コンテンツにスキップ

橋口勇馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

橋口 勇馬(はしぐち ゆうま、1862年4月13日(文久2年3月15日[1]) - 1918年大正7年)1月11日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

[編集]

薩摩藩士・橋口伝蔵の息子として生れる[1]陸軍士官学校幼年生徒、士官生徒を経て、1883年(明治16年)12月25日、陸士(旧6期)を卒業し歩兵少尉任官[2][3]近衛歩兵第4連隊付となる[1][4]。1894年(明治27年)11月、歩兵大尉に進み近衛歩兵第4連隊中隊長に就任[1]。1897年(明治30年)5月、参謀本部出仕となる[1]清国差遣を経て、第5師団司令部付となり、1901年(明治34年)4月、歩兵少佐に昇進[1]。参謀本部付、近衛歩兵第4連隊付、同連隊大隊長を務め、1904年(明治37年)1月、清国差遣となり諜報活動に従事[1]。兼大本営付を経て、1904年7月、満州軍総司令部付となり日露戦争に出征し、馬賊を用いてロシア軍の後方攪乱を行うなどの戦功を挙げた[1][5]。1905年(明治38年)3月、歩兵中佐に昇進[1]

1905年12月、参謀本部付となり、関東総督府付、歩兵第54連隊付を経て、1907年(明治40年)11月、歩兵大佐に進級し歩兵第62連隊長に就任した[1][6]歩兵第40連隊長を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍少将に進み歩兵第13旅団長となり、シベリア出兵の際には満州里の居留民保護に従事した[1][2][6]。1917年(大正6年)8月に待命となり、同年12月、予備役に編入された[1][2][6]

栄典

[編集]

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、123頁。
  2. ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』570-571頁。
  3. ^ 『官報』第151号、明治16年12月27日。
  4. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』67、70頁。
  5. ^ 『市ヶ谷台に学んだ人々』15頁。
  6. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』70頁。
  7. ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
  8. ^ 『官報』第3444号「叙任及辞令」1894年12月19日。
  9. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  10. ^ 『官報』第1624号「叙任及辞令」1917年12月29日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 桑原嶽『市ヶ谷台に学んだ人々』文京出版、2000年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。