紀元前352年
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年 |
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紀元前352年(きげんぜん352ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ポプリコラとルティルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元402年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前352年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]ギリシア
[編集]- マケドニア王ピリッポス2世は、フォキス勢に対する攻勢に2度失敗したあと、クロコスの戦い (Battle of Crocus Field) で大勝利を収め、フォキス勢を南方へ追い落とした。フォキス方に加勢するアテナイとスパルタの軍勢が到着すると、ピリッポスはテルモピュライで侵攻を止めた。アテナイ勢がこの狭隘な路を占拠したため、ピリッポスはギリシア中央部へは侵入しなかった。フォキス方の将軍オノマルコスは、傭兵たちへの支払いに充てるため、デルポイの神殿の秘宝を略奪していたが、ピリッポスはクロコスにおける勝利によって、アポローンの名における正当な復讐者としての立場を得た。討ち死にしたオノマルコスの遺体は磔にされ、捕虜となったフォキス勢は、神殿を略奪した者への儀礼的処刑として溺死させられた。
- ピリッポスは、次にトラキアへと転進した。トラキア侵攻は成功し、この地の支配権を掌握し、トラキア王ケルソブレプテス (Cersobleptes) の息子を人質として連れ去った。テッサリアにおける勝利によって、ピリッポスは、テッサリア同盟の盟主(アルコン)となった。
中国
[編集]- 魏と韓の軍が襄陵を包囲していた斉・宋・衛の連合軍を撃破した(襄陵の戦い)。斉の威王は楚に仲介を依頼し、楚は景舎を派遣して講和を求めさせた。魏の恵王は斉や宋と会合した。
- 秦の大良造の商鞅が魏を攻撃し、安邑を包囲して降した。
- 秦の孝公を咸陽城を(現·咸陽市)に造り、都をここに移した。
誕生
[編集]→「Category:紀元前352年生」も参照
死去
[編集]→「Category:紀元前352年没」も参照
脚注
[編集]注釈
出典
- ^ “Word Dynamo: Battle of Crocus Field”. Dictionary.com, LLC. 2012年12月16日閲覧。