衣縫部
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衣縫部(きぬぬいべ)とは、大化の改新以前に、衣服の裁縫を仕事として大和政権に仕えた職業部(品部)。
概要
[編集]以下の伝承から、百済系、呉系、伽耶・加羅系渡来人を中心に衣縫部が編成され、大和国・伊勢国に居住していたことが判明している。
- 『日本書紀』巻第十によると、応神天皇14年、推定5世紀前後に、百済王は「真毛津」(まけつ)という名前の縫衣工女(きぬぬいのおみな)を貢上し、これが来目衣縫の祖となった[1]。
- 同37年に阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)らは呉に派遣され、高麗(高句麗)の王の導きで呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)とともに工女兄媛・弟媛らを獲得した[2]。
- 同41年には阿知使主らは筑紫に上陸し、宗像神社に兄媛を奉納した後、武庫に辿り着いたが、その地で応神天皇は崩御され、大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に残りの3名を献上した。彼女たちは、呉衣縫、蚊屋衣縫等の祖となった[3]。
- 上記と似たような話として、『日本書紀』巻第十四には、雄略天皇14年、呉(華南)から身狭村主青(むさ の すぐり あお)らが漢織(あやはとり)、呉織とともに衣縫の兄媛・弟媛らを連れ、住吉津に停泊したとある[4]、兄媛を大神神社に奉納したあと、残された弟媛が漢衣縫部とされ、漢織・呉織の衣縫は後の飛鳥衣縫部、伊勢衣縫の祖であると記されている[5]。
以上のように、衣縫部は多くは、大陸から帰化(渡来)した者の子孫であるが、『新撰姓氏録』によると、日本古来のものも存在している。「左京神別」・「和泉神別」にはニギハヤヒを祖先とする、物部氏(石上同祖)系統の衣縫造氏・無姓の衣縫氏が見られる。衣縫造氏の本拠地とみられる大阪府藤井寺市惣社には、飛鳥時代前期に創建された衣縫廃寺が存在していた。『続日本紀』巻第三によると、彼らのうち、衣縫造孔子(きぬぬい の みやつこ くじ)は大宝3年2月(703年)に「連」姓を与えられている[6]。
律令制では、大蔵省管轄下の縫部司と、中務省管轄下の縫殿寮などが設けられて、裁縫を行ったとある。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『角川第二版日本史辞典』p254、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966年
- 『岩波日本史辞典』p300、監修:永原慶二、岩波書店、1999年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
- 『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年
- 『日本書紀』(二)、(三)岩波文庫、1994年
- 『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『続日本紀』1 新日本古典文学大系12、岩波書店、1989年
- 『続日本紀』全現代語訳(上)講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年
- 『日本の歴史1 神話から歴史へ』、井上光貞:著、中央公論社、1965年