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徳川頼倫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
德川 賴倫
とくがわ よりみち
勲一等太極章を佩用した賴倫(1907年頃)
生年月日 1872年7月28日
出生地 日本の旗 日本 東京府本所横網町
(現:東京都墨田区
没年月日 (1925-05-19) 1925年5月19日(52歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府豊多摩郡代々幡町
(現:東京都渋谷区
出身校 学習院中等学科退学
前職 日本赤十字社常議員
所属政党 研究会
称号 正二位
勲一等瑞宝章
侯爵
配偶者 徳川久子
子女 長男・徳川頼貞
三男・徳川治
親族 養父・徳川茂承(貴族院議員)
兄・徳川家達(貴族院議長)
兄・徳川達孝(貴族院議員)
義弟・伊達宗陳(貴族院議員)

選挙区 侯爵議員
在任期間 1906年9月7日 - 1925年5月20日[1]
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德川 賴倫(とくがわ よりみち、1872年7月28日明治5年6月23日[注釈 1][2] - 1925年大正14年〉5月19日)は、日本政治家実業家紀州徳川家第15��当主。位階正二位勲等勲一等爵位侯爵は「らいりん」と音読みすることもある[3]新字体での表記は徳川 頼倫

貴族院議員貴族院仮議長(2回)、宗秩寮総裁南葵文庫総裁、南葵育英会総裁、日本図書館協会総裁、史蹟名勝天然紀念物保存協会会長、十五銀行取締役日本赤十字社常議員、華族会館評議員、帝国海事協会評議員などを歴任した。

生涯

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明治5年(1872年)6月23日、田安徳川家第8代当主・徳川慶頼の六男として東京府本所横網町(現在の東京都墨田区横網一丁目)の田安邸で生まれる。生母は沢井八重子[4]幼名藤之助

明治13年(1880年2月2日、紀州徳川家第14代当主・徳川茂承の養子になり頼倫と改名した。明治18年(1885年)に学習院に入学したが、成績不振により学習院中等学科を中退し、山井幹六の養成塾に入った。また、三宅米吉津田梅子英国人のアーサー・ロイド慶應義塾教授)、米国人のウィリアム・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学英語を修めている。鎌田栄吉によると、養子となった頼倫の不成績を快く思わない旧紀州藩士が多く、頼倫自身も陰気になっていたという[4]。明治23年(1890年9月14日に養父の長女である久子と婚姻する。

明治29年(1896年)、イギリスケンブリッジ大学留学して政治学を専攻。留学中には南方熊楠の案内で大英博物館を見学したり、熊楠を介して孫文と出会ったりしている[注釈 2]。明治31年(1898年)に2年間の留学と欧州視察を終えて帰国。 明治35年(1902年)4月に東京市麻布区飯倉町六丁目14番地(現在の東京都港区麻布台一丁目)の邸内に南葵文庫を設立。古書の散逸を防いだ[5]

明治39年(1906年8月21日家督を相続し、9月7日に襲爵[6]、貴族院議員となる。明治44年(1911年)に数十万円の基金を拠出して南葵育英会を設立し、和歌山県出身の就学困難者に奨学金の貸与や学生寮の提供などを行う一方、南葵育英会の賛助者を募るため、和歌山県をはじめとして全国各地の行脚を試みた。

大正2年(1913年6月15日市島謙吉和田万吉の要請で日本図書館協会総裁に就任する。大正10年(1921年)に内閣総理大臣高橋是清内閣改造を模索していた頃、頼倫は研究会立憲政友会の仲介人として注目され、実現のために坐漁荘元老西園寺公望を訪ねたが、政友会内部の対立により内閣改造は沙汰止みとなった[4]。大正11年(1922年6月3日宗秩寮総裁に就任し、在任中は宮中某重大事件直後に起こった朝融王の婚約破棄事件の処理に尽力した。

