村田春海
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画・谷文晁(『近世名家肖像』より) | |
人物情報 | |
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生誕 |
延享3年??月??日(1746年??月??日) 日本 |
死没 |
文化8年2月13日(1811年3月7日) 日本 |
学問 | |
時代 | 江戸時代中期~後期 |
活動地域 | 江戸 |
学派 | 江戸派 |
研究分野 | 国学 |
主要な作品 |
『琴後集』 『錦織詩草』 『古言梯再考増補標註』など |
影響を受けた人物 |
服部白賁 賀茂真淵 |
影響を与えた人物 |
清水浜臣 小山田与清 本間游清 山田常典など |
村田 春海(むらた はるみ、延享3年(1746年) - 文化8年2月13日(1811年3月7日))は、江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人。本姓は平氏。通称は平四郎。字は士観(さちまろ)。号は織錦斎(にしごりのや)・琴後翁(ことじりのおきな)。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王のひとり[1]。
略歴
[編集]江戸の干鰯問屋に生れ、幕府連歌師の坂昌周の養子となった。のち本家の干鰯問屋を相続したが、その生活は豪奢なもので十八大通の一人にも挙げられた。その結果、家産を傾け隠居後は風雅をともにした。漢籍を服部白賁に、国典を賀茂真淵に学び、国学者で歌人の加藤千蔭(橘千蔭)とともに江戸派歌人の双璧をなし、陸奥国白河藩主で幕府老中も勤めた松平定信の寵愛を受けた。
一橋徳川家の家臣信夫道別の仲介で渡辺多勢子を養女に迎えた。村田家は春海の死後、多勢子が継いだ。
晩年は八丁堀地蔵橋に住み、隣家の住人は斎藤十郎兵衛だったとされている[2]。
業績
[編集]春海は国語研究の中でも特に仮名遣いに造詣が深く[3]、『新撰字鏡』を発見・紹介している[4]。また、若い頃は漢学をもっぱら学んだこともあり、本居宣長のように儒教を排せず、漢詩をよく作ったことも知られている。
門下に清水浜臣、小山田与清、本間游清、小林歌城(松尾多勢子、三田葆光らの師)などがいる。仙台藩江戸詰の藩医工藤球卿(平助)とも親交が��り、その娘只野真葛の文才を評価している。
人物
[編集]歌文の才能はもとより、書もすばらしい反面「人の悪口は鰻より旨し」などと言うほど傲慢で不遜な一面があったという[3]。
著書
[編集]歌文集『琴後集』、漢詩集『錦織詩草』などがある。
その他の著書
[編集]- 『歌苑古題類抄』20巻
- 『歌語』『かさねの色合』『古人贈答歌抄』『五十音辨誤』『字合称呼考』『字鏡考證』『字説辨誤』『天字讀方考』
- 『仙語記』『西土国習考』『斉明記童謡考後按』『神道志』『明道書』
- 『筆のさが』『わかかづら』『椿太詣記』『錦織雑記』『不問語』『作文通弊』
- 『和学大概』『古言梯再考増補標註』『歌がたり』『竺志(つくし)船物語』
作品注解
[編集]- 「織錦舎随筆」『日本随筆大成 第3巻』 吉川弘文館
- 「歌がたり」ほか『日本歌学大系 第8巻』 風間書房 1958
- 「和学大概」『日本思想大系 39 近世神道論・前期国学』平重道・阿部秋生校注 岩波書店 1972
- 『仮字大意抄・仮字拾要』勉誠社〈勉誠社文庫53〉 1978
- 「仙語記」『続日本随筆大成 第6巻』 吉川弘文館 1980 森銑三・北川博邦編
- 「琴後集」『和歌文学大系72』 明治書院 2009 田中康二編 ISBN 9784625414015
参考文献
[編集]- 清宮秀堅『古学小伝』玉山堂、1886年。
- 中野虎三 編『国學三遷史』吉川半七、1897年。
- 上田萬年・芳賀矢一校閲:大川茂雄・南茂樹編『国学者伝記集成』大日本圖書、1904年。
- 関根正直『史話俗談』誠文堂書店、1921年。
- 関根正直『随筆雑話 からすかご』六合館、1927年。
- 関隆治 編『国学者著述綜覧』森北書店、1943年。
- 丸山季夫『泊洦舎年譜』私家版、1964年。
関連文献
[編集]- 田中康二『村田春海の研究[注釈 1]』汲古書院 2000年。ISBN 4762934321
- 田中康二『江戸派の研究』汲古書院、2010年。ISBN 9784762935732
- 内野吾郎『文芸学史の方法:国学史の再検討』桜楓社、1974年。
- 内野吾郎『江戸派国学論考』創林社、1979年。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 椿まうでの記春海が伊勢白子の里より鈴鹿椿の大社へ詣でたときの紀行文(奈良女子大学学術情報センター)