脇本城
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脇本城 (秋田県) | |
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城郭構造 | 階郭式山城 |
天守構造 | 建造されず |
築城主 | 鎌倉幕府側勢力?[1] |
築城年 | 元弘4年(1334年)頃?[2] |
主な改修者 | 安東愛季 |
主な城主 | 安東氏 |
廃城年 | 天正18年(1590年)? |
遺構 | 曲輪・土塁・空堀 |
指定文化財 | 国の史跡 |
位置 | 北緯39度54分9.3秒 東経139度53分20.7秒 / 北緯39.902583度 東経139.889083度 |
地図 |
脇本城(わきもとじょう)は、秋田県男鹿市にあった中世の日本の城(山城)。国の史跡。中世に安東氏の居城となった。
概要
[編集]明確な築城時期は不明だが、元弘4年(1334年)頃に鎌倉北条氏派の武士が築いたとされる。康正2年(1456年)、安東政季は小鹿嶋(現在の男鹿)に入り、この城を拠点としたと推測される。
天正5年(1577年)、檜山、湊の両安東氏を統一した安東愛季が、名目的ではあるが嫡子の安東業季に家督を譲り、脇本城を隠居城とすべく大規模な改修を行った。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置から慶長7年(1602年)の佐竹氏による久保田城築城の間に、廃城になったと思われる。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(106番)に選定された。
構造
[編集]男鹿半島から日本海を臨む東日本屈指の規模を誇る山城で、その広さは150haに及ぶ。標高約100mの丘陵を活かし整備した土づくりの城で、石垣は存在しない。
現在は内部に菅原神社、本明寺、萬境寺が鎮座している。中央を古来から男鹿半島への道であった「天下道」が通り、曲輪がそれを挟み込む形となっている。決して守りを疎かにしているわけではなく、中心部には比較的細い天下道を通るほかなく、竪堀や土塁、虎口が配置されて守りにも適していると見受けられる。中心部は連郭式の山城が二つ合わさった形にも見える。
生鼻崎は江戸時代の地震によって一部が崩壊したとされている。
遺構
[編集]多数の曲輪、土塁、空堀、井戸跡などの他、虎口が確認され、発掘調査では当時使用した陶磁器などが出土している。近年は地域ボランティアの尽力により草などが刈られており、遺構は比較的見学しやすい。
アクセス
[編集]参考画像
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内館
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空堀
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脇本城空撮
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衛星図
脚注
[編集]- ^ “国指定史跡 脇本城 リーフレット” (PDF). 秋田県男鹿市教育委員会. pp. 1-3 (2014-101). 2022年9月8日閲覧。
- ^ “国指定史跡 脇本城 リーフレット” (PDF). 秋田県男鹿市教育委員会. pp. 1-3 (2014-101). 2022年9月8日閲覧。