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花山院師賢

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花山院師賢
藤原師賢(菊池容斎前賢故実』より)
時代 鎌倉時代後期
生誕 正安3年(1301年
死没 元弘2年/正慶元年10月末(1332年11月)[1]
改名 師賢→素貞(法名)
別名 尹大納言
諡号 文貞公
戒名 得聖院随誉華巌帝高
墓所 (伝)千葉県成田市名古屋の公家塚
官位 正二位大納言太政大臣
主君 後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族 花山院家
父母 父:花山院師信、母:恵一娘
兄弟 兼信師賢信忠、賢季
花山院家定娘、源仲時娘、日野俊光
経賢信賢家賢、三条局、女子
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花山院 師賢(かさんのいん もろかた)は、鎌倉時代後期の公卿歌人内大臣花山院師信の二男。官位正二位大納言太政大臣後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、幕府に拘束されて配所の下総国で没した。

後醍醐朝の有力歌人であり、『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集に14首が入集したほか、准勅撰和歌集『新葉和歌集』にも文貞公(ぶんていこう)の諡号で49首が採られた。

経歴

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師賢を祀る小御門神社千葉県成田市
師賢の墓所と伝えられる公家塚

正安4年(1302年)1月に僅か2歳で叙爵徳治元年(1306年)12月に侍従になり、右少将・左中将などを経て、正和5年(1316年)11月に従三位、翌文保元年(1317年)12月に参議として公卿に列した。同2年(1318年)2月後醍醐天皇践祚すると、7月には上席参議4人を越えて権中納言に任じられる。当初は父と同じく持明院統に出仕した師賢だが、その母が天皇の母(談天門院)と近い血縁に当たるためか、やがて後醍醐から重用されるようになり、中宮権大夫左衛門督弾正尹などを歴任した。正中3年(1326年)2月権大納言、嘉暦2年(1327年)11月正二位に叙任され、同4年(1329年)6月には大納言に転じた。また、『増鏡』によれば、後醍醐天皇と側室の二条藤子の間に生まれた「若宮」(懐良親王[2])の乳父(後見人・教育係)になったという。

元弘元年/元徳3年(1331年)8月元弘の乱が勃発して天皇が京都から逃れるに及び、北長尾の山荘に隠棲していた師賢はこれに供奉して三条河原まで赴いたが、勅命によって天皇の身替りとなり、服装と腰輿を整え、四条隆資らの公卿を従えて比叡山に登った。これを天皇と思った延暦寺衆徒は大いに士気を挙げ、押し寄せる六波羅の幕府軍をよく撃退したので、天皇は追撃を受けずに笠置に潜幸することが可能となったのである。じきにその謀略が露見し、失望した衆徒は離反するに至り、師賢らは密かに山を下って笠置に拠る天皇と合流した。しかし、1か月に及ぶ幕府軍との攻防の末、9月28日に笠置が陥落し、師賢は天皇に従って敗走するも、その途中で捕捉されて、翌29日に出家を遂げた。法名を素貞という。10月宇治平等院から六波羅に移送され、長井遠江入道の許へ預けられた。翌元弘2年/正慶元年(1332年)4月幕府から遠流の処分が伝えられると、翌月中旬に京都を発って下総国に下り、千葉貞胤の家で拘禁の身となるが、10月末に病のため同地で薨去。享年32。後年、師賢を愛惜した天皇より太政大臣を追贈され、文貞公と諡された。

人物

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二条派の廷臣歌人として、元亨以降の公宴(くえん)に詠進したが、元弘の乱に際してその感慨を詠じた作品は特に評価が高い。『続千載和歌集』以下の勅撰集に14首、南朝の准勅撰集『新葉和歌集』に49首が採られた他、『臨永和歌集』などの私撰集にも入集する。『二八要抄』の編者ともされ、日記に『師賢卿記』(元応3年2月分のみ現存)がある。

『太平記』

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『太平記』では、後醍醐天皇は即位初期から鎌倉幕府を打倒して朝権を回復せんとの意志があり、日野資朝俊基が催した討幕の密議(無礼講)には師賢もその同志として参加した、と描かれている[3]。しかし、師賢が無礼講や正中の変に加わっていたことを示す実証的証拠はない[3]。2007年には河内祥輔によって正中の変が討幕計画だったとする説そのものに疑問が提起された[4]。詳細は正中の変

略譜

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  • 日付=旧暦
和暦 西暦 月日 事柄
正安3年 1301年 生誕。
乾元元年 1302年 1月28日 叙爵
徳治元年 1306年 1月5日 従五位上に昇叙。
12月22日 侍従に任官。
徳治2年 1307年 2月9日 正五位下に昇叙。
延慶2年 1309年 9月1日 従四位下に昇叙。
12月26日 右近衛少将に遷任。
延慶3年 1310年 12月28日 従四位上に昇叙。
応長元年 1311年 3月4日 左近衛中将に転任。
正和元年 1312年 1月13日 播磨介を兼任。
10月12日 正四位下に昇叙。
正和5年 1316年 11月23日 従三位に昇叙。左中将如元。
文保元年 1317年 4月6日 左大弁造東大寺長官を兼任。
12月22日 参議に補任。
文保2年 1318年 1月22日 土佐権守を兼任。
7月7日 権中納言に転任。
10月9日 帯剣を聴される。
元応元年 1319年 8月7日 中宮権大夫を兼任(中宮西園寺禧子)。
元亨元年 1321年 1月5日 従二位に昇叙。
元亨3年 1323年 1月13日 右衛門督を兼任。
正中元年 1324年 4月27日 中宮大夫を兼任。
5月26日 左衛門督を兼任。
10月29日 中納言に転任。
正中2年 1325年 1月29日 弾正尹を兼任。左衛門督を停任。
嘉暦元年 1326年 2月19日 権大納言に転任。中宮大夫・弾正尹如元。
嘉暦2年 1327年 2月23日 中宮大夫を停任。
11月10日 正二位に昇叙。
嘉暦3年 1328年 5月8日 弾正尹を辞任。
元徳元年 1329年 6月28日 大納言に転任。
元弘元年/元徳3年 1331年 9月29日 出家。
元弘2年/正慶元年 1332年 5月 下総国に配流。
10月末[1] 配所で薨去。享年32。
元弘3年/正慶2年 1333年 6月23日[5] 太政大臣を追贈。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 常楽記』・『新葉和歌集』による。『南方紀伝』・『南朝編年記略』などは具体的に10月29日11月17日)とする。
  2. ^ 法仁入道親王とする場合もある。
  3. ^ a b 河内 2007, pp. 305–306.
  4. ^ 河内 2007, pp. 304–347.
  5. ^ 『南方紀伝』・『花山院家譜』による。『南朝編年記略』は同年9月21日とし、『断絶諸家略伝』は建武元年(1334年)とする。

参考文献

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  • 沢田総重 『文貞公歌集』 沢田総重、1920年、NDLJP:927170
  • 猪熊信男 「文貞公真蹟並に詳伝」(『小御門叢書 第3』 小御門神社、1936年、NCID BA56081055
  • 中村孝也 「花山院師賢卿と新葉和歌集」(『古典研究』第2巻第11号 雄山閣、1937年11月、NCID AN00092935
  • 井上宗雄 『中世歌壇史の研究 南北朝期』 明治書院、1987年、ISBN 9784625474484
  • 伊藤伸江 「花山院一族の『新葉和歌集』入集歌(一) 花山院師賢」(『愛知県立大学説林』第56号 愛知県立女子大学国文学会、2008年3月、NCID AN00131287
  • 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年。ISBN 978-4642028639 

関連項目

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外部リンク

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