス日本」は「ミス・ユニバース日本代表」と解するのが妥当である。
主な映画出演
[編集]1955年
- 娘の人生案内 (デビュー作)
- 誘拐魔
- 十代の反抗
1956年
- 滝の白糸
- 東京犯罪地図
- 高校卒業前後
- 銭形平次捕物控 人肌蜘蛛
- 現金の寝ごと
- 逢いぞめ笠
- リンゴ村から
- 編笠権八
- 第三非常線
- あばれ鳶
1957年
- 駅馬車襲わる
- 銭形平次捕物控 女狐屋敷
- 残月講道館
- 夜の蝶
- 湖水物語
- 十七才の断崖
- 誓いてし
1958年
- 化け猫御用だ
- 弁天小僧
- 伊賀の水月
- 命を賭ける男
- 赤胴鈴之助 三つ目の鳥人
- 執念の蛇
- 花太郎呪文
- おーい中村君
- 怪猫呪いの壁
- 忠臣蔵
- おけさ鴉
- 遊侠五人男
- 人肌孔雀
1959年
1960年
1961年
1962年
1963年
脚注
[編集]- ^ 近藤美恵子さんが亡くなりました。
- ^ a b 『芸能人物事典 明治大正昭和』日外アソシエーツ、1988年、241頁。ISBN 9784816915130。
- ^ a b 「新人紹介 ミス・日本「近藤美惠子」初主演」『娘の人生案内』京橋出版社、1955年。(映画パンフレット)
- ^ 「ミス・ユニバース ミス・ワールド 日本大会の足跡」『週刊サンケイ』第8巻第29号、産業経済新聞社、1959年7月10日、70頁。
- ^ 相沢正夫『数字雑学事典』毎日新聞社、1977年4月5日、90-91頁。 NCID BA75766185。
- ^ a b 「近藤美恵子」『週刊サンケイ』第8巻第29号、産業経済新聞社、1959年7月10日、36頁。
- ^ mieko19360110 (2020年12月16日). “(no title)”. twitter.com. 2021年4月25日閲覧。