白鳥浩徳
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基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 宮城県登米郡南方町(現:登米市)[1] |
生年月日 | 1966年5月4日(58歳) |
身長 体重 |
177 cm 72 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1993年 ドラフト5位 |
初出場 | 1994年5月13日 |
最終出場 | 1995年7月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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白鳥 浩徳(しらとり ひろのり、1966年5月4日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]東北高時代は、1983年春の甲子園と1984年夏の甲子園にも出場するが、いずれも登板機会はなかった。このときはエースナンバーを付けていたが、1年下の佐々木主浩が実質エースのため、控え投���扱いであった[1]。
高校卒業後は、社会人野球の住友金属鹿島に入団。1990年と1993年に日立製作所の補強選手として都市対抗野球大会に出場[1]。スライダー、シュートを武器とした。
1993年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから5位指名を受け入団[1]。
1年目の1994年は、5月から敗戦処理を中心に投げていたが、6月7日に4回無失点の好投をしたのと翌8日に村田勝喜がぎっくり腰で途中降板・登録抹消となったのを受けて、6月14日対千葉ロッテマリーンズ戦でプロ入り初初先発を果たす。これは、相手の予告先発が伊良部秀輝で、チームはローテーションの谷間という森祇晶監督いわく「捨て試合」[2]であった。試合は、チームが伊良部から2点を先制して白鳥も無失点に抑えていたが、5回表2死満塁となったところで「リードを守る以外に勝機はない」[2]との判断で投手交代され、勝利投手の権利を得ることができなかった。そのピンチは救援が抑えたものの、チームは最終的に逆転負けを喫した。
1995年7月16日の対日本ハムファイターズ戦で、プロ入り2度目の先発を果たすが、初回に2点を取られて1死満塁のピンチを招くなど、0回3分の1でKOとなった。結局、一軍未勝利のまま1997年に現役引退した[1]。
2011年まで、西武ライオンズの打撃投手兼スコアラーを務めた。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1994 | 西武 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 78 | 17.0 | 17 | 1 | 9 | 0 | 2 | 9 | 0 | 0 | 8 | 8 | 4.24 | 1.53 |
1995 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 6 | 0.1 | 2 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 54.00 | 15.00 | |
通算:2年 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 84 | 17.1 | 19 | 1 | 12 | 0 | 2 | 9 | 0 | 0 | 10 | 10 | 5.19 | 1.79 |
記録
[編集]- 初登板:1994年5月13日、対近鉄バファローズ6回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:同上、9回表に藤立次郎から
- 初先発:1994年6月14日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(西武ライオンズ球場)、4回2/3を無失点
背番号
[編集]- 54 (1994年 - 1997年)
- 03 (1998年 - 2011年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 白鳥浩徳 - NPB.jp 日本野球機構