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洪大容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
洪大容
各種表記
ハングル 홍대용
漢字 洪大容
発音: ホン テヨン
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洪大容朝鮮語: 홍대용1731年5月12日 - 1783年11月17日)は、李氏朝鮮の哲学者、天文学者数学者。字は得保。號は湛軒本貫南陽洪氏

人物

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両班の家に生まれ、当代随一の学者であった金元行朝鮮語版に学ぶ。朴趾源ら北学派の指導的存在であり、とりわけ天文学に深い知識をもち、清州の自宅に観測所「籠水閣」を設けて実測に当たった。

35歳のとき書状官に選ばれた叔父に随行して北京に赴き、朝のドイツ人の欽天監正(天文台長)や、厳誠、潘庭筠、陸飛らの中国人天文学者たちと対等に議論したことで知られる。著書『広山問答』『医巫閭山問答』を著し、地球自転説(朝鮮での創唱は半世紀前の金錫文)を主張し、宇宙無限論を展開した[1]玄琴の名手で音楽にも造詣が深いことで知られた。帰朝すると、司憲府の監察、慶尚道栄州郡郡守などを歴任した。

1783年11月17日、52歳で死去した[2]

日本語訳

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研究
  • 金泰俊『虚学から実学へ 十八世紀朝鮮知識人洪大容の北京旅行』東京大学出版会、1988年

参考文献

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  • 「世界大百科事典」 平凡社 2007年
  • 金素天『韓国史のなかの100人』明石書店 2002年

脚注

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  1. ^ 片野次雄『戦乱三国のコリア史』彩流社 2007年 ISBN 9784779112959 221頁、234頁
  2. ^ 李英順 (2011年12月). 朝鮮北學派實學研究. 北京: 中國社會科學出版社. ISBN 978-7-5161-0362-3