羽子板
分類
[編集]羽根突きに用いる競技用の羽子板と、飾り羽子板に分別できる。
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羽根突きの様子
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木目込み人形 「押絵羽子板」
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スターダム 3周年記念大会の巨大羽子板
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『写真週報』第百五十一號 (1941年1月15日)の表紙
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『映画情報』1965年1月号富司純子
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『映画情報』1965年1月号三田佳子
歴史
[編集]室町時代の文献『下学集』に「正月に羽子板を用いた」という旨の記述があり、これが文献における羽子板の初見だと言われる。胡鬼板(こぎいた)とも呼ばれ、羽子板で突く羽根を胡鬼子(こきのこ)と言い、蚊を食べる蜻蛉に似せて作られていた。
なお、『下学集』よりも12年古い『看聞日記』には「正月五日に宮中で、こきの子勝負をした」との記載がある。「こきの子」とは羽子板のことだと言う[1]。
当初は羽根突きの道具として用いられたが、徐々に厄払いとしても使われるようになり、魔除けとして正月に女性にあげる習慣もこのころ出来たとされる。江戸時代に入ると、歌舞伎役者などをかたどった押絵羽子板が流行した。井原西鶴の『世間胸算用』に、正月に羽子板が江戸の市場で他の正月用の玩具と共に売られていたという言及がある。その後種類が増加し、金箔、銀箔を施した高級品も現れ、幕府が華美な羽子板の販売を禁止したり、製造について制約を課すなどの干渉をすることもあった。文化、文政年間になると、押し絵により人気俳優などの有名人を模った羽子板も登場、明治時代に入ると、新たな技術が応用され、羽子板の種類は更に増えた。
現代においても、羽子板は運動・遊戯としての羽根突きに使われる実用品と、厄除けや美術品の両方が作られている。アメリカで試験販売が好評だったことから、欧米への輸出を目指す製作会社もある[2]。「江戸押絵羽子板」は東京都により伝統工芸品に指定されている[3]。
羽子板市
[編集]毎年12月17日から同19日までおこなわれる行事。江戸時代から現代に至るまで浅草寺で開催されており、毎年大勢の客が訪れることで有名である[4][5]。押絵羽子板の産地としては埼玉県春日部市[6]とさいたま市岩槻区(旧岩槻市)が有名[要出典]。
また、2012年から久月が参加し、その年に話題となった人物を素材にした変わり羽子板を作成、出展している[7][8]。
脚注
[編集]- ^ 『これは重宝漢字に強くなる本』十三版 編集:佐藤一郎、浅野通有 出版:株式会社光文書院 1979/06/15発行/十三版発行/発行者:長谷川凱久 印刷:日本デザイン工房、開成印刷、製本:小泉製本、高田紙器 全622頁622頁
- ^ 【老舗あり】埼玉県春日部市 水野製作所/押絵羽子板 未来へつなぐ『産経新聞』2018年2月18日
- ^ 江戸押絵羽子板東京都 産業労働局 商工部(2018年3月18日閲覧)
- ^ “年中行事 納めのご縁日”. 浅草寺. 2012年12月17日閲覧。
- ^ “下町の風物詩 浅草寺の「羽子板市」”. NHKニュース (日本放送協会). (2012年12月17日). オリジナルの2012年12月17日時点におけるアーカイブ。 2012年12月17日閲覧。
- ^ 【大人の遠足】埼玉・春日部市 江戸勝「押絵羽子板」/繊細な仕事 随所に職人技『産経新聞』朝刊2017年10月27日(東京面)
- ^ “久月、歴代の「変わり羽子板」一堂に 浅草寺で展示”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2013年12月13日) 2014年12月5日閲覧。
- ^ “変わり羽子板”. 久月. 2012年12月17日閲覧。
参考文献
[編集]- 斎藤良輔「日本人形玩具辞典」(東京堂出版) 351-356頁