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淖 歯(どう し、? - 紀元前283年)は、中国戦国時代の楚の将軍で斉の相国。
頃襄王15年(紀元前284年)、燕の上将軍の楽毅が燕・秦・趙・韓・魏の五国合従軍を率いて、斉に侵攻し済西の戦いで斉軍の主力を壊滅させた。楽毅が勝利し、斉の国都である臨淄を落とし、斉の湣王は莒に逃亡することを余儀なくされた。楚の頃襄王は斉の救済のために淖歯を派遣した。斉の湣王により淖歯は相国に任命されたが、その後湣王を殺した[1][2] 。1年後、斉の王孫賈ら400人の兵士と民間人によって淖歯は殺された[3] 。
- ^ 『史記』巻四十六・田敬仲完世家:「楚使淖歯将兵救斉,因相斉湣王。淖歯遂殺湣王而与燕共分斉之侵地鹵器。」
- ^ 『史記』巻七十九・范雎蔡澤列伝:「崔杼・淖歯管斉,射王股,擢王筋,懸之於廟梁,宿昔而死。」
- ^ 『戦国策』巻十三・王孫賈年十五事閔王:「王孫賈乃入市中,曰:『淖歯乱斉国,殺閔王,欲与我誅者,袒右!』市人従者四百人,与之誅淖歯,刺而殺之。」