李璟
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元宗 李璟 | |
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南唐 | |
第2代皇帝(国主) | |
王朝 | 南唐 |
在位期間 |
保大元年3月1日 - 建隆2年6月28日 (943年4月8日 - 961年8月12日) |
都城 | 江寧→南昌府 |
姓・諱 | 徐景通→李璟→李景 |
字 | 伯玉 |
諡号 | 明道崇徳文宣孝皇帝 |
廟号 | 元宗 |
生年 | 天祐13年(916年) |
没年 |
建隆2年6月28日 (961年8月12日) |
父 | 烈祖 |
后妃 | 鍾皇后 |
陵墓 | 順陵 |
年号 |
保大 : 943年 - 957年 中興 : 958年 交泰 : 958年 |
李 璟(り けい)は、十国南唐の第2代皇帝(国主)。烈祖(李昪)の長男。もとの名は徐景通であったが、南唐建国後に李璟と改名し、さらに後周の臣下を称したあと、後周の信祖郭璟(太祖郭威の高祖父)の諱を避けて李景と再改名した。
生涯
[編集]李璟は南唐の第2代皇帝皇帝に即位した後は、それまで国内政治に力をいれていた烈祖(李昪)の政策を転換して、積極的に外征を進めた。
保大3年(945年)に閩を、保大9年(951年)には楚を滅ぼして李璟は南唐の最大版図を築いた。
しかし、保大15年(957年)に後周の軍が南唐に侵入し、南唐の領域であった淮南を占拠してさらに長江一帯に迫ると、李璟は後周の世宗(柴栄)に使者を送り、和議を申し込んだ。
それ以後は、李璟は臣称して帝号を廃止、「国主」を名乗って後周の年号を用いた。
李璟は政治面よりも文化面で名を残しており、詩・詞や書に優れ、特に「小楼吹徹玉笙寒」は不朽の名句であり、次代の後主李煜の作品とともに『南唐二主詞』に収録されている。
宗室
[編集]后妃
[編集]- 正室:光穆皇后鍾氏(鍾泰章の娘)
- 側室:凌氏(呉国太夫人、李従善の母)
男子
[編集]- 文献太子 李弘冀
- 慶王 李弘茂(早世)
- 三男(早世)
- 四男(早世)
- 五男(早世)
- 後主 李煜
- 鄭王 李従善
- 鄧王 李従鎰
- 吉王 李従謙(李従浦)
- 文陽郡公 李従信
- 昭平郡公 李従慶(養子、李璟の弟の李景遷の子)
女子
[編集]- 太寧公主
- 永嘉公主
関連項目
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