豪徳寺
表示
豪徳寺 | |
---|---|
本堂 | |
所在地 | 東京都世田谷区豪徳寺二丁目24番7号 |
位置 | 北緯35度38分55.6秒 東経139度38分50.7秒 / 北緯35.648778度 東経139.647417度座標: 北緯35度38分55.6秒 東経139度38分50.7秒 / 北緯35.648778度 東経139.647417度 |
山号 | 大谿山(だいけいざん)[1] |
院号 | 洞春院[1] |
宗派 | 曹洞宗[1] |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 文明12年(1480年)[1] |
開山 | 昌譽[2][1] |
開基 | 吉良政忠[2] |
中興 |
天極秀道(開山) 井伊直孝(開基)[2] |
文化財 |
彦根藩井伊家墓所(国の史跡) 井伊直弼墓(東京都指定史跡) |
公式サイト | https://gotokuji.jp/ |
法人番号 | 6010905000179 |
豪徳寺(ごうとくじ)は、東京都世田谷区豪徳寺二丁目にある曹洞宗の寺院。元は臨済宗。山号は大谿山(だいけいざん)。一説には招き猫発祥の地とされる[3]。
歴史
[編集]本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
文明12年(1480年)、世田谷城主・吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ[2]。当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584年)に曹洞宗に転じる[1]。
寛永10年(1633年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊家の���提寺として伽藍を創建し整備した[1]。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による[1]。
平成18年(2006年)に猫の彫り物が施された三重塔が新たに建立された。
文化財・施設
[編集]文化財
[編集]- 彦根藩主井伊家墓所(国の史跡)
- 仏殿(世田谷区指定有形文化財)
- 仏殿木像5躯(世田谷区指定有形文化財)
- 仏殿同様、延宝5年(1677年)、仏師・松雲元慶の作。
- 梵鐘(世田谷区指定有形文化財)
その他の施設
[編集]- 墓地
- 井伊直安の墓(井伊家墓所外)
- 櫻田殉難八士之碑(桜田門外の変にて井伊直弼を警護して殉死した彦根藩士8名の慰霊碑)
- 岡本黄石の墓
- 日下部鳴鶴の墓
- 河手主水(武節貫治)の墓(彦根藩士)
- 葦原金次郎の墓(無縁となり、墓所は改修されて現存はしない)
- 吉江喬松の墓
- 中村吉蔵の墓
- 衛藤即応の墓
- 中島健蔵の墓
- 中島泰蔵の墓
- 堀悌吉の墓
- 香取秀真の墓
- 木俣修の墓
- 大岡蔦枝(家政・料理・教育学者、小説家・大岡昇平の叔母で小説『叔母』のモデル)の墓
- 秋山邦彦(競技バイクレーサー、松竹映画『妻の勲章』で高橋貞二のスタント担当中に事故死)の墓
- 八木岡春山(日本画家、昭和10年(1935年)、高松宮妃に日本画を進講)の墓
招き猫伝説
[編集]招き猫発祥の地とする説がある。井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたという[4][5][3]。
豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く[3]。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。
交通アクセス
[編集]脚注
[編集]
注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 斎藤長秋 編「巻之三 天璣之部 豪徳寺」『江戸名所図会』 2巻、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、200-204頁。NDLJP:1174144/105。
- 「世田ヶ谷村 豪徳寺」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ48荏原郡ノ10、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763982/8。
関連項目
[編集]- 招き猫
- ひこにゃん
- タマ (猫の名前) - 日本における猫の名前の定番。豪徳寺の招き猫の名前に由来するという説がある
- 世田谷代官屋敷 - 井伊氏世田谷領代官屋敷
- 尾澤醫院
- 天寧寺 (彦根市) - 井伊直弼供養塔や、井伊直弼が駕籠の中で敷いていた駕籠敷物を所蔵