明洋 (測量船・2代)
明洋 | |
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基本情報 | |
建造所 | 名古屋造船 |
運用者 | 海上保安庁 |
艦種 | 500トン型測量船 |
前級 | 拓洋 (初代) |
次級 | 昭洋 (初代) |
艦歴 | |
計画 | 昭和37年度 |
竣工 | 1963年3月15日 |
退役 | 1990年9月28日 |
要目 | |
常備排水量 | 486トン |
総トン数 | 361トン |
全長 | 44.8 m |
最大幅 | 8.0 m |
深さ | 3.8 m |
主機 | 赤坂TR655ディーゼルエンジン×1基 |
推進 | 可変ピッチ・プロペラ×1軸 |
出力 | 700馬力 |
最大速力 | 12.1ノット[1] |
巡航速力 | 11.1ノット[1] |
航続距離 | 5,280海里[1] |
乗員 | 40名 |
昭洋(JCG Meiyō、HL-03)は、海上保安庁の測量船。公称船型は500トン型[1][2][3]。
来歴
[編集]1952年9月24日、測量船「第五海洋丸」は明神礁の噴火を観測中に消息を絶ち、噴火に巻き込まれて喪失したものと断定された(第五海洋丸の遭難)。これを受けて、翌1953年3月28日、海上保安庁は極洋捕鯨のキャッチャーボート「第十五京丸」を購入、8月に三菱横浜造船所で所定の改装を完了して測量船「明洋丸」として運用を開始し[4]、1956年12月15日には他の測量船とあわせて「明洋」と改名した。しかし同船は1943年竣工と比較的古く、老朽化に伴う燃費の悪化が指摘されていた。これを受けて、代船として計画されたのが本船である[3]。
設計
[編集]本船は、昭和30年度で建造されていた「拓洋」をもとに、約半分の大きさで同等の機能を実現することを目標に設計された。船型は「拓洋」と同じく船首楼付き長船尾楼型だが、観測プラットフォームとしての性格から、重心降下や動揺性能に配慮されていた。主機関としては赤坂TR655ディーゼルエンジン(700馬力)1基を搭載し、推進器1軸を駆動する方式とされた[2]。なお、操船性能を考慮して、推進器は可変ピッチ・プロペラとされた[3][4]。
船首楼直後のウェルデッキには、6,000メートルの深度に対応可能な採水・採泥兼用の低油圧式大型巻揚機が設置された[3]。またこのほか、中深海用音響測深機、LORAN、デッカ航法装置、デコメーター、電磁海流計、自記水温計、サリーメーター、放射能測定器を有していた[4]。
船歴
[編集]初代船長は、第五海洋丸の同型船にして、その最後の生き残りであった「第四海洋」でも初代船長を務めていた佐藤孫七であった[5]。
昭和42年度より、海の基本図作成業務に従事した。その後、昭和63年度計画で建造された同名船によって更新され、1990年に運用を終了した[3]。
参考文献
[編集]- ^ a b c d 海上保安庁総務部政務課 編『海上保安庁30年史』海上保安協会、1979年、351頁。 NCID BN0418998X。
- ^ a b Bernard Prezelin (1990). The Naval Institute Guide to Combat Fleets of the World, 1990-1991. Naval Institute Press. p. 333. ISBN 978-0870212505
- ^ a b c d e 「海上保安庁全船艇史」『世界の艦船』第613号、海人社、2003年7月、118頁、NAID 40005855317。
- ^ a b c 徳永陽一郎、大塚至毅『海上保安庁 船艇と航空 (交通ブックス205)』成山堂書店、1995年、106頁。ISBN 4-425-77041-2。
- ^ 朝尾紀幸「観測機器が伝える歴史≪14≫」『水路』第162号、日本水路協会、2012年7月、33-39頁。