蕭子卿
表示
蕭 子卿(しょう しけい、468年 - 494年)は、南朝斉の皇族。廬陵王。武帝蕭賾の三男。字は雲長。
経歴
[編集]蕭賾と張淑妃のあいだの子として生まれた。479年(建元元年)、臨汝県公に封じられた。482年(建元4年)、武帝が即位すると、子卿は持節・都督郢州司州之義陽諸軍事・冠軍将軍・郢州刺史となった。廬陵王に改封された。483年(永明元年)、都督荊湘益寧梁南北秦七州諸軍事・安西将軍・荊州刺史に転じた。484年(永明2年)、始興王蕭鑑が益州刺史となると、子卿は益州の都督の任を解かれた。485年(永明3年)、南陽郡の劉虯・宗測・宗尚之・庾易・劉昭らに蒲車束帛の命を加えるよう上表した。
487年(永明5年)、入朝して侍中・撫軍将軍となった。受けないうちに中護軍となった。488年(永明6年)、秘書監に転じ、右衛将軍を兼ねた。まもなく中軍将軍の号を受けた。492年(永明10年)、車騎将軍に進んだ。493年(永明11年)、使持節・都督南豫豫司三州諸軍事・驃騎将軍・南豫州刺史に任じられた。南豫州に赴任する途中、ふざけて部隊を水軍に編成した。武帝はそのことを聞くと激怒して子卿を解任し、子卿の典籤[1]に罪を負わせて殺した。宜都王蕭鏗が代わって南豫州刺史として赴任した。子卿は邸に帰され、武帝が死去するまで会うことができなかった。
蕭昭業が即位すると、子卿は再び侍中・驃騎将軍となった。494年(隆昌元年)、衛将軍・開府儀同三司の位を受け、兵佐を置いた。同年(延興元年)9月、鄱陽王蕭鏘が殺害されると、子卿が代わって司徒となった。まもなく子卿も殺害された。享年は27。
脚注・参考文献
[編集]- ^ 越智重明「典籤考」『東洋史研究』第13巻第6号、東洋史研究会、1955年3月、465-475頁、CRID 1390290699810373248 、doi:10.14989/139028、hdl:2433/139028、ISSN 0386-9059、2024年2月13日閲覧。