楊口郡
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秋の突山嶺 | |
位置 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 양구군 |
漢字: | 楊口郡 |
日本語読み仮名: | ようこうぐん |
片仮名転写: | ヤング=グン |
ローマ字転写 (RR): | Yanggu-gun |
統計(2023年) | |
面積: | 701.53 km2 |
総人口: | 21,056[1] 人 |
男子人口: | 11,063 人 |
女子人口: | 9,993 人 |
行政 | |
国: | 大韓民国 |
上位自治体: | 江原特別自治道 |
下位行政区画: | 1邑4面 |
楊口郡の木: | イチイ |
楊口郡の花: | アンズ |
楊口郡の鳥: | コウライウグイス |
自治体公式サイト: | 楊口郡 |
楊口郡(ヤングぐん、ようこうぐん)は、大韓民国江原特別自治道にある郡。郡の北部を軍事境界線と接している。朝鮮戦争の血の稜線の戦い・断腸の稜線の戦い・パンチボウルの戦いの激戦地であった。
歴史
[編集]高句麗の時から楊口だったが、高麗の時には楊溝県に改め春州に属したが、後に楊口に改名して睿宗元年(1106年)監務を置いた。朝鮮太祖2年(1393年)に再び分離され、太宗12年(1412年)に県監を置いた。[2]併合時代の郡内に三国史記の高麗時代にあった地名として方山・文登があり水入面の比定は金剛山電気鉄道県里駅付近である。
- 1895年旧暦閏5月1日 - 春川府楊口郡に改編。[3]
- 1896年8月4日 - 江原道楊口郡に改編。[4]
- 1906年 - 水入面を淮陽郡から移管。
- 1914年4月1日 - 郡面併合により、楊口郡に以下の面が成立。[5](7面)
- 郡内面(西面を編入)・南面(旧・東面を編入)・東面(上東面を改称)・北面・方山面・亥安面・水入面
- 1917年 - 郡内面が楊口面に改称。(7面)
- 1945年8月15日 - ソ連軍管理下に置かれる。(7面)
- 1953年7月27日 - 水入面の大部分と東面のごく一部を除いて、韓国が収復。
- 朝鮮民主主義人民共和国にある部分は1952年に、江原道昌道郡・金剛郡に分割編入された。
- 1954年11月17日 - 収復地区臨時行政措置法により、楊口郡に対する施政権が回復。以下の5面で再出発。[6]
- 楊口面・南面・北面・東面・方山面(水入面を編入)
- 亥安面は麟蹄郡に移管。
- 楊口面・南面・北面・東面・方山面(水入面を編入)
- 1963年1月1日 - 北面が楊口面に編入。[7](4面)
- 1973年7月1日 (4面)
- 麟蹄郡瑞和面の一部(旧・亥安面)が東面に編入し、その区域を管轄する亥安出張所を設置。
- 麟蹄郡南面の一部が南面に編入。
- 南面の一部が麟蹄郡南面に編入。
- 1979年5月1日 - 楊口面が楊口邑に昇格。[8](1邑3面)
- 1983年2月15日 - 東面亥安出張所が亥安面に昇格・復活。[9](1邑4面)
- 2021年1月1日 - 南面が国土正中央面に改称。(1邑4面)
行政
[編集]下位行政単位
[編集]邑・面 | 法定里 |
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楊口邑 | 高垈里、恭里、公須里、軍糧里、都沙里、東水里、上里、上舞龍里、石峴里、松青里、水仁里、安垈里、雄津里、月明里、泥里、井林里、竹谷里、中里、下里、鶴鳥里、閑田里 |
国土正中央面 | 佳伍作里、九岩里、桃村里、斗武里、明串里、松隅里、深浦里、野村里、龍下里、院里、笛里、竹里、蒼里、晴里、黄岡里 |
東面 | 徳谷里、比雅里、沙汰里、元塘里、月雲里、林塘里、支石里、八郎里、後谷里 |
方山面 | 乾率里、古方山里、金岳里、松峴里、五味里、長坪里、天尾里、漆田里、県里 |
亥安面 | 万垈里、五柳里、月山里、泥峴里、県里、後里 |
警察
[編集]消防
[編集]脚注
[編集]- ^ “주민등록 인구통계 - 행정안전부”. 行政安全部. 2024年1月3日閲覧。
- ^ 《グローバル世界大百科事典》〈양구의 연혁〉
- ^ 勅令第98号 地方制度改正件(1895年旧暦5月26日)
- ^ 勅令第36号 地方制度官制改正件(1896年8月4日)
- ^ 朝鮮総督府令第111号(1913年12月29日)
- ^ 法律第350号 수복지구임시행정조치법(1954年10月21日)
- ^ 法律第1178号 수복지구와동인접지구의행정구역에관한임시조치법(1962年11月21日)
- ^ 大統領令第9409号 미금읍등53개읍설치에관한규정(1979年4月7日)
- ^ 大統領令第11027号 市・郡・区・邑・面の管轄区域変更及び面設置等に関する規定(1983年1月10日)