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弥八地蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

弥八地蔵(やはちじぞう)は、岐阜県岐阜市弥八町にある地蔵尊である。

弥八地蔵の竜宮門

歴史

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加賀野井弥八郎之碑

弥八地蔵の由来は諸説あるが、戦国時代、織田信長の家臣加賀野井駿河守重信の子弥八郎が、埋葬地として開いたのが始まりといわれる[1]

この地は「弥八三昧(やはちざんまい)」と呼ばれ、慶長十四年(1906年)の大久保石見守の検知では、東西百二十五貫、南北九十四貫の範囲であった[2]。安永四年(1775年)頃には、岐阜町、小熊村、今泉村、上加納村の共同墓地で、尾張藩の御仕置場でもあった[3]

戦前は、若宮町通りは狭く、置屋もある色町であった。女性の参拝者が多かった。1940年(昭和15年)頃は立像ではなく、寝釈迦が本尊だったと伝えられている。 1945年(昭和20年)の岐阜空襲の時、鐘は供出し、木造の鐘つき堂も消失する。まだ、焼け野原だったころ、浮浪者が大勢境内で寝起きしていた。柳ケ瀬の人々からプランが持ち上がり、劇場の舞台づくりの経験がある柴田光次郎が、工事を引き受ける。10メートルあまりのそびえ立つ地蔵が1か月で完成したが、中は木箱で空洞であった。繁華街のシンボルとなり、主として花柳界の人たちが商売繁盛を祈った[3]。子安地蔵や、力地蔵水かけ地蔵など色とりどりの地蔵があり、朝から参拝の人が絶えず、毎月24日のお地蔵さんの命日はとりわけ参拝者が多かった[4]

1994年(平成5年)、竜宮の形の楼門が建設された。設計は司設計事務所、施工は坂口組。

境内

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竜宮門をくぐると、参道の左右に多数の地蔵が並んでいる。参道の左には荼枳尼天をまつったお堂、右手奥には弥八地蔵尊をまつった本堂、その向かい側に水かけ地蔵がある。境内には飲食店が並んでいる。

竜宮門

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コンクリート製(1994年4月建造)。かつては、2丈(約6メートル)余りの子安地蔵が安置されていた[5]。子安地蔵は、一度拝むと良縁がまとまり、子宝に恵まれるとされた[5]

荼枳尼天

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荼枳尼天

境内に入って左側にある。

水かけ地蔵と手水舎

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水かけ地蔵

正面奥左側にある。無病息災のご利益があるとされている[6]

本堂

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境内奥の右側にある。

弥八地蔵尊

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かつて六体安置されていた石地蔵のうちの一体が、現在本堂に安置されている[7]

無量壽院誓安寺

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境内には無量壽院誓安寺があり、弥八地蔵は誓安寺が管理している[6]。誓安寺は、かつて伊奈波神社付近にあったが[4]、1916年(大正5年)、現在地に移転した[8][6]

エピソード

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  • 斎藤道三織田信長の時代、弥八地蔵のある柳ケ瀬一帯は、岐阜城下町から加納にある中山道までの通り道だったため、許されない恋をする人たちの密会の場所になっていた。
  • 明治時代、柳ケ瀬金津園ができたころ、花魁たちがお客との逢引の場として弥八地蔵を密会の場所としていた[9]
  • 大正時代、「幽霊松」と呼ばれる松があり、尾張から参拝する者たちの目印となっていたが、落雷により枯れてなくなった[4]

交通アクセス

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  • 所在地
    • 〒500-8827 岐阜市弥八町22番地
  • バス
    • 岐阜バス 柳バス(濃姫バス) 「弥八地蔵前」バス停下車すぐ[10]
    • 岐阜バス 「柳ケ瀬」バス停下車徒歩5分

参考画像

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脚注

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  1. ^ 市史 1969.
  2. ^ 市史 1969, p. 482.
  3. ^ a b わがまち明徳 1983, p. 83.
  4. ^ a b c 「柳ケ瀬・第6部2:中身は木箱で空洞 弥八地蔵」,岐阜日日新聞,1975年8月24日朝刊,14面
  5. ^ a b 『いろは郷土史』,岐阜タイムス社,1952年9月3日
  6. ^ a b c わがまち明徳 1983, p. 73.
  7. ^ 高牧 1980, p. 204.
  8. ^ 市史 1969, p. 484.
  9. ^ 「やながせ 4」,岐阜日日新聞,1960年9月8日,東海夕刊,3面
  10. ^ 岐阜バス 柳バス(濃姫バス)”. 2017年11月23日閲覧。

参考文献

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  • 近藤, 隆之介『岐阜県名所旧蹟案内・上編』美濃新聞社、1907年。 
  • 平塚, 正雄『濃飛史譚』岐阜県人協会、1967年。 
  • 岐阜市役所『岐阜市史(復刻版)』岐阜県郷土資料刊行会、1969年。 
  • 高牧, 實『わが町の歴史・岐阜』文一総合出版、1980年。 
  • 記念誌編集委員会『わがまち明徳 1983』明徳記念事業執行委員会、1983年。 
弥八地蔵が取り上げられている文献
  • 『続 岐阜のつたえ話』岐阜市教育文化振興事業団・岐阜市生涯学習センター 2006年
  • 『美濃國 郷土史壇』第6巻第12号 1940年

関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯35度25分14.6秒 東経136度45分32.4秒 / 北緯35.420722度 東経136.759000度 / 35.420722; 136.759000