藤原資長
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 元永2年(1119年) |
死没 | 建久6年10月26日(1195年11月29日) |
改名 | 資長→如寂(法名) |
別名 | 日野資長、日野民部卿、日野入道、末代の幸人 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流(日野家) |
父母 | 父:藤原実光、母:高階重仲の娘 |
兄弟 | 日野資憲、資長、光成、光澄、覚海、忠玄、慶智 |
妻 | 源季兼の娘 |
子 | 兼光、覚玄、行命、長宗、寛長、長遍、建春門院女房 |
藤原 資長(ふじわら の すけなが)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人、漢詩人。藤原北家真夏流(日野家)、権中納言・藤原実光の次男。官位は正二位・権中納言。日野家12代当主。日野民部卿と称す。
経歴
[編集]保延元年(1135年)秀才、保延3年(1137年)には対策に及第する。
保延4年(1138年)従五位下に叙爵。久安6年(1150年)右少弁に任ぜられた後、中弁、大弁と昇進。久寿2年(1155年)後白河天皇に五位蔵人、永暦元年(1160年)二条天皇に蔵人頭として仕える。同年参議に任ぜられて公卿に列した。
永万元年(1165年)従三位・権中納言に叙任される。治承3年(1179年)辞して、正二位・民部卿に叙任される。治承5年(1181年)長年の希望であった出家をする。法名は如寂。九条兼実からは末代の幸人と評されている。
建久6年(1195年)10月26日薨去。享年77。『高野山往生伝』、『資長卿記』などがある。また、『続古今和歌集』に和歌、『拾玉集』には漢詩がある。
官歴
[編集]- 保延元年(1135年)7月30日:秀才[1]
- 保延2年(1136年)正月27日:但馬権掾
- 保延3年(1137年)2月2日:蔵人 6月26日:対策
- 保延4年(1138年)正月26日:右衛門尉 4月5日:従五位下(中宮臨時御給)
- 保延6年(1140年)4月7日:中宮権大進
- 康治3年(1144年)正月6日:従五位上(策)
- 久安4年(1148年)7月17日:正五位下(法勝寺行幸)
- 久安6年(1150年)4月28日:右少弁
- 久寿2年(1155年)8月22日:五位蔵人[2]
- 保元元年(1156年)9月17日:右中弁 閏9月14日:従四位下(策労)
- 保元2年(1157年)正月24日:阿波権介(装束使労) 4月26日:左宮城使 8月21日:左中弁 10月21日:従四位上(造宮賞次。皇嘉門院久寿元年未給)
- 保元3年(1158年)3月1日:正四位下(春日行幸行事) 8月10日:右大弁
- 永暦元年(1160年)4月3日:蔵人頭 10月3日:参議、左大弁 11月30日:勘解由長官
- 応和3年(1163年)正月24日:周防権守
- 永万元年(1165年)7月:従三位 8月17日:権中納言
- 仁安元年(1166年)9月15日:大嘗會御禊装司長官
- 仁安2年(1167年)正月28日:正三位(行幸院。院司)
- 仁安3年(1168年)9月7日:大嘗會御禊装司長官
- 承安5年(1175年)4月16日:従二位(石清水賀茂行幸行事賞)
- 治承3年(1179年)正月19日:辞、民部卿、正二位(臨時)
- 治承5年(1181年)2月25日:出家