華陽の戦い
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華陽の戦い | |
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戦争:華陽の戦い | |
年月日:紀元前273年 | |
場所:華陽(現在の河南省鄭州市新鄭市の北) | |
結果:秦軍の大勝 魏の巻・蔡陽・長社と趙の観津を取った | |
交戦勢力 | |
秦 | 魏 趙 |
指導者・指揮官 | |
白起 魏冄 公孫胡昜 |
芒卯 賈偃 |
損害 | |
不詳 | 魏軍:130,000人 趙軍:20,000人 |
華陽の戦い(かようのたたかい、繁体字:華陽之戰、簡体字:华阳之战)は、紀元前273年に発生した秦が魏と趙を攻めた戦い。
紀元前273年、趙と魏は韓の重要な城邑の華陽(現在の河南省鄭州市新鄭市の北)に侵攻した。韓は秦に救援を求め、秦の昭襄王は武安君白起と穣侯魏冄・客卿の公孫胡昜が率いる軍を派遣した。平均で一日に100里の行軍の速度で急襲し、秦軍は突然、華陽の戦場に現れた。趙と魏の軍は、対策を練っていないために、趙・魏軍は大敗した。この戦で秦軍は魏軍を13万斬首し、魏将3名を捕虜とした。魏将芒卯は敗走した。趙将賈偃は趙軍の捕虜2万人とともに黄河に沈められた。
秦軍は勝利に乗じて魏の巻(現在の河南省原陽県の北西の原興街道)・蔡陽(現在の湖北省棗陽市の南西)・長社(現在の河南省長葛市の東)[1]と趙の観津(現在の河北省武邑県の東の審坡鎮)を取った。魏は南陽(太行山より南で黄河より北の地域)を割譲して和を求めた[2][3]。
脚注
[編集]- ^ 《史記 巻五 秦本紀第五》:三十三年,客卿胡昜攻魏巻・蔡陽・長社,取之。撃芒卯華陽,破之,斬首十五萬。魏入南陽以和。
- ^ 《史記 巻七十二 穣侯列傳》:明年,穣侯與白起客卿胡昜復攻趙・韓・魏,破芒卯於華陽下,斬首十萬,取魏之巻・蔡陽・長社,趙之観津。
- ^ 《資治通鑑 巻四 周紀第四》:趙人・魏人伐韓華陽。韓人告急於秦,秦王弗救。韓相国謂陳筮曰:「事急矣!願公雖病,為一宿之行。」陳筮如秦,見穣侯。穣侯曰:「事急乎?故使公來。」陳筮曰:「未急也。」穣侯怒曰:「何也?」陳筮曰:「彼韓急則将変而他従;以未急,故復來耳。」穣侯曰:「請發兵矣。」乃與武安君及客卿胡昜救韓,八日而至,敗魏軍於華陽之下,走芒卯,虜三将,斬首十三萬。武安君又與趙将賈偃戦,沈其卒二萬人于河。魏段干子請割南陽予秦以和。蘇代謂魏王曰:「欲璽者,段干子也;欲地者,秦也。今王使欲地者制璽,欲璽者制地,魏地盡矣!夫以地事秦,猶抱薪救火,薪不盡,火不滅。」王曰:「是則然也。雖然,事始已行,不可更矣!」對曰:「夫博之所以貴梟者,便則食,不便則止。今何王之用智不如用梟也?」魏王不聴,卒以南陽為和,実修武。