石川宗恒
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 万治2年11月28日(1660年1月10日)[1] |
死没 | 元禄9年4月13日(1696年5月13日) |
別名 | 右衛門、中務、大和 |
墓所 | 長泉寺(宮城県角田市) |
主君 | 伊達綱村 |
藩 | 仙台藩 |
氏族 | 角田石川家 |
父母 |
父:伊達宗敏、母:千代鶴(石川宗敬の娘) 養父:石川宗弘 |
兄弟 |
伊達敏親、伊達実氏、敏重、宗恒、 鶴松(伊達宗元室)、嶺松(津田景康室)、 美喜(後藤節康室) |
妻 | 正室:玉千代姫(石川宗弘の娘) |
子 | 養子:村弘 |
石川 宗恒(いしかわ むねつね)は、江戸時代の伊達氏家臣。仙台藩の家格は一門筆頭。角田石川家第5代当主。
生涯
[編集]万治2年(1659年)、岩出山伊達氏第2代当主・伊達宗敏の六男として生まれる。幼名は右衛門。
貞享元年(1684年)、母(千代鶴姫)の弟角田石川家第4代当主・石川宗弘の養子となる。貞享2年(1685年)、前藩主伊達綱宗の偏諱を受け、通称を中務、諱を宗恒と名乗る。その後、通称を大和と改めた。元禄元年(1688年)8月、養父宗弘の娘玉千代姫と結婚。元禄2年��1689年)8月、玉千代姫が死去。元禄3年(1690年)伊達敏親の養子となっていた、宗弘の末子、松之助(村弘)を呼び戻し養嗣子にする。元禄4年(1691年)1月、養父宗弘の死去により家督相続し、角田邑主となる。
元禄6年(1693年)専制政治を行う藩主伊達綱村に対する一門の不満が高まり、一門七家8名(石川宗恒、伊達宗氏、伊達宗元、伊達村隆、伊達宗親、白川宗広、三沢宗直、伊達村元)によって諫言書を提出した。この君臣の対立は、元禄16年(1703年)の綱村隠居へと繋がった。
元禄9年(1696年)4月13日死去。享年38。家督は養子の村弘が相続した。
脚注
[編集]- ^ 『石川郡誌』(福島県石川郡役所、1923年)36頁
参考文献
[編集]- 『源流無尽』
- 『角田市史』
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