大正13年(1924年)8月に狭心症の発作で失神したこともあり、大正14年(1925年1月18日から和歌山県の和歌浦湯崎温泉で療養を行った。同年3月31日に帰京し、快癒後は毎日宮内省に出勤するようになり、5月18日も徳川家理事会を欠席して出勤した。同日19時に東京駅李鍝を見送り、22時に豊多摩郡代々幡町代々木上原1177番地(現在の渋谷区上原)の本邸に帰宅した。その直後、顔面蒼白となり苦痛を訴えたため医師が応急処置を施したが、翌5月19日午前0時10分に死去した。52歳没。死因は心臓麻痺。同日付で勲一等瑞宝章を受章し、特旨により正二位に叙された。遺体は特別列車菩提寺長保寺へ移送され、同年6月3日に埋棺式が行われた。戒名は樹徳院殿□城高節大居士。家督は長男の頼貞が継いだ。

人物

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栄典

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系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 戸籍上は8月1日旧暦6月27日
  2. ^ 津本陽『巨人伝』に詳しい。

出典

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  1. ^ 『官報』第3822号、大正14年5月22日。
  2. ^ a b 内村義城編『紀伊南龍公』 木国史談会、1914年 doi:10.11501/950730
  3. ^ Annual report of the Minister of State for Education : abridged 1925-1926. Department of Education [文部省]. (1930). p. 179. doi:10.11501/1680069 
  4. ^ a b c 上田貞次郎日記(壮年編)』上田貞次郎日記刊行会、1964年。
  5. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、311頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  6. ^ “敍任及辭令”. 官報: 132. (1906-09-08). doi:10.11501/2950301. https://dl.ndl.go.jp/pid/2950301/1/3. 
  7. ^ 武内善信「徳川頼倫」(松居竜五, 田村善也 編『南方熊楠大事典』(勉誠出版, 2012), p.414
  8. ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
  9. ^ 『官報』第4491号「叙任及辞令」1898年6月21日。
  10. ^ 『官報』第8193号「彙報 - 褒章」1910年10月11日。
  11. ^ 『官報』第7210号「叙任及辞令」1907年7月12日。
  12. ^ 『官報』第8300号「彙報 - 褒章」1911年2月24日。
  13. ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
  14. ^ 『官報』第8306号「彙報 - 褒章」3月3日。
  15. ^ 『官報』第8419号「彙報 - 褒章」1911年7月15日。
  16. ^ 『官報』第264号「彙報 - 褒章」1913年6月17日。
  17. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  18. ^ 『官報』第419号「彙報 - 褒章」1913年12月19日。
  19. ^ 『官報』第495号「彙報 - 褒章」1914年3月26日。
  20. ^ 『官報』第878号「彙報 - 褒章」1915年7月6日。
  21. ^ 『官報』第1143号「彙報 - 褒章」1916年5月25日。
  22. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  23. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  24. ^ 『官報』第1192号「叙任及辞令」1916年7月21日。
  25. ^ 『官報』第1422号「彙報 - 褒章」1917年5月1日。
  26. ^ 『官報』第1982号「叙任及辞令」1919年3月14日。
  27. ^ 『官報』第2486号「彙報 - 褒章」1920年11月13日。
  28. ^ 『官報』第2712号「彙報 - 褒章」1921年8月15日。
  29. ^ 『官報』第2859号・付録「辞令」1922年2月15日。
  30. ^ 『官報』第2766号「彙報 - 褒章」1921年10月20日。
  31. ^ 『官報』第2996号「叙任及辞令」1922年7月27日。
  32. ^ 『官報』第3296号「叙任及辞令」1923年7月25日。
  33. ^ 『官報』第3585号「叙任及辞令」1924年8月5日。
  34. ^ 『官報』第3821号「叙任及辞令」1925年5月21日。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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公職
先代
倉富勇三郎
総裁事務取扱
宗秩寮総裁
1922年 - 1925年
次代
倉富勇三郎
総裁事務取扱
その他の役職
先代
(新設)
史蹟名勝天然紀念物保存協会会長
1911年 - 1925年
次代
若槻礼次郎
先代
東久世通禧
麻布区教育会会長
1912年 - 1925年
次代
徳川義親
先代
(新設)
海軍協会会長
1918年 - 1925年
次代
内田嘉吉
先代
鍋島直大
東京地学協会会長
1922年 - 1925年
次代
細川護立
先代
(新設)
聖徳太子奉讃会会長
1924年 - 1925年
次代
細川護立
日本の爵位
先代
徳川茂承
侯爵
(紀州)徳川家第2代
1906年 - 1925年
次代
徳川頼貞